俳優としてテレビや映画で活躍する佐藤二朗さんにインタビュー。かつては劣等感から自分に自信が持てず、「暗黒の20代」をすごしていたという。夢と現実の狭間で葛藤し、苦しみの末に見出した思いをうかがった。
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――俳優を目指そうと思ったきっかけは?
僕が覚えているかぎりの最初の記憶は、小学4年生の学習発表会での劇です。そのとき僕は脇役を演じたはずなんですが、なぜか僕のセリフの量は劇全体の7割を占めていてね。
たいへんでしたが喋るたびに、みんながすごく笑ってくださったんです。そこから「お芝居ってなんて楽しい世界なんだ」と思ったんです。
また、ちょうど同じ時期に、脚本家の山田太一さんや倉本聰さんのドラマをかじりつくように観ていたので、その影響も大きかったですね。
そうしたことからお芝居の世界に夢中になり、しまいには「僕は俳優になる」と思いこんでいました。
今考えると頭がおかしいとしか言えないんですが、「俳優になるのが夢? いやいや、なる運命だから」と本気で考えていたんです。バカですね(笑)。
でも一方で「そんなの無理に決まっている」と否定する自分もいました。僕は田んぼ畑が広がる片田舎に住んでいたので「大東京にひとりで上京して、役者で飯なんて食えるわけがない」とも思っていたんです。
結局は俳優の道に進む勇気が持てず、大学を卒業してリクルートに就職しました。ところが、1日で辞めてしまったんです。
――そうだったんですか!
もちろんリクルートさんには非がないし、僕も辞める気はなかったんですが、入社式でいっしょに働く同僚や熱意あふれる上司の話を聞いているうちに「この人たちと10年も、20年もいっしょに仕事するんだ。このまま俳優をあきらめるんだな」と実感したのね。
気づいたら入社式のあと、寮にある荷物も置いたまま、ふわ~って鈍行に乗って、地元に帰ってしまいました。
こうなったら俳優に挑戦するしかないと思って、その後、2つ養成所に通いました。でも、現実は厳しくて劇団員になれませんでした。「僕には適性がないんだ」とショックに打ちひしがれ、やむなく広告会社に就職したんです。
あのころは俳優への気持ちを打ち消すことに必死でした。がむしゃらに働いたので、営業成績も悪くなかったんですけどね。
でも、ふとした瞬間に「俳優になる運命だ」と言っていた過去の自分がよぎるんです。何度もふり払うんだけど、どうやったって消せない。
俳優になるのがやっぱり運命
もうこれは「覚悟するしかない」と意を決し、仕事のかたわら27歳で「ちからわざ」という劇団を立ち上げたんです。スーツのまま稽古場に向かい、脚本・出演をこなす日々でした。
転機が訪れたのは、31歳のときでした。会社も辞めバイト生活でしたが、劇団「自転車キンクリート」の舞台を観に来た演出家の堤幸彦さんが僕を気にいり、ドラマ「ブラックジャック」に医者Aという役で出演機会をいただいたんです。
出番自体はたったワンシーンだったんですけど、現事務所の社長が観てくれて、「なんだあいつは」と言って声をかけてくれました。それから少しずつに仕事をいただくようになって、現在に至るという感じです。
いや~本当に長かった。もうね、暗黒の20代(笑)。本当に不安でしかたなかったです。
――佐藤さんは俳優だけでなく、監督・脚本家としても活躍されています。佐藤さんご自身の強迫性障害の経験をもとに製作された映画「memo」は印象的な作品でした。
「memo」は、頭のなかに浮かんだことをくり返しメモしてしまう強迫性障害を抱えた主人公が、いろんな人との出会いをきっかけに、自らの病と向き合う映画です。
映画のキャッチコピーは「闘わないよ、ただ生きてくから」であり、この言葉に共鳴する人も多いんです。
でも、正直な僕の気持ちを言うと、そうは言っても歯を食いしばって闘うことも必要だろ? ということを伝えたかったんです。監督が伝えたいことをしゃべっちゃうって、かっこ悪いんだけど(笑)。
苦しんでいる人に対して「闘いなさい」なんて言葉は厳禁ですし、闘わずに助けを求めたほうがいいです。でも、人間が歯を食いしばって「闘う」ことの価値はあると思っています。
――佐藤さん自身そう思えたきっかけは、何かあるのでしょうか?
僕が小学生のころに遡るんですけど、主人公と同じようにメモ癖で悩む僕を心配した親がカウンセリングに連れて行ってくれました。そこで出会ったカウンセラーの言葉が印象的で「クセを治したら、あなたのよい面もなくなるかもよ」と言ってくれたんです。
自分のマイナスな面ばかりを責めていた僕にとっては発想を変えてくれる言葉でした。たしかに一見劣っていると思える部分も、裏を返せば優れた感覚なのかもしれないし、別の場所でプラスに転じることだってあるかもしれないと思えたんです。
今も昔も僕の根っこは同じ
ありがたいことに芝居を続けていると、いろんな演出家から「お前は他人にない感覚を持っている」と言われることがあります。それが強迫性障害と関係があるかはわからないけど、自分の感覚を評価してくれる人もいるんだなって、うれしかったですね。
僕自身は子どものころと根っこの部分は変わりません。今だって根拠のない自信を持つ自分もいれば、弱気な自分もいます。こだわりだって強いから、メモ癖も残ってはいます。でも今は共存して闘っていこうと思うし、それが自分の持ち味だとも思っています。
世間から見たら劣っていると思うことがあっても、それはむしろ自慢していいし、誇ってもいいことなんですよ。今苦しんでいることは、絶対どこかであなたの大切な感覚になるはず。それだけは自分の息子にも自信を持って伝えられることですね。
――たしかにそう考えると苦しむってマイナスなことばかりじゃないですよね。
話は逸れますが、鍼治療の原理ってご存じですか? 鍼治療というのは、鍼でつける傷を利用して血流をよくするのが原理なんだそうです。
『笑福亭仁鶴50周年記念ドラマ だんらん』の脚本を書かせてもらったときに、その話を活かして、あるセリフを盛り込ませてもらいました。おじいさん役の近藤正臣さんが孫役の菅田将暉くんに将棋を指しながら、関西弁でこう言うんです。
「血ィが必死になって傷を補おうとする。それが、生きる力や」。
傷つき悩むとき命が燃えている
自分で言うのもなんですが、めちゃくちゃいいシーンです(笑)。鍼治療と同じことは人生にも言えるかもしれません。傷つくとか、自分のこだわりで悩むとか、ものすごくめげるとか、それって命を燃やしていることかもな、と。
20代の僕なんか、ほんとバカみたいに突っ走って、夢と現実の狭間で、もがきながら生きていました。たくさん傷ついて、たくさんめげてきて、今となっては思い出したくない日々です(笑)。メンタルに悪い生き方をしていたと思います。
でも、人間はときに、そういう生き方をしてもいいんじゃないかって思うんです。往生際が悪く、生きていいんです。そうやって、命を燃やして生きることが輝きに変わることもあるんじゃないでしょうか。
――とはいえ、渦中にいるとき、まわりのひとは心配すると思います。今子どものことで悩んでいる親に対して、佐藤さんからアドバイスはありますか?
あまり子どもといっしょに悩んで沈んでしまうと、その子の帰れるところがなくなってしまう気がします。もちろん、子どもが苦しんでいることを軽視すると、本人は傷つきます。
だから、本人が苦しんでいることには敬意を払いつつも、親自身はマイナスな意識から遠ざかる。そうなると、子どもの状態がよくなったときに帰れる場所があるじゃないですか。
そんな距離感が、親と子ではいいのかなあ。僕も今、子育ての最中だから、わかんないけど。
――ありがとうございました。
(聞き手・木原ゆい、石井志昂/撮影・矢部朱希子)
【プロフィール】
佐藤二朗(さとう・じろう)
俳優・脚本家・映画監督。1969年愛知県生まれ。1996年に演劇ユニット「ちからわざ」を旗揚げ。 最近ではドラマ『浦安鉄筋家族』や映画『幼獣マメシバ』に出演するなど数多くの作品に登場。
(2020年10月1日の「不登校新聞」掲載記事『「治せない弱さが持ち味になった」俳優・佐藤二朗が伝えたいこと 』より転載)