ロシアの闇の勢力が再び牙をむいた。
プーチン政権を声高に批判していた活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏が、シベリアからモスクワへ向かう飛行機の中で意識不明の重体になった。彼はドイツの病院に搬送されて一命をとりとめたが、この事件はロシアとEU(欧州連合)間の「新冷戦」をさらに深刻化させるだろう。
この事件を受けてドイツでは、ロシアからの天然ガスパイプラインの建設を中止するべきだという声も出ている。
軍が兵器として使用する毒物
事件が起きたのは8月20日。旅客機はオムスク空港に緊急着陸し、ナワリヌイ氏は家族の要請でベルリンのシャリテ医科大学病院に搬送された。この病院の医師たちは過去にロシアの体制批判者が毒を盛られた時にも治療にあたっており、毒物に関する救急医療の経験が豊富だ。
シャリテ病院は8月24日に、
「ナワリヌイ氏の症状は、神経剤による疑いが強い」
と発表した。ナワリヌイ氏の身体から採取された検体は、ミュンヘンにあるドイツ連邦軍の化学物質研究所に送られて分析された。この研究所は、化学戦やテロに備えて様々な毒物を研究する特殊施設で、その実態は秘密のベールに包まれている。
メルケル政権は同研究所の分析結果に基づき、
「神経剤ノビチョク系の毒物が使われたことには、疑いの余地がない」
という声明を9月2日に公表した。またフランス軍とスウェーデン軍の研究所も、検体を分析した結果同じ結論に達した。
ノビチョクは、1970年代にソ連が化学戦のために開発した強力な毒物で、2018年に英国で起きた、ロシアの二重スパイだったセルゲイ・スクリパリとその家族を狙った暗殺未遂事件でも使われた。
ドイツ政府がこの日の声明で使った「chemischer Nervenkampfstoff」という言葉に注目する必要がある。これは日本語には直接該当する訳語がないが、あえて訳すと「戦闘(Kampf)に使われる、神経に作用する化学物質」という意味だ。つまり民間ではなく、軍が開発して兵器として使用するための物質なのだ。
ノビチョクは、皮膚に少量付着しただけでも、健康被害を起こす。取り扱いを誤ると、暗殺を試みる側にも深刻な健康被害が出る。専門知識を持たない犯罪組織のメンバーなどが容易に使える毒物ではない。
メルケル政権があえて、chemischer Nervenkampfstoffという言葉を使用したのは、戦闘用神経剤の取り扱いに習熟した軍や諜報機関の関係者が介在している可能性を間接的に示唆するためだ。
すぐに治療できない旅客機内で発症し、塗炭の苦しみを味わうよう、搭乗直前か直後に毒を盛った手口も、他の政府批判者に対する「見せしめ」を思わせる。
歯に衣を着せぬ批判
アンゲラ・メルケル首相はこの分析結果を受けて、副首相、国防大臣、外務大臣らを集めて緊急会合を開いた。その後首相は厳しい表情で記者会見に臨み、
「私はナワリヌイ氏に対する毒殺未遂を厳しく糾弾する。この毒殺未遂は、政府批判者を沈黙させることを狙ったものだ。我々ドイツ人が重視する、(民主主義という)基本的な価値と人権を破壊しようとする試みだ。
ロシア政府は、この事件を解明しなくてはならない。世界はロシアの答えを待っている」
と述べた。普段は慎重な言葉を選ぶメルケル首相には珍しい、歯に衣を着せぬロシア批判だった。
シュテフェン・ザイバート報道官も、
「ナワリヌイ氏がロシア政府に反対する勢力として重要な地位にあることを考えると、ロシア当局はこの事件を徹底的に解明し、その過程と結果を公表するべきだ。ナワリヌイ氏を襲った者たちを逮捕し、法的責任を追及しなくてはならない。我々はナワリヌイ氏が治癒することを願う。厳しい運命に襲われたナワリヌイ氏の家族に対しても、我々は心から連帯を示す」
という声明を出している。
メルケル政権がハーグの化学兵器禁止機関(OPCW)や北大西洋条約機構(NATO)に鑑定結果を報告したことも、ドイツが戦闘用神経剤を使った暗殺未遂事件をいかに重く見ているかを示している。
ノビチョクが体内に取り込まれた場合、被害者は激しい苦痛に苛まれる。このためシャリテ病院の医師団は当初、ナワリヌイ氏を麻酔によって人工的な昏睡状態に陥らせ、1995年の地下鉄サリン事件の治療でも使われたアトロピンを主に用いて治療にあたった。その結果ナワリヌイ氏の容態が安定したため、医師団は人工的な昏睡状態を終わらせた。
彼は9月15日、家族とともに病室で撮影した写真をインスタグラムに掲載し、
「昨日は初めて、人工呼吸器を使わずに、自分の力で呼吸をすることができた。健康を回復したら、ロシアに戻る」
というメッセージを書き込んだ。しかし医師たちは、
「重い後遺症が残る可能性は否定できない」
と語っている。
ドイツ連邦刑事局(BKA)やベルリン警察は、ナワリヌイ氏が病院内で刺客に襲われる危険もあるとして、シャリテ病院に厳重な警戒態勢を敷いている。
これに対し、9月3日にプーチン政権の報道官は、
「今回の事件についてロシア政府が批判される理由は全くない。この暗殺未遂事件によって、利益を得る人は誰もいない」
と、関与を強く否定している。
ただし、ナワリヌイ氏の毒殺未遂がロシア国内で起きたことから、ロシア検察庁の検事総長はドイツに対して捜査共助を要請し、ナワリヌイ事件に関する捜査資料の提供を求めている。
捜査資料の引き渡しについては、ドイツ政府は慎重にならざるを得ないだろう。ロシア軍や諜報機関は、捜査資料の中からドイツ連邦軍の化学物質の検出能力に関する情報を得ようとするからだ。
ナワリヌイ氏の検体に関する分析データは、さらに検出が難しい神経剤をロシア軍や諜報機関が将来開発する上で、貴重な情報になり得る。ドイツの対応にプーチン政権は、
「ドイツ政府は捜査資料を開示せず、我が国の捜査を妨げている」
と批判している。
ナワリヌイ氏を誰が暗殺しようとしたのか、また誰が暗殺を命じたのかは、過去の事件同様に闇に包まれたまま終わるに違いない。いわんや、ロシア政府関係者が指示したという証拠は見つからないだろう。
ロシアには犯罪者、マフィア関係者、元諜報機関員、元軍関係者など、体制側の「空気」を読んで政府批判者の殺害を試みる人々がいる。実行者は、誰の指示で暗殺を試みたかについて、証拠を残さない。
欧州では21世紀に入って、プーチン政権が敵視する人物が刺客に襲われる事件が相次いでいる。
前述した2018年のロシアの元二重スパイ毒殺未遂事件は、西欧でノビチョク系神経剤が使われた初めてのテロだった。このとき英国政府は、
「ロシア政府は捜査に全く協力しない」
として、ロシア人外交官23人に対して国外追放措置を取った。
またドイツでは去年、ベルリンの公園でチェチェンにルーツを持つジョージア人の亡命者がロシア人に拳銃で射殺された。被害者はコーカサス地方でロシア軍と戦った抵抗勢力のメンバーだった。ドイツの捜査当局は、ロシア軍の諜報機関が殺害を命じたと見ている。ロシア政府はこの時にも、ドイツ側の捜査に積極的に協力しなかった。
「金と天然ガスだけ」
さて、ドイツなどEU諸国は、強権国家の性格を強めるロシアにどう対応するだろうか。
メルケル首相は9月2日の記者会見で、
「他のEU加盟国と協議した上で、ロシア政府に対してしかるべき措置を取る」
と、明言している。
様々なオプションが検討されているが、いま欧州の政界・経済界で最も注目されているのが、ロシアからドイツに直接天然ガスを輸送する海底パイプライン「ノルドストリーム2」の建設計画が中止されるかどうかである。
ノルドストリームは、現在欧州で行われている最大のエネルギー関連プロジェクトの1つだ。第1期工事といえるノルドストリーム1については、2本のパイプラインの建設が2010年4月に始まり2011年に完成、2012年10月にガスの供給を始めた。
ロシアとドイツを結ぶ全長1224キロメートルのパイプラインはバルト海を通過する。このため、ウクライナやポーランドなど、ロシアにとって政治的なトラブルを抱えている国の領土を通らずに、ガスを西欧諸国に輸送できるという利点があり、毎年約550億立方メートルのガスを西欧諸国に供給している。ノルドストリーム1の総工費は124億ユーロ(約1兆4880億円)に達した。
第2期工事、つまり最初のパイプラインにほぼ並行するノルドストリーム2の建設工事は2018年に始まった。このパイプラインが完成すると、ロシアが西欧に送る天然ガスの供給量は1100億立方メートルに倍増する予定だ。すでに約90%が終了している。
第2期工事を担当する「ノルドストリーム2社」は、スイスの租税回避地ツークに本社を持ち、天然ガスの供給・生産が世界最大であるロシアの国営ガス会社「ガスプロム」が株式の100%を保有している。ただし、ドイツの大手電力会社「ユニパー」など西欧の5社のエネルギー企業が、パイプラインの建設費用95億ユーロ(約1兆1400億円)をそれぞれ10%ずつ負担する(1社あたり9億5000万ユーロ)。
だが、ナワリヌイ氏暗殺未遂事件のために、このプロジェクトは強い逆風を受けている。
「プーチン大統領に、西欧の怒りを理解させるには、この工事を止めるしかない」
と主張するのは、連邦議会外交委員会のノルベルト・レットゲン委員長だ。彼はメルケル首相と同じ「キリスト教民主同盟(CDU)」に属し、メルケル後継者候補の1人として、今年12月のCDU党首選に名乗りを上げている。
レットゲン委員長は、9月6日に『ドイツ第2テレビ(ZDF)』のインタビューで、ノルドストリーム2建設工事の差し止めを求めた。
「これ以上ロシアのやり方を見過ごしてはならない。プーチンが理解する唯一の言語は、金と天然ガスだけだ。我々はロシアとの交渉で、ノルドストリーム2を、圧力をかけるための手段として使うべきだ。
もしも今、欧州がノルドストリーム2計画を中止しなかったら、プーチン大統領は『結局西欧諸国が憤るのは数日間だけで、その後は全て忘れてしまう。我々は将来もこれまでと同じ方法を続けられる』と確信するだろう。
ロシアに対しては、建設中止を含む強硬手段を取る以外にない。EUは2014年のロシアによるクリミア半島の併合、ロシア軍のウクライナ内戦介入について経済制裁を実施したが、ロシアは全く動じていない。これまでのEUのやり方は甘すぎた」
また、来年のドイツ連邦議会選挙で連立政権入りすると見られている「緑の党」のアンナレーナ・ベアボック共同代表も、9月4日、『シュピーゲル』誌のインタビューで、こう答えている。
「ナワリヌイ氏を狙った毒殺未遂はクレムリンの差し金によるテロだ。ドイツ政府は直ちにノルドストリーム2の建設停止を命じるべきだ」
ドイツ政府関係者も、ノルドストリーム2の建設中止が俎上に載せられていることをほのめかす発言を行っている。
たとえば9月6日、ハイコ・マース外務大臣は、
「ロシア政府は、我々が建設計画を考え直さなくてはならない立場に追い込まないことを望む」
と語った。さらにメルケル首相も9月7日にマース大臣の言葉に同調し、
「この時点では特定の(制裁)オプションを排除することは誤りだ」
と述べ、EUと協議中のオプションの中に、ノルドストリーム2の建設中止が含まれていることを間接的に認めた。
これらの発言から、メルケル政権の中でも、「これ以上、批判者を暴力で排除しようとするロシア流のやり方を拱手傍観していてはならない。さもないと、今後も似たようなテロが続く」という危機感が強まっていることがわかる。
ノルドストリーム社に天下り
ノルドストリーム2社は、
「このパイプライン・プロジェクトはEU諸国のエネルギー供給の安定に寄与する。純粋に経済的なプロジェクトであり、政治とは無関係だ」
と主張する。だがエネルギー事業が、各国の安全保障や政治家の利権と深く結びついていることは洋の東西を問わない。
ノルドストリーム計画も、初めから極めて政治的な性格が濃いプロジェクトだった。そのことは、この計画がゲアハルト・シュレーダー前独首相(任期1998〜2005年)の肝いりで始まったことにも表われている。
「社会民主党(SPD)」には、歴代ロシアとの結びつきを重視する派閥がある。シュレーダー前首相はそうした政治家の1人である。
第2次世界大戦中にナチス・ドイツがソ連人民に多大な被害を与えた経験を、彼は深く反省し、ロシアとの政治的・経済的な関係を深化させようとした。彼の父親は、第2次大戦末期にソ連軍との戦闘で死亡している。
シュレーダー前首相はウラジーミル・プーチン大統領を、
「虫眼鏡でじっくり観察しても、純粋な民主主義者にしか見えない」
と評し、ハノーバーの自宅に招待するほど親しい関係を持っている。「刎頸の友」とも言えるその友情は、大統領の出身地サンクトペテルブルクの孤児を養子に迎え入れたことからも明らかだ。
2005年、ロシアのガスプロムとドイツのエネルギー企業との間で、ノルドストリーム建設計画の合意契約が調印された時、その式典には強い友情で結ばれたシュレーダー首相とプーチン大統領が同席していた。
その後、2005年の連邦議会選挙でシュレーダー前首相が敗北し、首相の座から追われると、議員辞職後、時を置かずにノルドストリーム社の株主委員会の会長に就任した。驚くことに彼は、首相時代にロシアとの間でとりまとめたガスパイプライン事業を実行する会社の幹部の座に天下りしたのだ。
この露骨な転身については、ドイツの政界からも一時批判の声が上がった。
これ以前、2014年にロシアがクリミア半島を併合した時にも、シュレーダー前首相はプーチン大統領を擁護していた。
この年にノルドストリーム社がサンクトペテルブルクで、彼の70歳の誕生日を祝うパーティーを催したところ、モスクワからプーチン大統領がわざわざ駆け付け、カメラの放列の前でシュレーダー前首相を固く抱擁した。両者のあまりの癒着ぶりに欧州は、「シュレーダー前首相は、プーチン大統領のロビイストになり下がった」と呆れ果てていた。
しかし、彼はドイツの政界での批判に全く動じておらず、こう訴えた。
「ノルドストリーム2は完成させるべきだ。ロシアはEU諸国にガスを売ることによる収入に依存している。したがって、EUが一方的にロシアにエネルギーについて依存することにはならない。相互的な依存関係を作ることは良いことだ」
SPDは党内の親ロシア派に配慮してか、ノルドストリーム2建設計画の中止に懐疑的な声も出ている。SPDのノルベルト・ヴァルター・ボリャンス共同党首は、
「ロシアに対する制裁を実施するならば、ナワリヌイ氏暗殺に関わっていた人物や組織に限るべきだ。ノルドストリーム2はエネルギーのインフラに関するプロジェクトであり、これを中止しても被害を受けるのはロシアと西欧の市民だけではないか」
と、建設工事の中止について慎重な姿勢を示した。
トランプ大統領の不満
さらにメルケル政権の中にも、「ノルドストリーム2建設を中止した場合、米国のドナルド・トランプ大統領を間接的に後押しすることになるのでは」という懸念がある。
トランプ大統領と米国議会は、これまでノルドストリーム2建設を、
「西欧諸国のロシア依存度を高めるものだ」
として強く批判してきた。
米国では、「西欧がロシアから直接輸入するガスの量が増えると、ウクライナやポーランドを通過する従来のパイプラインの利用度が減る。これは、自国領土においてガスを通過させることで、ロシアから料金を受け取っている両国の立場を弱めることになるのではないか」と、危惧する向きもある。
またこの2カ国にとっては、ロシアとの対立がエスカレートした場合、同国から西欧へのガス供給を遮断するという最後の対抗手段を失うことにもなる。
だからこそ、米国は様々な形でドイツに圧力をかけてきた。トランプ大統領と親しいベルリン駐在の米国大使が、建設プロジェクトに参加しているユニパーに、
「このプロジェクトに参加し続けると、貴社は米国での制裁の対象となるリスクが高まる」
と、脅迫状めいた書簡を送りつけたこともあった。
トランプ大統領は今年7月、ドイツ政府との事前協議なしに、同国に駐留していた米軍部隊の兵力を3分の1削減する方針を発表した。この一方的な決定の背景には、
「ドイツは防衛予算を国内総生産(GDP)の最低2%に引き上げるというNATOの目標を守らずに、裏ではロシアからガスを買っている。ドイツが米国の防衛力に依存する一方でロシアとビジネスを続けるのは許せない」
というトランプ大統領の不満がある。
ちなみに、トランプ大統領がノルドストリーム2建設に反対する背景には、米国の液化天然ガスの西欧諸国への輸出量を増やしたいという、同国エネルギー業界の意向もある。ノルドストリーム2によってロシアから直接ドイツへ送られる天然ガスの量が現在の2倍に増えた場合、米国の液化天然ガスの欧州向け輸出量が伸び悩む可能性があるからだ。
メルケル首相とトランプ大統領が犬猿の仲なのは、周知の通りだ。
これまでドイツ政府は、ノルドストリーム2建設に対する米国の批判を、「欧州のエネルギー政策に干渉するな」と突き放してきた。だが、もしドイツ政府とEUがノルドストリーム2建設中止を命じれば、11月の大統領選挙を控えたトランプ大統領は、「欧州諸国は、結局自分の命令に従った」と成果を誇れることになる。
これもドイツ政府にとっては都合が悪い。
「ロシアと政治的に対立しても、ビジネス関係は続ける」というのが、これまでのドイツと西欧諸国の伝統的な手法だった。
1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した際に欧州諸国は強く抗議し、西ドイツ(当時)は米国と肩を並べて、翌年モスクワで開かれたオリンピックをボイコットした。しかし、その裏で、西ドイツなど西欧諸国はソ連から天然ガスなどの資源を購入し続けたのである。
これは、ドイツ人たちのしたたかな性格を象徴するものでもある。
ドイツ企業にも経済的打撃
もう1つメルケル政権が配慮しなくてはならない側面は、ノルドストリーム2建設中止が、ドイツ企業にも大きな経済的打撃となるという点だ。この計画には約100社の企業が参加しており、約半分がドイツ企業。このプロジェクトに投資している企業には、多額の損害が生じる。
たとえばユニパーは、2020年上半期業績報告書の中で、
「ロシアからドイツへ天然ガスを輸送するパイプライン・ノルドストリーム2をめぐって米国政府が制裁措置を厳しくしていることから、完成が大幅に遅れるか、完成しない可能性が強まりつつある」
と、建設工事が中止される可能性に初めて言及していた。加えて、「ノルドストリーム2が完成しないというシナリオは、ユニパーにとって大きなリスク」だとし、
「万一が未完成に終わった場合、ユニパーは投資した資金を損金として処理しなくてはならず、予定していた利息収入も得られない可能性もある」
と、株主に対して警告した。
この場合、ドイツ政府は損失を被った企業に対して、多額の損害賠償を余儀なくされる。要するに、納税者が支払うことになるのだ。中止すれば、そのコストはドイツめがけてブーメランのように帰って来るだろう。
プーチン政権との「新冷戦」が険悪度を増す中、メルケル政権そしてEUは、ナワリヌイ氏暗殺未遂事件、そしてノルドストリーム2建設プロジェクトについての旗幟(きし)を近く鮮明にしなくてはならない。
しかし西欧にとって、ロシアは国際政治でのパートナーでもある。ウクライナ紛争やシリア、イランなど中東情勢についても、西欧はロシアなしには解決策を見出すことができない。不安定化した世界で、ドイツとEUはプーチン政権とコミュニケーションを行うためのチャンネルを開いておかなくてはならない。
この度の犯行が前の2つの事件とは異なり、EU域内ではなく、ロシア国内で起きたことも、EUにとっては強硬な態度を取りにくくする一因かもしれない。そう考えると、ドイツとEUがロシアとの関係の断絶につながるような措置に踏み切るとは考えにくい。
今回の危機の出口も結局は、反体制派の顔も立てながら、ロシア政府との関係をも維持する「レアールポリティーク(現実政治)」ということになるのだろうか。
熊谷徹 1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住ジャーナリスト。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人』(SB新書)、『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。3月に『欧州分裂クライシス ポピュリズム革命はどこへ向かうか 』(NHK出版新書)を上梓した。
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(2020年9月18日フォーサイトより転載)