東京オリンピック開会式のあまりにも無残な出来への怒りと失望の声がネットに溢れている。
オリンピックの歴史に残る高額の費用で開催される今大会。開会式は全世界が注目する式典で、国内外に日本の印象をアピールする文化芸術的な意義も高い場だ。観光客や留学生、移住者を呼び込んだり、日本に対して良い印象を持ってもらう本当に貴重な機会であり、政治経済的にもとてつもなく大きな影響を与えるはずの舞台であった。
それがどうして、あれほど脈絡なく、幼稚で、メッセージ性や思想にも乏しく、退屈なものに出来上がってしまうのか。
国家の威信や、愛国心の養成という観点から考えても得はないだろうに、と思うのだが、それは多くの人々がすでに指摘している通り、広告代理店や日本の公共政策に存在している構造的な問題ゆえであろう。
高額の予算を使って貧相な結果しか出ない。今回のような失敗が文化芸術の話だけではないならば、日本の未来に暗い影を感じるのは筆者だけではないだろう。
「多様性と調和」という大会理念の主題に関しても、大坂なおみ選手を聖火を着火する係に起用するなどして、テーマを象徴する表現を試みた点は個人的には評価したい。ただ、日本が多様性を尊重する社会には程遠い現状や、過去も含めて大会関係者の差別的な言動が相次いだことを考えれば、中身の伴わない「演出」も同然だ。
日本選手団に「スマホ禁止」を強要する規律のあり方は、「多様性」ではなく「(規律訓練による見せかけの)調和」の方に重点があることがありありと見えて、ウンザリした。
日本選手団の中にも、派手な髪の色にしたい者や、例えばADHDなどでじっとしているのが苦手な者もいるはずである。それを許容しあうのが多様性ではないか。他の国の選手は寝っ転がってスマホを見ていたり、バッハ会長が演説をしている後ろでジャンプしてカメラに移りピースサインを送ったりしていたが、それと比較すると、日本における「多様性と調和」の狭さが際立つようにも見えた。
そんな中、森山未來のパフォーマンスだけは、胸のすくような見事なものだった。コロナ禍における無観客で、全世界で400万人近くの死者が出ている中で行われる「祝祭」的なイベントという困難に本気で立ち向かった、非常に知的な誠実なパフォーマンスであった。
どんなパフォーマンスだったか
会場全体は青い、ベルベット色の照明で照らされる。会場アナウンスでオリンピック大会の最中に命を落とした人たちへの追悼メッセージが述べられる。特に、1972年のミュンヘンオリンピック中に殺害されたイスラエル選手たちを「象徴」として追悼すると語られる。「象徴」はこのパフォーマンス全体のキーワードだ。
暗い、荘厳な雰囲気の中、一部分だけにスポットライトが当たっている。丸い、苔を思わせる物体が少しずつ大きくなっていったかと思うと、倒れ、灰のようなものが散る。やがて徐々にそれは立ち上がろうとするが、また倒れしまい、それが人間だと知れる。やっとのことで立ち上がると、白い衣装だが、汚れているようにも見え、難民や浮浪者、被災者らを思わせるような出で立ちの、森山未來が現れる。表情は虚ろで、笑顔や明るさはない。
両手を広げ、少し上を向き、超越的なもの、霊的なものを「受け取って」「憑依させる」かのような動きをしたのちに、地面に向けて上半身を投げ出し叩きつけるかのような動きを繰り返したのち、正面に向かって土下座するかのように、うずくまる。この後、天皇陛下、IOC会長、首相らを含む会場の全員で黙祷が捧げられた。
パフォーマンスを巡ってはネット上で「怖い」「意味不明」などの反応もあったが、筆者は、今記述した一連の箇所は、このオリンピック開会式の他の失点を補って余りある素晴らしいものであると感じた。この箇所があることで救われたと言っていい。コロナ禍での無観客開催という窮地を、オリンピックの歴史に二度とないだろうパフォーマンスの舞台にすることで、その意味に変えてしまったのだ。
競技場の真ん中に「仏教」を持ち込む意味
身体を地面に投げ出す動きは、五体投地(ごたいとうち)と呼ばれる、仏教におけるかなり強い意味を持つ礼拝の方法だ。インドやチベットで行われているが、国内では東大寺の修二会(しゅにえ=毎年2月に人々の幸福を祈るために開かれる行事)で行われるものが有名だ。
筆者は修二会のドキュメンタリーを見たことがあるのだが、今回の森山のパフォーマンスが明らかにこの儀式を踏襲しているとわかる。様々な霊を慰霊し、豊饒を願う。そのために僧侶たちが様々な罪を担い、懺悔を繰り返す儀式だ。慰霊の対象は殺害されたイスラエル選手だけではない。後に述べるように、日本古来の芸能「能」の技法を使うことにより、様々な罪と死者をひたすら引き受けた、重層的な慰霊と懺悔なのである。
修二会で五体投地をするのは、内陣で須弥壇(しゅみだん)の周りをひたすらぐるぐる走る儀式、「走りの行法」においてだ。この儀式は、ある種のトリップの感覚をもたらし、現世とは違う仏の世界に行く行為になるらしい。これを陸上競技場の真ん中でやることは、当然、競技そのものを仏教的な儀式に「見立てる」視点に誘う。
修二会では最後にたくさんの火の粉を撒き散らすが、新国立競技場の屋根をぐるりと周りながら打ち上げられた花火もまたこれに見立てることができる。
世界にどこまで通用したかはいささか疑問が残るが、西洋的な近代オリンピックを、理念的に簒奪(さんだつ)して別のものにしてしまう野心的で知的な演出である。
ザハ・ハディドが象徴するクリエイターの未練
この舞いを理解するためにもう1つ重要なのは、森山未來が岡田利規演出の舞台『未練の幽霊と怪物』の中で、新国立競技場のデザインコンペで選ばれながらものちに降ろされた故ザハ・ハディドを演じていたことである。
森山が開会式でのパフォーマンス後に自身のInstagramに「最後に『未練の幽霊と怪物』の作・演出である岡田利規さんに、最大のリスぺクトを」と書いていることからも、開会式での舞いがこれを参照したと示唆されている。
この岡田の舞台は「能」を参照しており――芸術公社主催の「みちのくアート巡礼キャンプ2017」に筆者が参加した折に、岡田さんが能の話をされていたことを深く思い出しながら書くのだが――能の中にある「死者」への慰霊や、怨念や悔恨を呼び出して浄化する儀式という側面を、東日本大震災以降の現代に蘇らせようと試みた作品だった。
能における主役「シテ」は、人間が演じるが、幽霊や亡霊や神などが憑依してきて、目の前に顕現(けんげん)している(かのように見る)という構造になっている。
『未練の幽霊と怪物』の中では、ザハ・ハディドと高速増殖炉もんじゅの霊が降りてくるのだが、森山はここでシテとしてザハを憑依させていた。
オリンピック開会式での舞いも、このような能の文脈で理解されるべきだろう。
「能」の文脈を通して見てみると…
ザハが象徴するのは、このオリンピックで不本意に去ることを余儀なくされたクリエイターの無念、「こうしたかった」「こうあればよかった」という怨念だ。コロナ禍がなければ、という「未練」の思いなど全てを象徴している。森山はそれらを全て引き受け、開会式の中心で、”土下座”し謝罪しているのである。
能の表現は高度に象徴化されているので、東日本大震災の被災者、コロナ禍で犠牲になった者、オリンピックによって踏みつぶされた弱者、それら全ての怨念を引き受け、浄化させようとして土下座しているとも見なせる。
さらに能には、弱者や被征服者、敗者たちへの深い共感がある。源平の戦争での敗北者や、朝廷に従属しなかった者たち、不遇な境遇に陥ってしまった女性たち、差別される者や異形の者への深い共感と理解があり、その恨みをひたすら引き受けて浄化を願う。怨霊は何度でも再帰する、それゆえ舞台は繰り返し演じられる。何度でも受け止め、浄化させようとする。
こうした能がもつ隠喩や象徴の側面ゆえに、それはミュンヘンで殺害されたイスラエルの選手たちへの追悼だけではなく、その背景にあるパレスチナの問題、そのさらに背景にあるナチスドイツのユダヤ人迫害、中東での争い、冷戦などの、罪と憎悪の連鎖とも多重化されているだろう。もしかすると第二次世界大戦前後の東アジアでの行為への罪の意識や、謝罪も含まれているかもしれない。
森山未來の見事な舞い。
それは複雑に折り重なった怨念と罪の全てを引き受けて浄化し平和を祈願する、そのようなパフォーマンスだったように筆者には見えた。
数多くの失望感に包まれたオリンピック開会式において、このような舞いを中心に据えた点は、精神的にも倫理的にも芸術的にも、他の全ての欠点を補って余りある、優れて高度な行いだったといえるのではないだろうか。
(文:藤田直哉/編集:南 麻理江)