東日本大震災とテレビの力。 LiLiCoは、ミニスカ姿で路上生活した過去を語った。

好評連載 第17回 LiLiCoの「もっとホンネで話そう。私たちのこと」
タレントのLiLiCoさん
タレントのLiLiCoさん
Yuko Kawashima

2011年3月11日に発生した東日本大震災から10年。タレントのLiLiCoさんは、大きな揺れを試写会に向かうタクシーの中で体験しました。

世間を騒がすイシューからプライベートの話題まで、LiLiCoさんがホンネで語り尽くす本連載。今回のテーマは「東日本大震災と私」です。 

LiLiCoさんが、震災当日の記憶やテレビの力を実感したエピソード、そして被災地とのつながりについて語りました。

タクシーのフロントガラスに石が降ってきた

Yuko Kawashima

東日本大震災が起きたあの日、私は試写会に行くためにタクシーで東銀座の東劇に向かっていました。

大きな揺れがあったのは渋滞中。車道の上を走る首都高速ですごい音がして、タクシーのフロントガラスにパラパラと石や砂利が落ちてきたんです。

外で信号が揺れ、人々が大騒ぎしているのを見て、初めて地震なんだと気づきました。脳裏に阪神大震災で波打つように倒れる阪神高速道路のニュース映像がよみがえり、背中がゾッ。 

同じように首都高速が倒れたら危険だと進路変更をしてもらい、だいぶ時間をかけて東劇に到着。人にあふれた道路で、もう一度、大きな揺れを体験しました。

当然、試写会は中止。次の予定は「王様のブランチ」(TBS)の打ち合わせだったけれど、公共交通機関がストップしていて、道路のタクシーも空車は一台もありません。

東劇の横に停まっていたTBSの中継車を発見するも、会社には戻らず次の中継地に行くとのこと。「あそこならタクシーがつかまるはず」と向かった日比谷のザ・ペニンシュラ東京は、避難してきた人がひしめき合っていました。

時間はすでに18時すぎ。タクシー待ちは長蛇の列で、先頭の人が4時間待っていると聞いて断念。歩いて帰ると決め、ヘッドフォンをつけてレディー・ガガをガンガンにかけながら、ピンヒールで歩いて帰宅しました。

17階の部屋から見えたもの、考えたこと 

Yuko Kawashima

当時、一人で住んでいた新築のマンションに帰ると、建物も自分の部屋も大きな変化はありませんでした。

事務所やブランチチームとの連絡を終えてからは、当時使っていたガラケーでひたすら友人や知人、両親との安否確認。あの日は、なかなか電話もメールもつながりませんでしたよね。途中、男友達がインターフォン越しに安否確認をしに来てくれました。

そこからは、座っていることしかできませんでした。

あの夜、私が住んでいた17階の部屋の窓からは、テールランプで埋まった首都高速がどこまでも続いていくのが見えました。車の中で、トイレに困ったり、空腹だったりした人もいたはず。

「17階じゃなくて道端の1軒家に住んでいたら、ジュースを配ったり、トイレを貸したり、できたこともあったのかもしれないのに」と思っていました。

「私が日本を元気にしなくちゃいけない」 

Yuko Kawashima

震災後すぐに思ったのは、「チェルノブイリ原発事故を経験したんだから、今回もどうにかなる」ということ。 

1986年、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で事故が起こり、大量の放射能物質が放出。近隣国であるスウェーデンも、大きな被害を受けました。

当時、私は16歳。放射線物質の影響を強く受ける野生の肉や魚、キノコ、ベリー、木の実類は、しばらく口にできなくなったことを覚えています。

実は震災の2日前、大きなチャンスをつかみかけていた私。

2011年当時、関東ローカルの「王様のブランチ」でしか知られていなかったのに、全国区の歌番組「歌がうまい王座決定戦」(フジテレビ系)への出演をきっかけに、今までにない数の出演オファーをいただいていました。

「芸能人生22年目にして、やっと売れる!」。そう喜んだはずが、震災で出演依頼はすべて白紙になってしまったんです。

Yuko Kawashima

でも、私は使命感に燃えていました。

幼いころに夢中になったスウェーデンのシンガーは、ただ観ているだけで元気になれる人でした。彼女に憧れるなら、私が日本を元気にする人にならなくちゃ! 仕事はなくなったけど、命があるんだから! と。

そんな思いから、スウェーデン大使館が毎日連絡してくるスウェーデン行き臨時便の案内や、お父さんからの「帰ってきなさい」という誘いも断って、私は日本に居続ける決意をしたんです。

震災後だからこそ、いつも通りの明るいLiLiCoで

Yuko Kawashima

あのとき、日本は本当に暗かったですよね。テレビの中も、まるでモノクロの世界でした。みんな黒やグレーの衣装で、なんとなく重たい雰囲気。

私は、「これで被災地の人たちは元気になれるのかな?」と疑問を抱いていました。

だから、5月に「スタジオパークからこんにちは」(NHK)に出演したとき、あえてアプリコット色のミニスカワンピを選んだんです。

もしかしたら「不謹慎だ」と責められるかもしれない、とすごく悩みました。でも、支援物資を送ったり、寄付をしたりもしたけれど、やっぱり私がしたいのはテレビに出て元気になってもらうこと。いつも通りの明るい衣装とトークに賭けてみたい、と思ったんです。

番組には、ミニスカ姿で元気いっぱいに登場して、下積み時代に5年間、路上生活をしていたエピソードから被災地での生活に役立ちそうなことを話しました。

Yuko Kawashima

すると、被災地から「元気をもらった」「久しぶりに笑った」といつもの何倍ものメールやFAXが届いて……。なかには、「この子は私たちにないものを持ってる」と筆で書いてFAXしてくれた94歳のおばあちゃんもいたんです。

私が逆に元気をもらってしまいました。

あのときメールやFAXをくれたみんなに会いたい。そしてお礼を言いたいですね。

東北の番組にレギュラー出演 

Yuko Kawashima

『スタジオパーク』の出演は、私が芸能人としてブレイクするきっかけになりました。2015年に『仙臺いろは』(仙台放送)からの番組オファーが来たときは、「やっと『スタジオパーク』のお礼ができる!」と即OKしたんです。

毎月、仙台に通うことになって、あらためて震災の恐ろしさを目の当たりにします。

レストランや博物館の壁ひとつにも、津波で押し寄せた水の跡。現場リポートをしたアナウンサーからは、初めて石巻市、女川町に入ったとき、想像を絶する光景に嘔吐してしまった話も聞きました。

2017年、被災地支援の自転車レース「TOUR de TOHOKU 2017」にボランティアとして参加した際は、天地がひっくり返ったままの交番、何もなくなってがらんとした河原など、ありありと震災の爪痕が残るのを目にしました。

仙台に仕事で行くときは毎回、(日帰りではなく)宿泊してお金を使うようにしていました。よくお取り寄せもするんですよ。いろいろな場所を訪ね、名産品を食べ、たくさんの人に触れるうち、仙台は大好きな街になりました。

Yuko Kawashima

2019年には、毎年サポーターをしていたカナダ発のサーカス「シルク・ドゥ・ソレイユ」で、仙台公演が全国で一番盛り上がったと聞きました。震災から8年の時を経て、やっと心からエンターテインメントを楽しめるようになったのかもしれません。 

震災から10年経っても、私はふとした瞬間に震災のことを思い出します。

まだ仮設住宅に住んでいる方もいるでしょうし、復興には本当に時間がかかります。節目ではなく通過点だけれど、たくさんの人が震災や被災地について思いを巡らす機会になるといいですね。

(取材・文:有馬ゆえ 写真:川しまゆうこ 編集:笹川かおり) 

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