誰もが一度は「好きなことで生きていきたい」と思ったことがあるのではないか。しかし、好きなことを生業にする道がいつも目の前に開かれているとは限らない。これという「職業」がなかったり、その道で成功したフロントランナーがいなかったり。そんなとき、私たちは何を「道しるべ」に夢へと向かっていけばいいだろうか。
ZiNEZ(ジンジ)さんは、フリースタイルバスケットボールという競技で、世界を牽引してきた日本人パフォーマーだ。プロパフォーマーとして国内外のステージに立ちながら、タレント、モデル、ラジオのDJなどもこなす。
フリースタイルバスケットボール(以下、フリースタイルバスケ)とは、音楽に合わせてバスケットボールで様々な技を繰り出すパフォーマンス競技。アメリカの黒人が路上で始めたストリートバスケットボールから派生し、近年は日本のみならず中国や東南アジアで一気に競技人口が増え、ブームとなっている。
12年前、史上最年少の18歳でフリースタイルバスケの日本一決定戦で優勝し、連覇を果たしたZiNEZさん。アメリカの国際試合でも優勝した。しかし当時の日本には、趣味でパフォーマンスをする人はいても、フリースタイルバスケだけで生計を立てるプロのパフォーマーはほとんどいなかった。そんな時代、彼は代々木公園でホームレス生活をするなど「どん底」も経験しながら、プロとして生きる道を追い続けてきた。
「夢の叶え方が分からないとき、どうしたらいいですか?」
ZiNEZさんに聞いてみた。
「同じようなことやっているヤツ、世界にも沢山いたんだ」。フリースタイルバスケとの出会い
一瞬宙に上がったボールは、引き寄せられるように指先に着地すると、腕や肩、背中を滑らかに走っていく。
「身体の動きのロジックが “ボールありき” でできている。ボールは、もはや僕にとって無くてはならない身体の一部だと思います」とZiNEZさんは言う。
フリースタイルバスケに出会ってから15年間、ボールを持たなかった日は1日たりとも思い出せない。
出会いは、中学生の時にたまたま訪れた原宿のバスケットボール用品店。店内で流れていたストリートバスケットボールの動画に目が釘付けになった。
「部活でバスケをやっていた自分からすると、めちゃくちゃアーティステックで、挑戦的で、すごくかっこいいなと思って」
すっかり刺激を受けると、自分でもドリブルをかっこ良くアレンジしてみたり、ダンスに合わせてボールを操ったりするようになった。「もっとすごい技が世の中にあるんじゃないか」。そう思い、ネットで辿り着いたのが、フリースタイルバスケだった。
「『これだ!』と思ったと同時に、もともと自分がやっていたのがまさにフリースタイルバスケだったと知ったんですね。『同じようなことやっているヤツ、世界にも沢山いたんだ』って思いました」
ルールにもプレーする場所にも縛られず、ボール1つさえあれば、自分自身を自由自在に表現できる。そんな魅力に、のめり込んでいった。
次第に自分のパフォーマンスをYouTubeに投稿するようになると、世界中のパフォーマーから反応が返ってきた。「ネットで俺のパフォーマンスを見てくれる人がいる」それがただ楽しくて、動画を投稿し続けた。
「来週、ニューヨークに来ないか」。YouTube動画をきっかけに、突然降ってきた人生の転機
転機は思わぬ形でやってきた。
「来週、ニューヨークに来ないか」。
ある日突然かかってきた電話。それは、将来のNBA選手候補となるような世界トップレベルの高校生が集う大会「ジョーダン・ブランド・クラシック」のハーフタイムショーでパフォーマンスをしないか、という思いがけないオファーだった。会場は「バスケの聖地」とも言われるニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン。
YouTubeで公開していた動画が、スカウトマンの目に止まったのだ。
中学2年生で母親の母国・カナダに移り住んでいたZiNEZさん。「行きます」。躊躇いもなく返事をすると、一人カナダからニューヨークに飛び立った。
現地で迎えてくれたのは、動画で見ていた憧れのパフォーマーたち。「君のこと知っているよ、動画見てるもん」と声を掛けられた。まさに夢の中にいるような高揚感。それが彼の人生初のステージだった。
そこからは勢いが止まらず、同じ年にはフリースタイルバスケで日本一を決める大会で優勝。翌年の2009年にはアリゾナ州で開かれた国際試合「Streetgodz getdown 2k9」で優勝した。日本でも注目されるようになり、テレビから出演オファーもくるようになった。
そして、この頃からはっきりとこんな思いを抱くようになる。
「フリースタイルバスケで自立したい。日本で、プロでやっていけるんじゃないか」
しかし、そんな期待を抱いて日本に帰国した彼を待っていたのは、思わぬ挫折だった。
「常にお腹が空いていた」代々木公園でのホームレス生活
「18歳のときに24時間テレビの『ダンス甲子園』に出て、そこで声をかけられたんですよね。『君絶対日本でいけるから』って。今思えば、危なそうでしょう(笑)でも、若かったのもあって、一刻も早くフリースタイルバスケで食ベていけるようになりたかった。航空券代だけお寿司屋さんの皿洗いのバイトで貯めて、日本に帰国しました。それで、あてにしていた人たちを訪ねていったら、結局まともに相手にされなかったんですね」
現実はそれほど甘くないと思い知った。
実は、家出同然でカナダの実家を出たZiNEZさん。今更カナダに戻れるはずがなく、かといって東京に経済的に頼る先はない。住所がないためバイトもできなかった。手持ち金が尽きて、たどり着いたのは東京の代々木公園だった。
「あの時は、常にお腹が空いていましたね。10円玉を見つめながら何を買うかを悩んでいた30分を今でも覚えています。気持ちいい状態で眠れない、服が臭い、お風呂も友達の家に借りなきゃいけない。当時は、絶対夜に寝なかったんですよね。夜寝ると、ホームレス感出て悲しいじゃないですか。だから太陽が昇って犬の散歩する人たちが出てきたぐらいの時間に、昼寝している人を装って寝ていました」
日雇いで働いてお金を稼ぎ、どうしようもない時は知り合いに頭を下げて借金をした。
しかし、そんな先が見えない毎日でも、夜通し路上でパフォーマンスの練習をすることだけは止めなかった。
当時、フリースタイルバスケを諦めようと思ったことはなかったのだろうか。そう問いかけると、ZiNEZさんは少し考え込んで、口を開いた。
「やめようと思ったことはないです。ただ湧き上がるものですよね。人ができないパフォーマンスをやってみたい、フリースタイルバスケをプロにしてみたい、その熱意だけ。苦労している自分が絶対何かになる。それを神様というか宗教のように崇めていた部分はあるかもしれないです」
ようやくホームレス生活から抜け出せたのは、半年後。知り合いのバスケショップで働き口が見つかり、ようやく四畳半の家を借りることができた。そこから、所属していたフリースタイルバスケのチーム「Peak Wander Ballerz」やパフォーマンスチーム「TOKYO creatist」など通じて、少しずつテレビやイベントから声がかかることが多くなっていった。
「悩んでいるくらいなら、どんどんやれ。そして強くなっていけばいいじゃない」
ZiNEZさんは2020年、30歳を迎えた。人生のちょうど半分をフリースタイルバスケに捧げてきたからこそ、見えてきた景色があるという。
フリースタイルバスケットボーラーという「正解図」が存在しなかったからこそ、あえて「枠」を決めずに様々なジャンルに挑戦してきたというZiNEZさん。すると、フリーバスケットボールという「幹」から、枝が出ていくように活躍の場も広がっていった。
「僕が帰国した当時の日本では、普通のバスケをやっている人が、コートの外で“おまけ”としてフリースタイルバスケをしていたんですね。でも僕は、バスケと切り離した “フリースタイルバスケ” を極めたいという異端児だった。だからその分、どうしたらフリースタイルバスケの魅力を伝えられるだろうと、舞台やバラエティ番組に挑戦してみたり、ラジオDJで番組を持ったり、アメーバのようにいろんなことに挑戦してきました。そしたら、全然違うジャンルの仕事を『フリースタイルバスケットボーラー』としてこなすという道が見えてきた」
そして、彼はこうも続ける。
こうしてフリースタイルバスケットボーラーとしての新たな可能性を切り開いてこれたのも「歩みを止めなかったから」だと。
YouTubeに動画を投稿し続けたこと、そして15年間フリースタイルバスケを毎日「愚直に」練習してきたこと。振り返れば、いつも「続けることで、道が見えてきた」。そう話す彼は「夢の叶え方」について、こう話した。
「ありきたりかもしれませんが、自分が打ち立てたことを何か1個でも続けてみるのって意外と大切かもしれません。そうやって行動し続けると、絶対ぶつかってくる何かがある。もしかしたら、怖いとか、痛いとか、いろんな経験をするかもしれないですが、一つ一つに向き合って『変わったな』と自分自身に思えたら、それは夢に向かってまた一つ進んでいるということじゃないですかね。だから僕は、後輩によく言うんです。『悩んでいるくらいなら、どんどんやれ。そして強くなっていけばいいじゃない』」
「ボール一つでポジティブに生きれる若者を増やしていきたい」
フリースタイルバスケットボーラーとしてのZiNEZさんの歩みはまだ止まらない。今は2つの夢を見据えているという。
一つはフリースタイルバスケを後世に残すこと。フリースタイルバスケを日本の文化として根付かせるため、仲間と共に、日本でフリースタイルバスケの協会を正式に発足させる予定だ。
「これまで僕は自分のためだけにパフォーマンスをしていたところがありましたが、最近もう一つ、後輩たちがフリースタイルバスケを続けていける土台を作っていこうと仲間たちと腹を括りました。振り返れば、『新しい技がまた一つできるようになった』っていうフリースタイルバスケで得た達成感が、僕の毎日をハッピーにしてくれたし、自信をくれた。本当に『ボールに寄り添ってもらった人生』なんですね。だから僕のように、ボール一つでポジティブに生きられる若者を増やしていきたい。あとはおじいちゃんになった時、フリースタイルバスケのデカい大会が開かれるようになっていたら、最高に嬉しいですね」
一方で、パフォーマーとしての野望も果てない。
「ボールって、音楽にもファッションにも何にでも『タコ足』のように繋げられる。だから表現者として、“ボール × ●●”の可能性にどんどん挑戦していきたいです」