8月9日、長崎に原爆が投下されてから76年が経つ。広島に続き、人類史上2発目の原子爆弾が投下されたことで、7万人以上が犠牲になった。
核兵器の凄惨さを忘れないために、当時の写真や記録を振り返る。
8月9日、何が起きたのか
8月6日、世界初の原子爆弾(ウラニウム爆弾)「リトルボーイ」が広島に投下された。
その3日後の8月9日午前2時47分、太平洋に浮かぶ北マリアナ諸島のテニアン島からプルトニウム型の原子爆弾「ファットマン」を積んだ爆撃機B29「ボックスカー(Bockscar)」が離陸した。
その前日の8日には、ソ連が日本に対して宣戦を布告し、翌9日未明にソ連軍が満州に一斉に侵攻していた。
投下の第1目標は福岡県・小倉(現在の北九州市)だった
米軍の記録によると、ボックスカー号は8時15分に屋久島に到着。午前9時44分、投下の第1目標であった福岡県の小倉市(現北九州市)に到達した。当時の小倉市には、西日本で最大級の兵器工場があった。
しかし、小倉付近はもやと煙で覆われており、視界不良のため投下を断念した。原爆の投下は、レーダーではなく目視で行うことを厳命されていた。視界不良は、前日の八幡大空襲による火炎が影響したとも言われている。
ボックスカー号は、第2目標だった長崎に移動。10時50分に長崎に到着した。
機長チャールズ・スィニー少佐の手記によると、長崎も同じく雲に覆われていた。燃料切れが近づく中、爆撃手が雲の切れ間から市街をわずかに確認したという。
そして、午前11時2分、高度9600メートルの上空から原子爆弾(プルトニウム爆弾)が投下された。
爆弾は松山町171番地の上空約500メートルでさく裂。爆発によって発生したすさまじい爆風と熱線、放射線は街に甚大な被害をもたらした。
7万人以上が犠牲になった
爆心地から1キロ以内の区域では、強力な爆発圧力と熱気によって、住民のほとんどが即死したといわれている。家屋やその他の建物などは紛砕し、爆心付近は同時に焼失した。そして、同時に強力な火災が発生した。
当時、長崎の人口は24万人だった。原爆の投下によって、そのうち7万人以上が1945年の年末までに死亡したと言われている。
1950年に発表された長崎市原爆資料保存委員会の報告によると、死者は7万3884人、重軽傷者7万4909人と推計されている。なお、このほかにも1927人の行方不明者がおり、いずれも亡くなったと考えられている。
終戦へ
ソ連の宣戦布告を受け、8月9日午前10時半すぎから鈴木貫太郎首相や東郷茂徳外相ら6人が出席した最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾条件について話し合われた。
朝日新聞(2007年8月30日朝刊)によると、会議は紛糾し、同日午後11時50分から昭和天皇が臨席した「御前会議」が始まる。日をまたいだ8月10日午前2時30分、「国体護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定。
14日に再び御前会議が開かれ、昭和天皇がポツダム宣言受諾の意思を表明し、「終戦の詔書」が発布された。そして、15日正午、詔書を朗読した音声がラジオで全国放送(いわゆる「玉音放送」)され、日本は終戦を迎えた。