実家の母が、「一人暮らしをしてみたい」と言い出した。還暦まであと数年に迫っていた。
そしていま、東京のベッドタウンから、縁もゆかりもない地方都市へと移住し、実際に一人暮らしをしている。仲が悪いわけではないのだが、実家で一緒に暮らした家族5人はいまバラバラに暮らしている。
今回、息子の僕から母にインタビューをしてみた。これは、母と家族の自立の話だ。
「“お母さん”は中心にいなきゃいけないと思ってた」
実家では、父、母、僕、3歳下の弟、9歳下の弟の5人で暮らしていた。父が営業職などの仕事をし、母は主婦をしていた。父も協力的ではあったが、家事・育児は約30年にわたって主に母が担ってきた。
兄弟が大人になってからも、母は家族のケアをしていた。僕は8年前に結婚して妻と娘とともに実家から近い賃貸アパートに住んでいるが、何かと実家の母を頼ってきたところがある。いざというときに娘の保育園のお迎えをお願いしたり、休日に娘を預かってもらったりしていた。
「中心にいなきゃいけないと思っていたよ。“お母さん”とはそういう役割だと意識していたから」
父は、若い頃に航海士の仕事で単身赴任していた。しかし子育てを始めるとき、「単身赴任では家族の意味がない」と言って、毎日家に帰れる“陸の仕事”に転職したそうだ。僕たちがある程度成長してから、また航海士に戻っている。普段は海上の船のなかで暮らして、休暇になると実家に帰ってしばらく過ごし、また海に出る。
母が移住するきっかけとなったのは、実家から離れて久しい上の弟から、ふと「何かやりたいことないの?」と問われたことだった。
「聞かれたときに、何気なく『一人暮らしと旅をしてみたい』と言ったんだよ。中心にいなきゃいけないと思っていたけど、いろんなものから一度解放されたいと感じてたんだと思う。
『(一人暮らしを)してみればいいじゃん』とすぐ言われて、無理だろうと思いつつ、ワクワクしたんだよね。1年過ごしてみて一人暮らしをしてみたい気持ちが変わらなければ実行しようと思った。それで半年ぐらいしてみたら、不安よりも楽しみが大きくなってた。
それに、1年の間に誰も反対する人がいなかったんだよね。お父さんも『いいんじゃない?』と背中を押してくれた。移住してからは、下船・乗船する地域がうまく合うときは、こっち(移住先)に遊びに来てくれてるよ」
第一子の僕に発達障害があった
母がこれまで、僕たちが大人になってからも家族をケアしようとしたのは、僕の発達障害によるところが大きいと思われる。
幼い頃は、登園・登校拒否をしていた。対応していたのは母だった。
「いまみたいに(発達障害の)情報があるわけでもなくて、(あなたに)悪いことをしたなと思ってる。あなたは慣れない場所がすごく苦手でいつも怖がっていたから、ディズニーランドに行っても乗り物に乗れなくて。いまの子たちなら理解してもらえるけど、当時はわからなくて、『なんで?怖くないよ』『ここを急がないと間に合わないんだよ』と言って、無理に慣れさせようとしていたよね。『せっかく来たのに乗れないじゃん』って。
学校も同じで、無理に行かせようとして、苦しませていた。全部、あなたの視点が全くなくて、大人の都合で接してしまっていたんだと思う」
僕は26歳になってから発達障害と診断を受けた。それまでに、結婚し、娘を育て、会社を休職したり辞めたりして、妻との関係が崩れかけて、ボロボロになっていた。
「近くにいるべきだなと感じてた。それは、〇〇ちゃん(僕の妻)のためにも、〇〇(僕の娘)のためにも。
いちばんホッとしたのは、あなたが発達障害だとわかったときだった。『原因はこれだったのか!』って。学校に行けなかったときのことも、ディズニーランドのことも、それにあなたが赤ちゃんの頃に何もわからなくて私がひとりで泣いていたときのことまで一気に思い出せた。対処がわかれば大丈夫だ、と妙にホッとした」
母は、それから発達障害について学び始めて、僕が幼い頃の子育ての困難を整理していったそうだ。YouTubeで発達障害に関する講演を聞いたり、当事者の子どもたちが育てられる様子を見たり、本を読んだりした。
「ふと考えると、あなたのことは『過剰に心配してしまっていたんじゃないか?』と思った。『離れてもいいじゃん』って。
大学生の〇〇(下の弟)を家に残すのは少し心配だったけど、逆に、家にいて守ってくれている間がチャンスだと思った。郵便物も見てくれるしね。今後、彼が別の場所で一人暮らしをするときのためのステップにもなるかな、と思った。
還暦が近づいてきて、体力がなくなっていくのを実感するから、早く実行しないともう(一人暮らしが)できなくなると思った。いまは遠くに来て、ゆっくりとものを考える時間ができて、何が難しかったかよくわかる。浄化されていく感じがする」
僕は新しい家族をつくって、自立したような気分になっていた。しかし、母を自由にさせられていないうちは、僕も自立しているとは言えなかったのかもしれない。
近くに住む母に“孫育て”へと参加してもらい、役割を持たせることが、母にとっての豊かな人生につながるのではないか、と偉そうに考えていた。しかし、結果的には母の自立を阻害していたのではないかと反省した。
家族は依存型から自立型へ、トランスフォームしていく
「これでみんな自立したんだろうね」と母が言った。
いま現在、家族5人全員が別々の場所に住んで、やりたいことをやっている。父は若い頃からやっていた航海士の仕事に戻った。僕はライターの仕事。上の弟は、海外で暮らしたり、ソムリエの資格を取ったりして、いまは地方で楽しそうに暮らしている。下の弟は、大学院進学を目指して、ひとりの実家で受験勉強をしている。
母は移住を実現し、現地でパートタイムの仕事をしながら、「100のやりたいことリスト」を作って、ひとつずつ取り組んでいる。
「自立」は連動していると僕は感じた。僕たち家族はかつて、母によるケアに依存していたのだろう。しかし、いつしか誰もケアを必要としなくなっていた。母は、弟との会話からそれに気づいたとき、反対に家族へ依存しようとは考えなかった。1年かけて、自分自身のやりたいことに向かっていった。
家族が、中央依存型から分散ネットワーク型にかたちを変えたのだ。
僕たちは各々がたくさんのコミュニティに属しているが、家族はなかでも歴史が長く、接した時間の多いものだ。それ以上の意味があるのだろうか。
「家族の条件」を考えてみたが、共通解は思いつかない。一緒に住んでいること、ではないだろう。血のつながりでもない。人によっては縁を切って、「実家」を抜けるのも選択肢だ。
僕はたまたま、「実家」で過ごした時間がどちらかと言えば悪くはなかったから、いまでも「実家」に参加している。それだけかもしれない。
自立し、「参加したい」と思えているうちは、家族はトランスフォームしながら、関係を維持していける気がする。かたちにこだわらなくてもいいし、関係を維持することに固執する必要さえない。
「一生のうち、いまたった数年間の一人暮らしをするだけでも、すごく充実した人生に変わると思った。自由に一人暮らしして満足したら、あとから家族の大切さがもっとわかるかもしれないね」
還暦前の母の人生は、きっとまだまだ長い。大黒柱が終身雇用で働く時代は終わった。社会環境の変化に合わせて、家族観も変化させていけると心地よいのではないだろうか。
コロナが落ち着いたら、母がいま住む街へ、ふらっと遊びに行こうと思う。
参考資料:
村上龍『最後の家族』(幻冬社)