「わきまえない女」。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会元会長・森喜朗氏の女性差別発言以来、この表現を多く見聞きするようになった。
わきまえない、とはどういう意味だろう。場の空気や圧力に屈しない、言うべきことを言う、権力者に合わせず、どこであろうと信念を通す……。そう考えていくうちに、フランスに住む筆者の脳裏には、一人の女性の姿が浮かんでくる。
20世紀後半、フランスにおける女性と家族の社会問題の改善に大きく寄与した政治家、シモーヌ・ヴェイユ(Simone Veil、1927年〜2017年)だ。
凛とした出立ちに、明快で率直な話し方。誰にも怯まない勇敢な人柄は、思想信条を問わずファンが多い。好きな政治家ランキングでは常に上位を占め、「好きな著名人」アンケート(2012年)でも、当時85歳ながら、流行りの歌手や俳優を抑えて2位にランクインした。
今のフランスは、男女平等に関する国際比較では上位国の常連だ(「ジェンダーギャップ指数2021」は153カ国中16位)。歳を重ねても自由闊達に生きるマダムが本や雑誌でも多く語られ、「女性が生きやすい国」とのイメージを持つ読者も多いだろう。
しかしフランスも、元来そういう国だったわけではない。家父長制度が強固に編まれ、「男は外、女は家」の性別役割分担を強制するいくつもの制度や仕組みがあった。20世紀半ばを過ぎても、女性は夫の許可なしに就業できない、自分の名前で銀行口座を開けないくらいだったのだ。
それを力強く変えていった女性たちの連なりの中、一際強い存在感を放ったのが、シモーヌ・ヴェイユだった。
「シモーヌ・ヴェイユは、フランス社会とフランス共和国、どちらの現代史においても重要な存在です。数々の偉業の中でも、彼女の名をより強く想起させるのは、三つの点でしょう」
・中絶合法化
・ホロコースト(ナチスによるユダヤ人強制収容・大虐殺)の生き証人
・欧州議会の初代議長
ヴェイユに尊敬の念を抱く駐日フランス大使フィリップ・セトン氏はそう語る。今回はセトン氏の言葉に従って、彼女が深く関わった三つの点に添ってお伝えしよう。
※年号や事実関係は、自伝”Une vie”(邦題シモーヌ・ヴェーユ回想録)を参照しています。
※20世紀初頭の女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil,1909年-1943年)もいますが、アルファベット表記では一文字違いの別人です。
1.男性ばかりの国会で勝ち取った「中絶合法化」
シモーヌ・ヴェイユの名がフランス全土に知れ渡ったのは、1974年。保健大臣として人工妊娠中絶の合法化を成し遂げ、女性史に大きな一歩を記したことだ。
フランスではそれまで、中絶が違法行為とされていた。必要に迫られた女性たちは、非合法の劣悪な環境で施術を受けるか、合法化されている外国に行くしか手段がなかった。しかも性教育が十分ではなく、避妊法も限られていた時代だ。ヤミ中絶の数は、年間30万件にも及んでいた。
重篤な後遺症や精神的なトラウマが放置される中、性暴力被害から中絶に至った少女が告訴された。これ以上は容認できないと女性たちの悲鳴が頂点に高まったまさにその時、保健省大臣に任命されたのが、シモーヌ・ヴェイユだった。
ヴェイユは官僚の夫と3人の息子を育てる、当時は稀な共働きの女性検事だった。女性服役者の待遇改善や親権制度の男女不平等の是正など、目覚ましい実績を上げていた。一方、政治家としてのキャリアはゼロ。しかし法知識と弁論術、そして人権擁護に対する強い信念が認められ、47歳にして大抜擢された。
当時の内閣で、女性の大臣は彼女一人。国会も男性議員481人に対し女性議員9人と、政界は圧倒的な男性優位だった。
世間では、中絶問題が「奥方さまの案件」と揶揄され、合法化によって「女性が堕落する」という声が上がるなど、女性の直面する深刻な問題を軽視する論調が溢れていた。
「当時の様子や議論は、現在からは考えられないものでした。反対意見や悪意を克服するために、ヴェイユが要した気力と不屈の精神も、想像を絶するものだったでしょう」
セトン大使は語る。ヴェイユ本人への誹謗中傷や、自宅や公用車に心ない落書きをする加害行為もあった。
それでもヴェイユは、当事者の女性、医療従事者、弁護士や人道支援家と連携し、反対派と粘り強く折衝した。そうして臨んだ法案成立の行方を占う国会審議で、のちに語り種となる名演説をした。
彼女の発言の一部を、抜粋してお伝えしたい(1974年国民議会における演説より筆者訳)。
「私はまず女性としての一つの確信を、皆様に分ち持っていただきたく存じます。ここがほぼ男性のみで構成された議会であると、承知の上で致します。喜んで中絶を行う女性はいません。(それを確信するには)女性に聞けば十分です」
「中絶は、毎年30万件も行われています。中絶がこれ以上私たちの国の女性たちを傷つけ、法を破らせ、彼女たちを辱めトラウマを与え続けることを、もはや黙認することはできません」
「私は未来を憂う人間ではありません。若い世代は我々とあまりに違っていて、驚かされることがあります。彼らをそのように育てたのは私たちです。私たちの親とは違うやり方で、私たちが彼らを育てたのです」
「彼らは他の世代と同じように勇敢であり、情熱に燃えることも犠牲を払うこともできます。人生が素晴らしい価値を持ち続けられるよう、我々も、若い世代を信頼しようではありませんか」
事実に基づいて反対派の懸念を解きほぐし、人道的な信念と未来への信頼に貫かれた演説は、頑なに敵対してきた保守派議員をも動かした。
「自分自身の信念と女性たちへの同情を秤にかけて、同情を選ぶ」と表明したカトリック教徒議員もいたという。
合法化法案は賛成284、反対189で可決。法律は「ヴェイユ法」と呼ばれ、改正を加えながら、今なお女性の身体を守る現行法であり続ける。
演説に刻まれた「女性に聞けば十分です( Il suffit d’écouter les femmes.)」の一文は、45年以上経った今も女男平等政策を推進する人々にとって大切なスローガンだ。政府の報告書やプレスリリースにも、敬意を込めて使われている。
2.テレビで明かしたホロコーストの証言
中絶合法化を成し遂げ、1970年代末、一躍政界のスターになったヴェイユ。そこで彼女は1976年、国民に驚くべき事実を明かす。
第二次世界大戦末期、16歳でナチス・ドイツ軍にユダヤ人として連行され、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で搾取されていたことをーー。つまり、フランスで8万人が犠牲になったホロコーストの生き証人である、と初めて公に告げたのだ。
シモーヌ・ヴェイユは二つの大戦の間にパリで生まれ、南仏ニースで育った。建築家の父、専業主婦の母はともに、ユダヤ系のルーツを持つフランス人。戦況の悪化とともにナチスの手は彼女の生家にも及び、16歳のシモーヌはバカロレア(大学入学資格)試験の翌日、母・姉とともにドイツ軍に捕まった。
その1944年3月の捕囚から、解放されパリに戻るまでの1945年5月まで。強制収容所で生きた地獄を、テレビのドキュメンタリーで語ったのである。
「あまり語られてこなかったことは、“臭い”でしょうね。アウシュヴィッツ収容所の火葬炉のそばの、泥と腐敗の混じった……連行されて収容もされぬまま、直後にガスにかけられ焼かれた人々。あの焦げた臭いが絶え間なく流れる中、私たち収容者は生きていました」
(2018年放映、France5ドキュメンタリー「シモーヌ・ヴェイユ、家族のアルバム」1時間27分付近より。該当箇所は1976年の番組)
劣悪な環境、病、暴力、強制労働、不眠、解放されるわずか数週間前に母を喪ったこと……。
人の尊厳を極限まで削り落とすナチスの悪行を、ヴェイユは静かに、簡素な表現で、克明に証言した。国会に立ち、会見に臨んできた大臣の威厳と瞳の鋭さはそのままに、悲惨を語る声には惑いや苦渋が滲む。その落差は、事実の残酷さをより一層、人々の心に刻みつけた。
「母は自分の名声を使って、国全体にホロコーストの現実を知らせようとしていたんだと思います。自分の個人的な話としてだけではなく、連れ去られたユダヤ人の運命として」
ヴェイユの長男ジャンは、のちの回顧番組でこう語った。
以降ショア(ユダヤ人大虐殺)の語り部としての活動は、政治と並行して、彼女のライフワークとなる。口を閉ざしていた人々も、耳を塞いでいた人々も、ヴェイユの姿に背を押され、歴史を見つめ直す一歩を踏み出した。
1995年、当時のジャック・シラク大統領は戦後の歴代フランス政府として初めて、ユダヤ人大虐殺への国家的責任を認めた。彼は70年代の中絶合法化の際、首相として彼女を支えた閣僚仲間だった。
そして、ヴェイユは2005年に開館したショア記念館の、初代館長に就任した。
セトン大使は言う。
「シモーヌ・ヴェイユはショアの記憶を、忠実に、力強く、揺るがない威厳とともに担っていました。中絶法と並び、フランス人が彼女を想起する、2つ目の点です」
3.異なる人と未来をつくる、欧州議会の初代議長
シモーヌ・ヴェイユの名が挙がるときに感心するのは、彼女を悪く言う人がほとんどいない、ということだ。政治家に対して厳しく、手加減なく風刺しまくるフランス社会において、ヴェイユはこの点でも傑出している。
「とても人間的で温かな人でした。政治家やジャーナリストなど権力を持つ人には一切妥協せず、弱者にはいつも寄り添っていましたね。クリスマスに一人で執務室を抜け出して、官庁の近くにいるホームレスと話をしにいったり」
ヴェイユの大臣官房で働き、現在は家族政策を担う国の組織で国際部長を務めるフレデリック・ルプランスさんは言う。
「洞察力に優れ、社会政策に造詣が深く、ヒューマニズムの強い信念を持っていたフェミニスト。子どもと女性の社会問題を大きく前に進めてくれました。信じられないくらいタフに仕事をこなす一方で、ユーモア溢れる一面もありましたよ」
90年代に2度目の保健大臣に就任した際には、フランス国内35の治安不安地区を歩いて巡った。市長に「危ないから行くな」と忠告されたところから優先的に訪問し、それでも危険な目に遭うことはなかったという。
「どんな人にも寄っていって真摯に話を聞くので、誰からも大切にされていました。ただ挨拶して彼女の服に触りたい、なんて人もいてね。どこでも、聖人のように敬われていましたよ。街回りの最中、なりゆきで住人の家に招かれて、喜んで訪問することもありました」
ヴェイユとともに働き、プライベートでも近しかったある女性は、当時を懐かしむ。
「マダム・ヴェイユは女性の社会問題で、立場や考え方の異なる当事者が対話できるよう、常に努めていました。その多くは非公式で、ランチやお茶会を何回も催したものです」
異なる人に会いに行き、意見を交わし、未来を作っていく。そんなヴェイユの信念と人柄に呼応したのは、欧州議会の初代議長の役職だった。
「ヨーロッパの大義と価値を擁護する、欧州議会最初の議長。フランス人がヴェイユを思い起こす、3つ目の姿です」
セトン大使はそう語る。悲惨な大戦を二度と繰り返さないために、分かち合う大陸の安定を願って、各国から議員を集めた欧州議会。ヴェイユはフランス議員団を牽引し、そこに立った。そして総選挙で、初代議長に選出されたのだ。
ヨーロッパの和解を、その身一つで象徴するかのように。
女性が偉大になれ、敬愛される社会
長く書いてきたが、シモーヌ・ヴェイユの大きく複雑な人生の、ほんの一部しか紹介できていない。だがこれだけでも、彼女が「偉大な女性」とされるに値することは、伝わるのではと思う。
そして、その人生と同時に浮かび上がるのは、「偉大な女性」を肯定するフランス社会だ。
女性が力を得て社会を変革していくことを、支援する。
歴史の過ちを告発する女性の声に耳を傾け、ともに前進しようとする。
偉大な女性が偉大なまま、人々に愛される社会は、確かに存在する。それは一人一人が女性の可能性を信じて作っていくものなのだと、シモーヌ・ヴェイユの物語は教えてくれる。