初のエッセイ『ダブルハッピネス』(講談社)から14年、杉山文野のその後の軌跡がつづられた『元女子高生、パパになる』(文藝春秋)が出版された。
文野との出会いは、初エッセイ出版のさらに2年前、いまから16年ほど前。私が立ち上げた「夜鳥ノ界」という歌舞伎町のゴミ拾いをするボランティア団体のHPに、文野がメールをくれたのだ。
それをきっかけに、グリーンバードなど、ほかのゴミ拾いのボランティア団体の視察に一緒に足を運び、さらにそこで長谷部健さん(現渋谷区長)や左京泰明さん(シブヤ大学創設者)と出会い、ともに社会について考えたり、飲んだりしてきた。
とにかく私と文野は酒をよく飲むので、いろんな場所でいろんな人たちと飲んで、結局最後には二人になっている…そんな16年間だった。
新刊『元女子高生、パパになる』出版前に文野から、本書には私に関する記述がないと報告があった。「今日を迎えたのも、いつだって相談にのってくれたまき兄のおかげです」とあとがきに書けと命令したのですが、「あとがきで編集者などに感謝を述べるのって本当ダサいと思っているんですよね~」と強烈に拒否られた。
文野は映画『冷たい熱帯魚』のでんでんのように私を透明な存在にした。そして私は、もう消えているのに『シックスセンス』のブルース・ウィルスのようにずっとアドバイスをし続けていたみたいだ。
…と、そうやってどうでもいい話から、物事の核心に迫っていくというのが、新宿面倒くさい系だ。文野の14年間は知っているが、一応読んでみた。一応。
ここからは個人的な考察だ。
「パパ」という言葉に違和感
『元女子高生、パパになる』━━。「女子高生」「パパ」、明らかに人間を属性分けする単語を並べている。商業的にキャッチーにさせたかっただけなのだろうか?
性別に関係なく親とだけ言えばいいものを、あたかも男親と女親に異なる役割があるかのようにパパという言葉を使っていることに私は違和感を覚えた。
あえて使う必要があるのか?
パパという言葉を目立つところで使うことで、その存在を認めてしまうことになりかねないか、その役割や男らしさの再生産に加担してしまうのではないか?
言葉狩りをしても、社会から「男親」という概念が消える訳では決してないだろう。しかし、そのリスクを背負ってでも本のタイトルという、その言葉だけが独り歩きしてしまうようなところでパパという言葉を使ったことには何かしらの強い意志を感じる。
私のように無責任に、結婚制度なんて失くせばいいじゃん。全員自由!!なんて叫んでいるだけの人間にはわからない苦労が、権利を持たない当事者にはある。
権利を当たり前に持ってしまっている人間にはわからないのだろう。選択肢を持っている上で選ばないのと、選べないのは全く違う話だ。
きれいごとだけで、机上の空論で、社会を変革させることなんて出来ない。
理想論で言えば、「パパもママもなくなればいい」「結婚制度なんてない方がいい」と文野も思っているかもしれない。しかし、そんな一気に社会を変えることは出来ない。そして何よりいま目の前で、不平等を突きつけられている人達がたくさんいる。
目の前で「乗り越えようとしている人たち」がいる。パパになりたい人も、ママになりたい人も沢山いる。その背中を押すタイトルなんだ。
性からの自由もあれば、性への自由もある。
自分がロールモデルになるという覚悟
「文野はいいよな。カミングアウト出来る環境で…」。そんな言葉は聞き飽きるくらい聞いてきただろう。その上で、堂々たる活動家としての態度だ。
全員をいますぐに救うことは出来ない。現実的な一歩を進むんだ、という強い意思表示だ。
レインボープライドのリーダーとしての自覚を持った瞬間が、『ダブルハッピネス』以後の最大の転換期だと思っていたが、更に一歩進み活動家としての覚悟を持ってこのタイトルを付けた時こそ、文野の更なる進化の転換期なのだろう。それは今後の人生の指針に感じる。
パートナーの両親に、1人の人間として認められるようになるため、文野は自分の生き方と向き合ったのだろう。だからこそ人生の覚悟が出来たように思う。
性を問われ続ける日本社会
自分自身を何かの型にはめようとせず、誰もが主体的に自由に生きられる社会なんて訪れるのだろうか。
いや今ならば何かの型にはまりたいと思う人の方が多いだろうし、そうやって生きることだって自由だ。私だって強い肩書が欲しい。いや、あった方が現実的に生きやすいと思っている。
現状を見渡してもわかるように、きれいごと過ぎる理想社会がいきなり訪れることは決してない。いや、訪れることなんて現実的に無理なのかもしれない。
あらゆる差別や偏見が溢れている。そのほとんどに気づかず生きてしまえている人が沢山いるのが現実社会だ。その現状をまずは知ることなのかもしれない。
未だに必要な情報でないにもかかわらず、男性か女性か、性別に〇を付けなければいけないアンケートは多い。その度に苦しい思いをする人がどれだけいることか。これだけ性を問われ続ける社会で、性からの自由なんて夢のまた夢だ。
そのための第一歩であり、一丁目一番地が「性への自由」なのかもしれない。
当事者たちに生きる勇気を与えたい
LGBTQの活動家の方々の発言は決して自分達だけの権利を、とは言っていない。あらゆる差別偏見、不平等を受けている人達の思いも含めて闘っている人ばかりだ。社会が変わることを求めているのだ。
だからこそ現実的な一歩を真剣に考え、自らがロールモデルになるということに到る方々なのだろう。
セクシャリティやジェンダーなど個人としての在り方、そして家族や恋人、友人関係など人との関わり方、色んなパターンがあるということを、少しずつ知ってもらう。そういうことだ。とてもとても地道だ。
そして何より、当事者たちに勇気を持って貰いたい、当事者を救いたいのだ。
パレードで最前線を歩く時に文野が思うのは、文野の存在を知って、連絡をくれたけれど救えなかった仲間の顔だそうだ。
自分がロールモデルになることによって、生きる勇気を与えたい。そうした思いの方が、社会を変えたいという思いよりも強いのかもしれない。「私もああなれるんだ!」と思える人を増やすことだ。その勇気がどれだけの人を救うことになるのだろう。
「私みたいな生き方もあるよ」
この本は、ある一人のロールモデルが、性への自由を求め、さらに社会のなかで新しい家族の在り方を提示する物語だ。
条例を作って社会ムーブメントになったりもしたが、文野は決して社会がこうあるべきとは言わない。「私みたいな生き方もあるよ」という提示だけだ。
その覚悟に到る物語だ。
文野は自分がロールモデルとして生きていくという勇気を持って、その人生を歩み始めた。それは、見方によっては特殊な人間かもしれないが、同時に選ばれた人間でもあるのだ。こういう人間に、私は政治家になって欲しいと思う。