痴漢にあうも「お迎え時間」が迫っていた私が「声をあげること」について考えた

「声をあげること」は大切だ。ただ、一方で「声をあげない/あげられない」女性たちがいることも忘れてはならない。そして、それは何も間違ってはいないのだ。『ウツ婚‼︎』著者、石田月美さんの寄稿です。
Tatomm via Getty Images

「声をあげる」。   

自分が理不尽な被害に遭ったとき、それはとても重要なことだ。特に女性の性被害に関しては #MeTooに代表されるように、近年になってようやくその声が聞こえてくるようになった。

声をあげるというのはキツイ。自分は被害に遭っているのに、自分がアクションを起こさなくてはならず、自分が説明し、自分が訴えかける。そして周囲から心無い声も聞こえてくるし、好奇の視線も浴び、逆に腫れ物に触るようにされることもある。 

それでも、「おかしいことはおかしい」と声をあげてきてくれた女性たちの歴史の上に、いま私は胡座をかいている。だから私は彼女たちを尊敬しているし、感謝している。ただ、「声をあげない/あげられない」女性たちがいることも忘れてはならない。そして、「声をあげない/あげられない」ことは、何も間違ってはいないのだ。

私には「子どものお迎え時間」が迫っていた

つい数週間前、電車に乗っていたら痴漢にあった。

そのとき私は、とある知人とちょっと揉めた帰り道で、わだかまった気持ちと溜息しか出ない身体を引きずって帰宅ラッシュの電車になんとか乗り込んだところだった。

先にその知人の話をさせてもらうと、仕事の話をしていたのではないものの、仕事で知り合った間柄で、私は知人であるそのオジサンの言動にしばしば傷つけられていた。

そのオジサンが私に対してとった言動に、“ジェンダー”や“モラハラ”や“権力構造”みたいな複雑な概念が見え隠れしていることは当然なんだけど、でも“仕事”じゃなくて“プライベート”だから、それら諸々は「個人的な話」ってざっくりとした安易な言葉でまとめてゴミ箱にポイして忘れるのが当然の振る舞いなんだろうなとも思った。 

それで、痴漢の話に戻すと、とにかくまぁ知らないオジサンから痴漢にあったのだ。

帰宅ラッシュの中で身動き出来ない身体を抱えながら、頭だけ動かして私はここからどうするべきか考えた。けど結局、何も言わず何もせず自宅の最寄り駅まで我慢して、降りた。なぜなら「子どものお迎え時間」が迫っていたからだ。

痴漢にあったら、声をあげて、駅員にでも警察にでも突き出すべきだとは思う。恐くて声があげられない女性たちのためにも、ここは私のようにわきまえない女がハッキリと文句を言うことが必要だ。

だけど、駅員や警察やその他諸々、声を上げるということは厄介ごとを引き受けるということであり、それには「時間」がかかる。

思い起こせば以前私が痴漢にあって警察へ駆け込んだところ、事情聴取などでたっぷり2時間はかかった。2時間、子どもを待たせることは出来ない。今から2時間以内に、私は子どもに夕飯を食べさせ、風呂に入れて、パジャマに着替えさせて歯磨きをし、3時間後には寝かしつけてなければいけないのだから。

子どもを預けている園だって、そんなに直前の延長保育は受け付けてくれないし、その昔痴漢にあったときに「警察に行った私」を遅刻の理由として話したところ「痴漢にあったこと自慢してんじゃねーよ」と言われたことも思い出した。

園の先生たちは、みんな私より年下でキラキラしている。言いづらいな、ともちょっと思った。

そんなこんなを痴漢にあってる間に考えて、「こんな三十路で経産婦の下半身狙うなんてマニアだな」と自虐的になるのは簡単だったけど、やっぱり気持ち悪いし恐かった。もちろんムカついた。

絶望と希望とオムツを乗せて、自転車を漕いだ

前述の知人の件も相まって、電車からようやく降りた私が「痴漢シネ」と思ったのは当然だと思う。ヨユーでフツーに「痴漢シネ」って思った。私の愛娘に同じことが起きたら、私はお前らを訴えるなんて穏便な手段じゃ許さないからな。私でよかったな、命拾いしたな、てめーら。と気合を入れて園に向かった。

子どもに会う前に、もう一度気合を入れ直して、いつも元気なママはいつも通りお迎えをした。娘と、もう一人、愛する息子を。

子どもたちのために長生きしたいと思っているけど、もし息子のために私が死ななきゃいけないような事態が起きたら、私はヨユーで死ねる。玄関あけたら2分で死ねる。

「痴漢シネ」って思いと、この子のためならヨユーで死ねるって思いと、娘と息子とを全部抱きかかえて、自転車に乗せた。男と女と絶望と希望とオムツとバスタオルを乗せて、私は自転車を漕いだ。このままどっか行っちゃいたいな、ここではないどこかへ、ピリオドの向こうへ、なんて考えたけど、ちゃんと自宅に帰って夕飯を作った。

夕飯は、ハンバーグと唐揚げにした。生肉をミンチにかけて「シネシネシネ」って思いながら。生肉を高温の油の中に浸して「シネシネシネ」って思いながら。すっごくうまく出来た。ちょっとしょっぱかったけど。

いつもより肉率高めな夕食に、子どもたちはシンプルに喜んで、そのことが私の複雑な葛藤を噛み砕いて飲み込む力になった。あんなに作ったハンバーグと唐揚げは全部、私たちの胃の中に消えて、まるで初めからなかったように明日への活力となる。そう信じて、私は全部飲み込んだ。

「社会のため」ではなく「自分のため」の選択

女として生きている限り、認識の差はあれど、誰もが性被害、もしくは性被害的なものに遭っていると私は考えている。そんなクソッタレな社会で、声をあげてくれる女性たちには感謝しかない。

でも、「声をあげない/あげられない」女性たちは、どうか自分を責めないでやって欲しい。 声をあげている女性を見るとどうしても、同じような被害に遭った自分が何もしないことに罪悪感を感じる。自分自身の責務を果たしていないのではないかと苦しくなる。のちに続く女性たちのために、声をあげることが正しくて、そうしない自分は間違っているのではないかと思う。

でも、そんなことない。自分の日常を守ることは、それ自体がものすごく大変なんだ。日常を慈しみ、昨日と同じような今日、今日と同じような明日がくることなんて奇跡でしかない。その奇跡を、歯を食いしばって支えているのは女だ。そのこと自体に誇りを持っていいとも思う。

のうのうと日常を生きること、それは何ら悪いことではないし、のうのうと生きられる日常を作るために、女たちは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでいる。私はそう感じる。

もちろん、声をあげなければ社会は変わらない。こんなクソッタレな社会は変わったほうがいい。でも、「社会のため」なんかより「自分のため」に選択して欲しい。社会のためにアクションを起こすことが自分のためになる人はいる。

そして、そうじゃない人もいる。このクソな社会の片隅で、のうのうと生きること。それ自体が本当に力のいることなのだから。

明日の朝はパンケーキを焼こう

涎を垂らして眠りにつく子どもたちの顔を見ながら、この子たちはどんな「女」と「男」になっていくのだろうと考えたりもしたけれど、私も満腹だったからすぐに寝た。

この子たちのために、クソな社会を変えなきゃいけない。それが大人の責務だ。私だって、そう思わないわけではない。でも、そんなごもっとな正論よりも、私には守りたい日常がある。そして、その守りたい日常は、いとも容易く崩れ落ちることを私はよく知っている。

だって、沢山の被害に遭って来たのだから。私は、後ろ指さされようと、ズルイ大人だと言われようと、自分のことしか考えていないと言われようと、明日の朝は子どもたちの好きなパンケーキを焼くだろう。そして、のうのうと1日を始めるのだ。今の私には、それが精一杯。

寝かしつけのときにお話しした「カチカチ山」が私怨に満ちてて、子ども達ごめんよって思ったけど、正直かなり盛り上がったから、このお話はこの辺で。

私もいつか、声をあげる日が来るのかな。  

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(文:石田月美 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)

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