人に恐れられても自分らしく、したたかに生き残ってきた女たちに憧れて
わたしたちはフェミニズム手芸グループ山姥(やまんば)として活動している。具体的にはフェミニズムをテーマにした手芸(主には刺繍)をして、その作品を販売したり、人にプレゼントしたりしている。
2019年に活動をはじめて、メンバーは2人。マルリナとかんな。普段は手芸や運動とは関係のない仕事をしていて、2足のわらじで活動中。今回の原稿担当はかんな。これから交代で、なぜフェミニズムに興味を持ったのかということや、日々の生活、趣味のことについてぼちぼちと書いていく予定。どうぞよろしくお願いします。
「山姥」というグループの名前は、人に恐れられても自分らしく、したたかに生き残ってきた女たちに憧れて名付けた。社会や権力者の作った規範に抗って生きる山姥たち、かっこ良すぎる。
でも実はきっと山姥たちもひとりで生きぬいたわけではないだろう。
先輩の山姥に生き抜くための術を学んだり、行動を真似することでその力を磨いてきたはずだ。女たちは生き抜くための術を連綿と伝え続けてきた。ささやかにひそやかに、そして確実に。
わたしたちが手芸をそういう風に学んできたように。
まず最初は、編み物からはじまった
いちばん初めにやった手芸は編み物だった。
2017年1月のアメリカでのウィメンズマーチでは、トランプ大統領の過去の発言(「自分は女性のプッシー(女性器を指す俗語)を自由につかめる」と女性を蔑視した)にひっかけて、プッシーハットという猫耳形のピンクのニット帽の着用が呼びかけられた(ただこれはその後トランスジェンダー排除との指摘を受けたし、その通りだとも思う)。
同年開催された日本のウィメンズマーチでもそれに呼応してプッシーハットをかぶっている人たちがいた。
編み物という方法で政治的主張ができるなんて!わたしたちは自分には思いもつかなかった方法にしびれたし、にわかに自分もやってみたくなった。
そして、そうした波には軽率に乗っかるわたしたちはウィメンズマーチの翌々月にはプッシーハットを編みはじめた。
編み物のできる友人に教えてもらいつつ、1カ月に一度集まる手芸の会をはじめ、2018年のウィメンズマーチでかぶることを目指した。
初めてやる編み物はとにかく時間がかかった。作り目、メリヤス編み、そして左右のとじはぎ。
時間がかかるだけたくさん話もした。政治のこと、生活のこと、家族のこと、自分のこと。
出来上がった時はとても感動した。ただの一本の糸だったはずのものが時間を費やすことで帽子に変わり、それを成し遂げたのが自分だということ。
そして、その作業時間を共有しながら、たわいのない話をして作業する時間のおもしろさ。
その満足感が忘れられなくて、わたしたちはプッシーハットが完成しても手芸の会を継続することになった。
日本には“フェミニズム”の刺繍の図案がない
プッシーハットを編み終えたわたしたちが次にはじめたのが、刺繍だった。
目指すべきお手本を見つけようと英語で検索してみると、「#MeTooやTIME’S UP」 upといったその時にアメリカの運動で用いられていたスローガンのかっこいい図案がたくさん見つかった。早速、真似した。
初めのうちは目も当てられないくらい下手だった。玉結びもできず、そして刺繍には玉結びがいらないことも知らなかった。刺繍糸はきれいに分けられないし、針に糸は通らない。なぜか途中で糸が絡まってもみくちゃになる。でもとても楽しかった。刺繍は直接的に、自分たちの主張をそのままデザインできる爽快感があった。
他にもお手本が欲しくて、日本語の図案も探してみたけれど、少なくともわたしたちが探した範囲ではインターネットにそうした図案はなかなか出てこなかった。そう、日本語のフェミニズムのグッズは少ない。そしてひらめく。欲しいなら自分たちで作るしかない!
なので、いつのまにか自分たちでデザインを考えるようになった。
自分たちで考えるとダサくて拙く思える時もある。海外のフェミニズムグッズはめちゃくちゃかわいいから比べて今もよくへこむ。
「無理せず一緒に生き残ろうね」っていうメッセージを込めて
でも一方で、作れば作るほど、自分たちのことを自分たちの第一言語である日本語でこそ伝えたいという気持ちが強くなった。「個人的なことは政治的なこと」「家父長制破壊者」「くそふぇみ」(※)などのメッセージを刺繍していった。今後も山姥の活動では日本語でのグッズを作るというところをなんとなく意識していきたいと思っている。英語のグッズよりすぐに意味がわかる人が多い分、もしかしたら周囲からそのことで攻撃されることを恐れて、ずっと身につけているのは難しいかもしれない。この国ではフェミニズムを表現するグッズを身につけていると、そういうおそれもまだまだあるだろう。
私たちが作っているグッズの多くがバッジなのは、「つけ外ししてもいいのかもよ、できることからできる時だけやって、無理せず一緒に生き残ろうね」っていうメッセージでもある。
誰か別の「山姥」たちにもそういう願いが届くかなあと思いながら、ちくちくしている。
「家庭科」は女子生徒が履修する科目だった
さて、そういえばそもそも、手芸と聞いて思い浮かぶイメージはどんなものだろう?器用?家庭的な趣味?女性らしい?
手芸が好きと話すと、「とっくに廃れたと思っていた」、そんな手垢のついた言葉が投げかけられる時がある。
実際、手芸にまとわりつくそうしたイメージが苦しくなり、手芸が好きだったけれどやめてしまったという話を聞かせてくれた人もいる。
女性たちは手芸を奨励され、あるいは強いられてきた。彼女たち自らがそう望んだように見せかけられて、教育システムが、社会がそう導いてきた。いや今もそうかもしれない。手芸の担い手は相変わらず圧倒的に女性が想定され、そして時間がかかるわりに、その価値は安く見積もられている。ハンドメイドサイトなどで販売されているものは材料費プラスαで手間賃をほとんど考えていないような値段設定のものも多い。
だから、手芸が好きになれないというのも、よくわかる。当たり前だ。性別役割分業が、家父長制が、良妻賢母主義が、未だにわたしたちの足元には絶えず流れ続けている。息苦しく感じるのも当然だろう。
手芸は武器だし、表現の手段になる
でも、2021年はもはや違うはずだ。いや、違うものにしたい。手芸は武器だし、表現の手段だ。個人的なことも政治的なことも伝えられるものだ。いやむしろ、家庭的な領域に押し込められてきたその力を逆手にとって抗うからこそ、もっと力を持つはずだ。
わたしたちはわたしたち自身を、あるいはわたしたちの前を走ってきた女たちを縛ってきたもので、闘いたい。
下手でもいい、拙くてもいい、届けたいものはないか?腹が立っていること、表明したい何かはないか?
手芸にはきっとそれができるはずだ。
わたしたち、手芸グループ山姥はそう信じている。
(※編注:フェミニストを自称して活動する人々に投げかけられる中傷の言葉。あえて自ら掲げることで中傷に屈しない姿勢を示す)
(文:チーム山姥 編集:榊原すずみ/ハフポスト日本版)