学校の休み時間は誰とも話さず、時間を潰していた
私が初めて「死」というものを意識したのは、小学校高学年の時だと思う。父親に「死ぬと人間はどうなるの?」と尋ねたところ、「無だ。何にも感じない。例えるなら、眠ったままの状態がずっと続くということ。それが『死』だ」と言われた。子供の私は「死」がとても恐ろしいと感じ、眠りにつく時に目が覚めなかったらどうしようと恐怖した。しかし、学校でいじめに遭い、家庭内で暴力が吹き荒れる日々が終わらないことを悟ってから、徐々に「死」を身近に感じるようになった。「死んだら何も感じない」ということが恐怖でなく憧れになっていった。
高校生の頃、私は学校に馴染めないことと、希望の大学へ進めないことが大きなストレスになっていた。高校には中学時代にとても仲の良かった子がいたのだけれど、その子は新しい友達ができて私と距離を置くようになった。
今思えば、思春期の女子には、よくありがちなことだし、そんなことで絶望するのはバカバカしいけれど、十代の私にはとても大きなことだった。学校の休み時間は誰とも話さず、文庫本を読みながら時間を潰した。勉強にも身が入らず、授業中は、うつ伏せになってずっと目を閉じていた。
机に突っ伏していると、世界中で自分が一人きりのような気がして、とてつもなく悲しくなり、制服の袖を涙で濡らした。授業中に私が泣いていることを誰も知らなかったと思う。誰かから指摘されたことは一度もなかったし、たくさんいる先生も私がおかしいことに気がつかなかった。
「いのちの電話」でこころないことを言われ
その当時、自殺の仕方を書いた単行本が発売され、大変な話題を読んだ。100万部以上売れたが、悪書として社会問題になっていた。その本をクラスメイトが回し読みしていて、私の机にも回ってきた。私は好奇心でページを開いた。飛び降りるならどれくらいの高さがいいか、薬を飲むなら何をどれくらい飲むのか、首吊りは……など、実に詳細に死に方が書かれていて、息を飲みながらページをめくった。その後、本屋さんに行って自分でもその本を買った。進路が決まらず、この先どうやって生きていっていいか分からず、頭の中ではいつも「死」がグルグルしていた。しかし、いつでも自分の意思で死ねるのなら、限界まで生きようと思った。私にとって自殺は輝く希望だった。
ある時、電話ボックスに貼られている「いのちの電話」の張り紙を見て、死にたい時に話を聞いてくれる場所があるのを知った。ある晩、家を出て、電話ボックスに向かい、ダイヤルを押した。相談員の人は優しかったが、それ以上は何もできない。私はしょっちゅう「いのちの電話」に電話をかけていたけれど、ある相談員に心ないことを言われてからかけるのをやめた。思えば「死にたい」という悩みは、家族や友人には相談し辛いことだったと思う。赤の他人だから話せたのかもしれない。
毎日、死んでしまいたいと思いながら生きていた
私は自分が希望する大学を反対され、親が希望する短大に進学することになった。短大は一年生のうちは全く友達ができず、心がやさぐれてしまい、お昼休みに構内でビールを飲んだりして辛い気持ちを紛らわした。それでも、卒業できないのは親に悪いので、授業は休まずに出席した。2年生になると友達が数人できてそれなりに楽しい日々を過ごすことができたが、行きたい大学に行けなかった悔しさがずっと残っていて、死んでしまいたいと毎日思いながら生きていた。
ある日、高校生の時に買った、自殺の仕方が書いてある本を読み返そうとしたら、本棚から消えていた。どこを探してもないので、母が捨てたのだろう。私は仕方なく、同じ本をもう一度買った。
母に「死にたい」と相談したことは一度もなかった。反対されるとわかっていることを相談しても意味がない。死にたい私が望んでいたのは、同じように死にたいと思っている人や、死にたい私を否定しない人だった。
お金がなくなると、人との“縁”が切れる
短大を卒業したが、私は就職浪人になった。その後、中途採用で編集プロダクションに入社したが、月給は12万で、都内で暮らすにはかなり厳しい金額だった。残業代も出ない状態で、夜の11時ごろまで働くこともあったし、休日に出勤することもあった。高校生の頃から精神科へ通院を始めていて、東京に出てからも精神科に通っていたが、診察の時間に間に合わなくて、薬だけもらって帰ってくることが多かった。食事にもあまりお金をかけられなくてひもじい思いをよくしていた。
あの頃、私は本当にお金がなかった。友達に遊びに誘われて「行くね」と答えたけれど、居酒屋での支払いが怖くて、結局断ってしまったし、観たい映画があっても一本も観にいけなかった。働いても、息をするだけしかお金が稼げなくて、なんで生きているのか分からなかった。
給料日の後、大好きなお寿司を食べようとして、回転寿司に行ったけれど、一番安い皿を三皿食べただけで店を出た。大人になってちゃんとした会社で働いているのに、なぜ、こんなに貧乏なのか分からなかった。通帳の残高は数千円しかなくて、いつも心臓がドキドキした。親に電話して「お金を送ってくれ」と頼んだら、最初は送ってくれたけど、何回も無心したら「もう送れない」と言われてしまった。
お金がなくなると、最初に切れるのは人の縁だと思う。お金がないと喫茶店にも居酒屋にも入れない。友達に話を聞いてもらいたくても、その手段がない。PHSは持っていたけれど、支払いが怖いので滅多に使わなかった。お金が手に入らないことにより、私と社会をつなぐ糸は一本、また一本と切れていった。
またこの地獄の人生を生きなければならない
その頃の私を支えていたのは「自殺」だった。死ねば、この苦しい状態から逃れられる、眠ったまま、一生朝を迎えることがないというのは、苦しい人生を送っていた私にとって、一筋の希望だったのだ。私は自殺を決行する日、友達に電話をした。泣きながら「とても辛い」と話したけれど「これから死ぬつもりだ」とは言わなかった。電話を切った後、手元にある精神科の薬を全て飲んだ。相当な量で、飲むのにとても苦労した。
私はその後、友達の知人に発見され、救急車で病院に搬送された。全身に薬が回っていたので、人工透析を何回もした。実家にも連絡が行き、両親が病院でずっと私を見守っていた。意識不明の状態が3日間続き、やっと目を開けると、たくさんの看護師と医者、両親が私の顔を覗き込んでいた。目覚めた時に感じたのは「ああ、また、この地獄の人生を生きなければいけないのか」ということだった。
意識が戻ってから、聞いた話だと、私の命は本当に危なかったらしく、医者から「ここでの処置で障害が残ったり、死んだりしても訴えません」という念書を親は書かされたそうだ。しかし、私は命が助かって良かったと思うことができず、全身管だらけで一週間ほど入院した。食事も取れず、用も足せないので、点滴で栄養をとりながら、大人用オムツをして、尿道にはカテーテルを入れた。まだ若いのに、人生がもうすぐ終わりのような状態だった。そして、隣のベッドの患者さんが、私の入院中に亡くなってしまい、親族と思われるたくさんの人たちがその人のベッドの周りで泣いていた。死にたい私が生きていて、生きたい人が死んでしまうなんて、人生はなんておかしいのだろう。
繰り返す自殺、そして生活保護。
私はその後、実家で10年近く引きこもり、精神障害者手帳を取得した。実家にいる間、苦しくなって自殺を2回企てたが、未遂に終わった。その後、自立のため、実家を出て一人暮らしを始めたが、仕事に就くことができず、実家からの送金もなくなり、生活保護を3年間受けた。生活保護を受けている間、やはり、生きるのが苦しくなって自殺を試みたが、またしても未遂に終わった。しばらくして、体調が戻ってから、自分で仕事を探し、NPO法人でボランティアとして働くことができ、そのまま非常勤雇用で雇ってもらうことになった。働き始めてから8年くらい経つが、私はその間、一度も自殺を企てていない。もちろん、私は現在も精神科に通院しており、生きているのが苦しくなることがあるが、自殺を実行に移すことなく生活できている。
実家で引きこもりをしていた10年間、働きたくてしょうがなかった。働いている人からしたら「毎日、家で過ごせるなんて羨ましい」と言われそうだが、無職なんて、1年もやれば十分だ。それに、お金がないので、遊びにもいけない。生活保護を受けていた時は、生きるだけのお金はあったけれど、本当に生きるだけだった。
仕事というのは、お金を稼ぐだけでなく、社会にコミットするという役割がある。人間というのは、自分に役割や居場所がないと生きていくことができない。それくらい私たちは脆く弱い存在だ。もちろん、仕事がなければ、自助グループや、地位活動支援センター、デイケア、趣味のサークルなど、探せば、居場所はいろいろある。しかし、私はそれだけでは物足りなかった。20代、30代と言えば、社会で言えば、働き盛りの年齢だ。私は働くことによって、社会に帰属したかったのだ。
死にたい人は、たくさんの言葉を発して
今、社会では新型コロナの影響もあり不況の風が吹き荒れていて、職を失う人が後を絶たず、自殺者の数も増えている。職を失うことによる、貧困と、社会との断絶は、まるで20年前の自分を見るようで、胸が痛い。
私は「死にたい」という人に「生きろ」などとは決して言えない。死にたいほど辛い気持ちがとてもよくわかるからだ。私は「死にたい」人にはたくさん言葉を発してほしいと願っている。「死にたい」という言葉の裏には、たくさんのニーズがある。仕事が欲しい、家族から暴力を受けている、学校でいじめに遭っている。そういったニーズを受け止めるのが、社会の役目であり、それを実行に移すことによって、住みやすい社会が実現される。この社会を良くするためには「死にたい」あなたの声が必要なのだ。
それでも、「死にたいほど辛いけど、助けて欲しい」ということを誰かに伝えるのはとても難しいと思う。伝えられた側もどう受け止めればいいか分からないということが理解できるくらい、あなたは人の気持ちが分かるからだ。それならせめて「助けてなんて言えないよね」と愚痴を吐いて欲しい。それだけなら相手も苦笑いして頷いてくれるだろう。問題が解決できなくても、苦労を抱えたまま、一緒に生きることはできる。そうやって生きているうちに新たな道が開けるかもしれないし、時が経てば、状況が変わるかもしれない。愚痴を吐いて、毒を吐いて、死ぬ時を少しでも先送りしてくれたらと願う。
自殺を少しでも考えてしまう人や、周りに悩んでいる方がいる人たちなどに向けて、以下のような相談窓口があります。
(文:小林エリコ 編集:榊原すずみ/ハフポスト日本版)