6月初旬。都内のある駅前。
待ち合わせた純喫茶は薄暗く、静かだった。
カランコロンと古風にベルが鳴る。二度見をしてようやく、人影が待ち人だったと知る。
「すいません、お待たせしてしまって」
あわてた様子で椅子に座ると、少しだけ顔をしかめる。
「木の椅子、痛いんですよね。ケツの肉がなくなってしまって」
別人のような横顔。半年で体重が…
野田昇吾さんは昨年まで、プロ野球・西武ライオンズの中継ぎ投手だった。
2015年にドラフト3位で入団すると、プロ3年目の2018年には中継ぎ投手の主力に。
年間58試合に登板し、チームの10年ぶりリーグ制覇に大きく貢献した。
好調な時は150キロに迫る速球で相手をねじ伏せた。
がっちりと鍛え上げられた身体を、ダイナミックに躍らせて投げる。身長167センチの小柄な身体が、マウンド上では大きく見えた。
だからこそ、店に入ってきた人影が、彼とは即座にわからなかった。
別人のようにほっそりとした横顔で、野田さんは言う。
「今は53キロくらいですね。体脂肪は3%。半年で23キロ痩せました」
やがて目の前におかれたコーヒーに、少しだけ口をつけてから、彼はつぶやく。
「養成所の試験、いよいよです」
妻に言った「全く違う考え」
昨年11月。
野田さんは西武ライオンズから戦力外通告を受けた。
とはいえ、まだ27歳。
実績を考えても、他球団での再起の余地は十分にあるとみられていた。
だが、本人の考えは違った。
「ライオンズでプレーを続けたいという気持ちは強かったです。でも、それがかなわなくなった。その時に、まったく違う考えが自分の中に生まれて」
そして、結婚して間もない妻にこう告げた。
「ボートレーサーになりたい」
直後の12球団合同トライアウトにこそ参加した。
だが、その翌日から減量を開始。1週間後には、SNS上でプロ野球選手引退を宣言した。
死亡事故も...危険な現場
ボートレーサー、と言われても、仕事の現場を想像できる人は多くないだろう。
時速80キロにまでスピードを上げてから、急角度のカーブに突っ込む。
華麗なターンはファンを魅了するが、時として事故も起きる。
転覆すれば、ほかのボートに衝突される可能性は高い。
船体にぶつかるだけでも大変なことだ。さらに、1秒間に100回転するプロペラに巻き込まれることもある。
昨年、レース中に死亡事故が起きたばかりでもある。
仮に稼ぎが少なくとも、安全な仕事についてもらう。それにあわせてつつましい暮らしをする。それでも十分に幸せだと、彼の家族は考えていた。
それでも野田さんは「やらせてほしい」と譲らなかった。
70年ぶりの「転身」
野田さんは、2015年に西武からドラフト3位指名された。
その時点では、現役のプロ野球投手で最も身長が低かった。
その体格でも150キロ近くの速球を投げて活躍したが、その分身体には負担がかかった。
結果として左肩痛で球威を落とし、現役生活わずか5年で戦力外通告を受けるに至った。
だが、ボートの世界では、その身長の低さが逆に強みになる。
身長に関係なく、最低体重制限は52キロ。そこに限りなく近づけておくことが、勝てる船速を出すための最低限度の準備になる。
当然、小柄な方が体重管理はしやすい。
だからなのだろう。プロ野球選手からの転身は実に70年近くもなかった。
日本モーターボート競走会によると、1947年に1年間だけ阪急でプレーした早瀬猛さんが、のちにボートレーサーになったのが最後だという。
プロ野球は多くの選手が180センチ以上の体格だから、セカンドキャリアの選択肢に入ってこなかったのだろう。
この小さな身体で、1軍のマウンドに立つために。
左肩などに負荷がかかったのは仕方ないと、野田さんは受け止めている。
だが一方で「自分の体格で優位に立てる世界があれば」と思うこともあった。
ボートレースはまさにそういう世界だった。
たった一つ。球界での「心残り」
「それに、やり残したこともある」
野田さんは家族にそう訴えた。
野球自体は「やり切った」と感じていた。
その証左に、トライアウトを最後に、現在に至るまで一度もボールを握っていない。
ただ、心残りが1つだけあった。
「医療機関の人に恩返し、というのが一度もできなかった」
実は野田さんは生後すぐに、難病で生死の境をさまよっていた。
川崎病。42度の高熱が続いていたと、両親から聞かされた。
当初は「おそらく後遺症が残ってしまう」と告げられていたという。
だが、病院の医師やスタッフの尽力で回復し、後遺症もなくて済んだ。
「お前が元気に野球がやれているのは、医療機関の皆さんのおかげなんだぞ」
そう言われながら育った。
プロ3年目、チームのパ・リーグ制覇に大きく貢献できた時も、真っ先にそのことを思い返した。
この立場にいられるのは、医療機関の皆さんのおかげ。
だから、この立場を生かして、今こそ恩返しをしなければ。
無念の発表「寄付金は1万5000円」
そこから1年をかけて、野田さんは準備を進めた。
そしてプロ4年目のオフ、満を持してチャリティ企画を立ち上げた。
登板数当たり5000円を医療機関に寄付する。中継ぎ投手ならではのやり方だった。
だがこの時すでに、酷使してきた左肩は、限界を迎えていた。
翌2020年。野田さんは登板3試合に留まり、そのまま戦力外通告を受けた。
何より残念だったのは、寄付金を「1万5000円」と発表せざるを得なかったことだ。
もともと、自分がいくら寄付できたところで、微々たるものだとは思っていた。
だがここまで少額では、世の中に対するメッセージにもならない。
世の中から注目される立場を生かして「みんなで医療機関に感謝を」と訴えたかったのに…
それができるのは、プロアスリートだからこそ、と思っていたのに…
「愚直な思い」に家族は...
なんとしても、プロアスリートであり続けなければならない。
12球団合同トライアウトを受験した直後も、野田さんはそんな思いに駆られていた。
終わってすぐに減量を始めたのは、その時点でプロ野球界に残るのをあきらめていたからではなかった。それならそもそも、トライアウトを受けない。
どこの球団からも声がかからなければ、ボートレーサーを目指すしかない。
選手養成所の入所試験まで半年。それまでに20キロ以上も体重を落とす必要がある。
1日も早く減量に取り掛からなければ。
そんな焦りが、野田さんを突き動かしていた。
プロアスリートを続けることで恩返しを。
愚直なまでの思い。
家族も理解を示し、最後は背中を押してくれた。
人生初のアルバイト
入所試験に合格すると、野田さんには1年間の養成所生活が待っている。
卒業できて、晴れて選手になっても、1人前のプロになるまでにはさらに時間がかかる。
おそらく、苦労はたえないだろう。
家族は覚悟を固めてくれた。
自分もただ入所試験の準備をしていればいいわけではない。
せめて、何か少しでもできることを。そう考えて、人生初のアルバイトをすることにした。
千葉県市川市の生鮮食品スーパー「私のわくわくスーパー鬼高店」。
知人の紹介もあって、青果担当として働かせてもらうことになった。
1玉49円のキャベツが教えてくれたこと
毎朝4時に起き、仕事場へと向かう。
ナイトゲームが主戦場だったプロ野球選手時代とは、まったく違う生活リズムになった。
「養成所も毎朝6時起床なので、いい訓練になるかなと」
店に到着すると、すぐに入荷された野菜、果物を確認する。
質や量、原価を確かめ、利益分を想定して価格を設定。値札をパソコンでつくってプリントアウトもする。
商品が目立つよう、軒先に陳列をする。
「もっと前列に、きれいに並ぶように」。75歳の先輩青果担当もアドバイスをくれる。
午前9時。スーパーが開店した。
この日、野田さんが目玉にしたのは、1玉49円のキャベツ。自転車で通りかかった女性が、値札を二度見して急停止する。
月曜日の午前。人通りは多くなかったが、どんどん売れていった。
陳列した分が減ってきたのを見計らって、野田さんは追加分を並べていく。
「10円の違いで、売れ行きってこんなに変わるんですよね」
作業の合間。野田さんはぽつりと言う。
フードロスを防ぐため、市場で売れ残る野菜をうまく仕入れて安く売る。
それがスーパーのポリシーだった。だが日によっては、原価が高くなることもある。前日は今日よりも10円高い売値になった。
買う側は少しでも安く買えるよう、機を見逃さずに買う。
売る側も値付けを調整して、何とか利益を出す。
10円単位の積み重ねで、世の中は回っている。
きっとプロ野球ファンも、そうやって捻出したお金で、観戦チケットを買ってくれていた。舟券を買うボートファンもしかりだろう。
ファンがプロアスリートに寄せてくれる期待の重さを、あらためて感じた。
「みんな横一線」の心地よさ
駅前の純喫茶。
冷めたコーヒーでかさついた唇を潤わせてから、野田さんは言った。
「期待に応えられるプロアスリートに、僕はなりたいです」
減量生活は過酷だった。体脂肪はすでに3%台。あとは筋肉を落とすしかない。
まったく食べずに有酸素運動をすると、身体は生命維持のために筋肉をエネルギーに変えだす。
「不健康ですけどね。でも一度そうやって、50キロの身体をつくるしかない。入所試験に合格するためじゃないです。この道のプロとしてやっていくために、この道のプロの身体をつくる」
1週間後。野田さんは養成所の入所試験に臨んだ。
180人の中にまじっての受験。
様々な出自の受験者に出会った。
スポーツ未経験者。10歳以上年下の高校生。
半年前に養成所に入所した、10代の”先輩訓練生”と話す機会もあった。
「野田さんって、プロ野球選手だったんですね。私は野球詳しくないんですけど、西武ライオンズは知っているかも。別名でドラゴンズって言われたりもしていますよね?」
それはきっと、中日のことだ。
苦笑いで応じながらも、野田さんはなんとなく心地の良いものを感じていた。
ここではみんなが横一線の状態で、ボートレースの世界を目指している。
命がけの世界にはせる夢
7月上旬。野田さんのもとに、合格通知が届いた。
素直にうれしく思ったが、一方で身の引き締まる思いにもなる。
入所試験の科目の1つ、乗艇試験を思い出す。
初めて乗った競技用のボートは、水中に半分沈むようにして加速した。視点が低い分、かなりのスピード感だった。
この速度で、ひとつ操作を間違えたら…。
命がけの世界に、自分は足を踏み入れようとしている。
「怖さはありますよ。怖さが勝って、攻めたターンができなくなってしまい、レーサーを辞める人もいるとも聞きます」
でもね、と野田さんは言う。
「大変なのは、どんな仕事でも一緒なんだと思います」
養成所への入所は10月1日。
まだ時間はあるが、今まで通りに体重の管理を続けるつもりだ。
プロアスリートであり続けるために。