5月27日に公開されたディズニー最新作『クルエラ』が「ジョーカーに似ている」と、映画を見た人の間で話題となっている。
主演のエマ・ストーンが演じたクルエラは、アニメーション『101匹わんちゃん』や実写映画『101』にも登場したディズニー屈指の「ヴィラン(悪役)」。1970年代のロンドンを舞台に、ファッションデザイナーを夢見た1人の少女エステラがいかにして邪悪な存在となったのか、その過程を描いた作品だ。
一方、2019年に公開された『ジョーカー』は世界的な大ヒットを記録。主人公を演じたホアキン・フェニックスは2020年のアカデミー賞で主演男優賞に輝いた。
多くの人が感想を寄せた通り、クルエラは本当に“ジョーカー”なのか。近年のディズニーが打ち出す新たな“悪役像”はどのようなものか、作品を見て考えた。
(※ここから先は映画の内容に触れています。それを踏まえてお読みください)
クルエラは本当に“ジョーカー”か。比べて見えたもの
2つの作品を見比べてみると、確かに『クルエラ』と『ジョーカー』には重なる点がいくつもある。
まず、主人公が「悪」に転じる前の話だ。それぞれのバックグラウンドが似ている。
“クルエラ”になる前のエステラは、幼少の頃から自己主張が強くて協調性に乏しく、学校に馴染めなかった。生まれつき「白」と「黒」という特徴的な髪色だったことで、人々からは見た目を揶揄される。一方で、人とは違う考えを持ち創造性に富んでいた。
後にある出来事がきっかけで“母”を亡くし身寄りがなかったエステラは、ファッションデザイナーという夢を一時は諦め、2人の仲間とともにロンドンで盗みを仕事にする他なかった。邪悪な存在へと変貌するストーリーはそこから始まっていく。
では、『ジョーカー』はどうか。
主人公・アーサー(後のジョーカー)は元々、コメディアンになることを夢見る心優しい道化師だった。貧しい環境で母の看病をしながら働いていたが、患っていた疾患のせいで社会から除け者のような扱いを受ける。カウンセラーを頼りにしていたが、経済状況の悪化で閉鎖。頼れる者もいなくなった。
物語における社会の中で、それぞれが過酷な環境に身を置いていたということは、後に悪役となるエステラとアーサー双方のヴィランに共通している。
次に、どちらも主人公の「出自」がストーリーの中で重要になってくる点だ。
2つの物語に共通して大きなポイントとなる、主人公の出生に関する秘密。
エステラとアーサーは共に、自らの母親に関する秘密を知った時、己の中の「復讐心」に火が付き、手につけられないほどの“悪”に転じてしまう。どちらの物語においても、この時点がターニングポイントになっていると言っていい。
『クルエラ』についてはこれから見る人もいるため詳しく書かないが、例えば『ジョーカー』では、アーサーが憎しみから自らの手で母を殺してしまうという展開だった。そこから、凶悪な悪役・ジョーカーとしての道を一気に進んでいく。
極め付けは、作中に使われた「楽曲」だ。
『ジョーカー』と『クルエラ』では、印象的な場面でともにチャーリー・チャップリンの名曲『Smile』を原曲とした楽曲が使われている。
作品として『クルエラ』が『ジョーカー』と似ていると感じた人は、筆者もそうだったように、脚本の他に、この楽曲による演出効果も影響しているかもしれない。
『クルエラ』でこの楽曲を聞いた時には『ジョーカー』へのリスペクトの気持ちを込めて「あえて使用したのか」とさえ感じたほどだ。同じ悪役をフィーチャーした物語。2つの作品の差別化を図るなら、ここはさすがに別の曲を使用しても良かったのではないかと筆者は思った。
異なる点は何か、キーワードは「救い」
これだけ重なる点があると、「クルエラがジョーカーに似ている」という声があるのも全く不思議ではない。
海外でも実際に「クルエラとジョーカーは似ている」との指摘があったが、エステラとクルエラを演じたエマ・ストーンはインタビューで「(ジョーカーを演じた)ホアキンと自分の(演技)が似ているとは微塵も思わなかった。もっと彼に似ていたら良かったのにと思う」とコメントし、これを否定している。
一方で、クレイグ・ガレスピー監督は2つの作品の関係について、こんな風に語っている。
「(クルエラというキャラクターは)極悪非道で、さらに邪悪な世界へと向かわせてしまうものに直面している。そこには深くて感情的なものがあり、その点では『ジョーカー』に似ている。それでも、『クルエラ』にしかないものがある」
監督がこう語るように、2つの物語にはもちろん異なる点があり、そこに“ディズニーらしさ”が表れていたと筆者は感じた。
前述の通り、『ジョーカー』では主人公のアーサーは社会から完全に見離されていた。仲間の裏切りがきっかけとなり仕事を失い、己の夢をあざ笑う者が現れ、出自をめぐって母のことも自らの手で殺めた。
憎しみの矛先は次第に「社会」へと向かっていき、最終的にジョーカーという最恐の「ヴィラン」が生まれた。それには、彼に救いの手を差し伸べる存在がいなかったことも影響している。
しかし、『クルエラ』は違う。
物語の序盤から、カリスマ的なファッションデザイナーのバロネスはエステラの才能を見出し、盗みの仕事をしていた彼女をアシスタントに抜擢する。過去などは関係なく、その才能を純粋に評価した。
乱暴に無理難題を押し付けた一方でチャンスも与え、エステラはそれを掴む。
エステラがのちに“クルエラ”に変貌した背景にバロネスの存在があったことは間違いないのだが、あくまでもエステラの“個人的な感情”によるところが大きかった。
確かに結果として物語の舞台となったロンドンの街や警察を巻き込んではいるが、“クルエラ”の邪悪さと狂気は決して「社会」に向けたものではない。ジョーカーとはその点が大きく違う。
そして、救いとなる存在がいなかったジョーカーと違い、クルエラには彼女を支え助けてくれる存在がすぐそばに居た。窮地に追い込まれた彼女もまた、自ら周囲の仲間に助けを求めた。そして物語の終盤では彼女を助ける人まで現れる。
邪悪な存在であっても決して1人にはさせず、「救い」がある。それこそが、“らしさ”が溢れる最近のディズニー流の「ヴィラン(悪役)」の新たな描き方だ。
逆を言えば、だからこそファンタジーの要素も強いディズニー作品では『ジョーカー』のような、社会全体が作り上げる狂気に満ちた悪役を生み出すことは難しいのかもしれない。
つまり、クルエラとジョーカーは似て非なる「ヴィラン」だ。好みは分かれるかもしれないが、どちらのキャラクターも見る人を惹きつける。
そもそも、本当は「悪」じゃない?ヒット作「マレフィセント」との類似点
『クルエラ』について、Twitterでは「クルエラは本当の悪じゃないのかもしれない」「クルエラに同情できる」「悪に転じたのも分かる気がする」など様々な感想が寄せられている。
これについては、筆者も同じ感想を持った。
というのも、近年のディズニー作品は「ヴィラン」を主人公にしながらも、そのキャラクター以上に「悪」を体現する人物がもう1人いて、「本当の悪」とは何かを私たちに訴えかけるという傾向が続いている。
『クルエラ』にもそれが当てはまっていた。悪役とされた主人公のクルエラよりも「悪」を体現していたのは、バロネスで間違いないだろう。
『クルエラ』と同様、悪役を新たに描き直した代表作が『マレフィセント』シリーズだ。アニメーション映画『眠れる森の美女』に登場する悪役を主人公に、1作目が2014年、その続編が2019年に公開された。マレフィセントはアンジェリーナ・ジョリーが演じた。
マレフィセントは恋仲となった相手(ステファン王子)に裏切られたことをきっかけに、その娘・オーロラに呪いをかけるが、その裏ではオーロラの成長を母のように見守っていた。オーロラにとってマレフィセントは、実は“育ての母”だったという新たなストーリーだった。
このマレフィセントにもクルエラと同様に彼女を支える存在がいて、最終的に救われる。
かつてのアニメーションではマレフィセントがオーロラに呪いをかけた部分しか描かれなかったが、実写作品で経緯と知られざる過去が新たに描かれることで、ヴィランはもはや“邪悪な存在”というだけではなくなり、見ている人が「親近感」をも抱くようなキャラクターとして描かれるようになった。
ディズニーが近年描いているのは、明らかに「救われるヴィラン」だ。だからこそ、過去作品の悪役のイメージがあればあるほど、見る人にとっては新鮮に映る。
元々、ディズニーのヴィランは高い人気を誇っている。『アラジン』のジャファーに『リトル・マーメイド』のアースラ、『白雪姫』のウィックド・クイーンなど例をあげれば枚挙にいとまがないほどだ。
今後もアニメーション作品の実写化が数多く計画されているディズニー。ヴィランの存在を問い直すことは、過去のものとなった作品の魅力を再び広げることに繋がる。
次はどのヴィランが、新たな解釈で描かれるのか。その点でもディズニーの今後の作品に注目したい。
【小笠原 遥/ハフポスト日本版】