内海桂子さん「私も戦争に加担していたのかも」毎年Twitterで当時を振り返っていた

終戦の日のことは何度も投稿していた。「これで空襲もなくなり子や親の命の心配もしないですむし、兵隊さんももう出撃で死ぬことはない」
内海桂子さん=2015年9月撮影
内海桂子さん=2015年9月撮影
時事通信社

97歳で亡くなった漫才界の大御所・内海桂子さん。

22歳で終戦を迎えた内海さんは、毎年必ず、8月になるとTwitterに広島・長崎への原爆投下や終戦への思い、そして自らの経験にについて投稿していた。

終戦前は陸軍からの申し付けで兵隊の慰問に出かけていたことから、「私も戦争に加担していたのかも」と感じたこともあったという。

Twitterの内海さんの言葉を振り返る。

■原爆が落とされても「戦争も終わりだという雰囲気はなかった」

終戦の直前に落とされた広島・長崎への原爆。東京ではその被害が想像できず、「これで戦争も終わりだという雰囲気はなかったと思う」と振り返った。

B29を実際見たときに大きさに驚いたといい、「とてもかなう相手ではないと薄々」感じたとしている。

原子爆弾が広島に落とされ長崎に落とされても東京ではこれで戦争も終わりだという雰囲気はなかったと思う。物凄い爆弾が落とされたという噂は流れたが都心でも空襲で悩まされていたのでそれ以上は思いが回らない。焼夷弾で焼かれたが実弾攻撃の被害は受けていなかった。玉音放送は全く予想外であった。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 8, 2018

広島に新型爆弾が落とされて甚大な数の人命がなくなったというニュースは聞いたがすぐにはどれ位の被害なのかは想像すらできなかった。B29を実際見た時に世の中にこんな大きな飛行機があるんだと仰天させられたので米国のやることは計り知れない規模なんだろうなと、とてもかなう相手でないと薄々。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 6, 2016

■満洲に慰問にも出かけていた

2015年の週刊朝日のインタビューによると、内海さんは1943年に満洲へ、1944年に中国河北省へ、2度戦地慰問に訪れている。「幼子を親に預けて満洲慰問に出た」とし、周囲からの批判に母親が「男なら兵隊ですと言い切った」というエピソードも明かしている。

戦争に関する話題への関心は高く、従軍看護婦や、アメリカ軍の猛攻撃を受けて沈没した戦艦大和に乗り込んでいた人に思いを寄せるツイートも。 「この全く想像も出来ない人生はとてもとても大変だったことでしょう」。

従軍看護婦に行った方々の戦地での活躍には頭が下がる。平坦病院から敵軍の攻撃で重病患者を抱えて、死んでも捕虜にならずを守り武器も自動車も食料もなしでの撤退それも外地。私が幼子を親に預けて満州慰問に出た時子供を置いてよく行けるわねと言われた母が男なら兵隊ですと言い切った時ホッとした。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 13, 2015

NHKBSで戦艦大和生存者の証言を見た。女の私でさえ昭和18,9年の北満州慰問で何があってもしょうがない覚悟はしていたが、今日の皆さんは明らかに死の覚悟をしていた人ばかり。生き残ったが故に死んだ人を今でも弔っている。この全く想像も出来ない人生はとてもとても大変だったことでしょう。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 11, 2012

■「戦争が終わった安堵感」と「戦争仕掛人の手助けをした」という思い

玉音放送が流れた1945年8月15日のことは何度も振り返っている。

兵隊たちへの慰問のため、「モンペ姿に革靴で衣装を入れたリュックに三味線を持って」、仲間と常磐線に乗り込んで茨城県に向かった内海さん。昼過ぎに会場に着くとすでに玉音放送が流れた後で大混乱になっており「戦争は終わったよ」と聞かされた。「考えられない展開に唖然とした」という。

なんとか列車に乗ったが、上野に帰り着いたのは真夜中。そこで戦争が終わったことを実感したといい、こう投稿している。

「上野駅から我家に歩いて帰る途中で多くの家の電灯がコウコウとついていてそのまぶしさに気分が高揚した」

「これで空襲もなくなり子や親の命の心配もしないですむし、兵隊さんももう出撃で死ぬことはないしね。と思うだけでも強烈な安堵感がこみ上げてきた」

一方で、軍からの依頼で仕事をしていたため職を失うことになったという不安も。自分が戦争を進める側についてしまっていたのではという思いを持ったとも振り返っている。

「戦争仕掛人の手助けをしたのだから私も戦争に加担していたのかもと考えればそう愚図愚図はいっておられず自力で仕事を探す心境になっていった」

八月十五日の朝モンペ姿に革靴で衣装を入れたリュックに三味線を持って上野駅から水戸の方に向った。駅に降りたが出迎えはなく徒歩で軍司令部に行った。処が戦争終わたよって大混乱中。空腹のまま上野行きの列車を待ち最初に来た貨物列車になんとか我々は乗せてもらった。帰り着いたのは真夜中だった。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 15, 2013

昭和20年8月15日は兵隊さんの慰問。常磐線に乗って水戸に。一行十名位。駅には迎えが来ておらず我々は歩いて会場に。ところが兵舎内は大混乱。手に手に軍隊の物品を持って帰っていく。「戦争は終わったよ」ですって。考えられない展開に唖然としたが何とか汽車に乗り夜中上野駅着。電灯が明るかった。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 15, 2019

8月15日朝上野から常磐線で水戸に向い昼過ぎに着いた。軍隊慰問なのに出迎えがいない。おかしいと言いながら営舎に行ったら中は大混乱。日本は降参したんだと。何もしないでとんぼ返り。深夜に帰宅。戦争が終わったという安堵感。だが心の片隅には明日からどうやって暮らしていこうかという悩みが。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 15, 2018

陸軍じゅっぺい部の仕事をしていた芸人として戦争中でも結構あちこちに出かけていた。受元が無くなるのと終戦締結という真逆の状況が私に降りかかってきた。戦争仕掛人の手助けをしたのだから私も戦争に加担していたのかもと考えればそう愚図愚図はいっておられず自力で仕事を探す心境になっていった。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 16, 2018

上野駅から我家に歩いて帰る途中で多くの家の電灯がコウコウとついていてそのまぶしさに気分が高揚した。街は真夜中のせいもあるがシーンとしていたが。これで空襲もなくなり子や親の命の心配もしないですむし、兵隊さんももう出撃で死ぬことはないしね。と思うだけでも強烈な安堵感がこみ上げてきた。

— 内海桂子 (@utumikeiko) August 16, 2013

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