幼い頃のぼくは『24時間テレビ』が嫌いだった。観ていると胸が苦しくなり、我慢しようと思っても涙が出てきた。その涙は「感動」の表れではなく、むしろ「悔しさ」に近かったように思う。
それはなぜか。ぼくの両親が聴覚障害者だったからだ。
毎年、夏に放送される『24時間テレビ』だけではない。それ以外にも聴覚障害者にスポットライトを当てたドラマがたびたび放送された。覚えているだけでも、『愛していると言ってくれ』『星の金貨』『君の手がささやいている』『オレンジデイズ』など、たくさんある。放送が告知されれば、やはり聴覚障害者の息子としては気になってしまうし、実際、どの作品も観た。けれどなかには、途中でつらくなってしまい、観るのをやめてしまった作品もある。
ここで断っておくけれど、『24時間テレビ』にも、その他に挙げたドラマにも、ぼくはそのすべてに敬意を持っている。制作に携わった方々は障害者の現実を伝えようと、高い志を持ってくださっていた・いるはずだ。番組を通じて、障害者が置かれている現状をひとりでも多くの人に知ってもらいたい、その想いは当時でも充分感じ取れた。
けれど、ダメだった。目の前で聴覚障害者が不幸な目に遭っているとき、過度に感動を演出していると感じるとき、ぼくはそれに両親の姿をダブらせてしまう。
それは、ぼくが10代の頃だったと思う。母がこぼした。
「私たちって、なんだか可哀想な人みたいだね」
テレビ画面には、聴覚障害者を演じる俳優が映っていて、自らの生い立ちに涙を流していた。
もしかしたら母はなんの気なしにそう言ったのかもしれない。でも、ぼくはそれ以上番組を観続けることができなくなり、テレビを消した。
障害者の番組は「感動ポルノ」なのか
それからぼくは、聴覚障害者がテーマになる番組を真っ直ぐに観ることができなくなってしまった。どうしても母のひとことが頭をよぎってしまうのだ。
「私たちって、なんだか可哀想な人みたいだね」
あのとき、母はどんな気持ちだったのだろう。障害があることで「可哀想」というレッテルが貼られ、視聴者に消費される「コンテンツ」になってしまう。それは障害者を一括りにして、一人ひとりを人間として見ていないことと同義ではないか。ぼくのなかで小さな悔しさと怒りがくすぶるようになっていった。
けれど、この夏、ぼくの考えを大きく変える出来事があった。新型コロナウイルスの影響によって新ドラマの撮影が進められなくなり、昔の名作が再放送されるようになった。そのなかにあったのが『愛していると言ってくれ』だったのだ。
同作は、俳優を目指す水野紘子(常盤貴子)と聴覚障害のある画家・榊晃次(豊川悦司)の恋が描かれる25年前のドラマだ。放送されると、SNSのタイムラインには「感動した」という声がたくさん並んだ。
もちろん、その事実を障害者の息子として真正面から受け止めれば、かつての頃のように「また、障害者を感動コンテンツにしている」と感じただろう。けれど、いまのぼくは、「これを機に、障害者について知ってもらえるかもしれない」と捉えることができたのだ。
幼い頃にはあれだけ複雑な想いを抱いていた作品を、いまになってどうして素直に受け入れられたのか。
それはぼく自身が、障害者、特に聴覚障害者について発信をするようになったことも多分に影響していると思う。記事を書けば「感動した」という感想に加えて、「知らなかった障害の世界を知ることができた」と励ましの声も届くようになった。
一方で、まだまだ社会の理解が不十分であることも日々痛感している。だとするならば、どうすれば伝わるのだろう、と考えるようにもなった。
障害者を描くドキュメンタリー番組に対して、たびたび「感動ポルノだ」という批判も目にする。その気持ちは痛いくらい理解できる。幼い頃のぼくが抱いていたのは、まさにそれだったから。
けれど、いまは「感動ポルノ」だとしても、それのなにがいけないのだろう、とも思えるようになった。感動をフックにでもしなければ、障害者のことを見向きもしない、知ろうともしない人が大勢いるじゃないか。障害について積極的に発信するようになったことで、依然として社会には障害者に対する厳しい視線や無理解、無関心が残っている現実も見えてきたのだ。
やり方はなんだっていい。まずは「知ってもらうこと」が大事なのだ。
やはり、メディアの力は大きいのだと思う。テレビ離れが叫ばれるようになったものの、それでもマスメディアの持つ影響力は大きい。障害について取り上げられれば、これまで届かなかった層にもリーチできるかもしれない。
そう考えられるようになり、ぼくは障害をテーマにした番組の意義を再認識するようになった。
「24時間テレビ」を観る人たちへ
ただし、それでもどうしても伝えておきたいことがある。それは番組を制作する側の人だけではなく、視聴する側の人たちにも考えてもらいたいことだ。
たとえば毎年放送される『24時間テレビ』について。
近年は同番組に対して、やはり「感動ポルノ」などという批判の声も聞こえるようになった。番組が始まった当初とは時代も変わったいま、障害の描き方も柔軟に変わっていく必要はあるのだろう。
同時に、視聴者もまた変わっていく必要があるのではないだろうか。
番組が一部で批判されようとも、実際に番組を観た人たちからは「感動した」「泣いた」という感想が聞こえてくる。もちろん、どんな感想を抱くかは個々人の自由だ。
ただ、その翌日には番組に登場した障害者のことを忘れていないだろうか?
“自分の人生には関係のない存在”にしていないだろうか?
『24時間テレビ』を観ながら感動の涙を流し、「大変なんだね」と同情し、そして翌日にはそのことを綺麗サッパリ忘れてしまう。それこそが障害者をコンテンツにし、「消費」していることに他ならない。
障害者の日常は健常者を楽しませるための消費コンテンツなんかではない。そのことを絶対に忘れないでほしい。
障害者はこれから先もぼくたちと同じ世界に生きるのだ。健常者が番組を観て、感動を覚え、翌日にはその存在をすっかり忘れてしまったとしても、障害者はぼくたちの隣で毎日を営んでいるのだ。
ぼくらの隣の障害者と日常を生きる
重ねて言うが、障害者の番組を観て、それまで知らなかった障害者たちの苦労を知ったとき、それを乗り越えて生きようとする姿を目にしたとき、心動かされ泣くことがあってもいい。
ただし、番組をきっかけに障害者の存在を知ったのであれば、翌日からも頭の片隅にそのことを留めておいてほしい。そうすれば、きっと見えてくる景色が違ってくるはずだ。
たとえば、何気なく訪れた施設にエレベーターは設置されているのか。通路に段差がないバリアフリーになっているのかなど、彼らの目線で施設や街並みの在り方が見られるようになるかもしれない。駅のホームやコンビニ、学校や会社までの道のりで、以前よりすれ違う障害者に気づくようになるかもしれない。それは大きな一歩だと思う。
もしも困っている障害者の姿に気づいたとしても、声をかけるには勇気がいるだろう。なかなか踏み出せないこともある。けれど、存在に気づくことさえできれば、周囲の人たちに声をかけて状況を知らせたりするなど、できることはたくさんあるのだ。
もし、あなたが今年の『24時間テレビ』を観ることがあるならば、「感動した」と消費するだけで終わらせず、また、ただ批判するだけで終わるのも止めてもらいたい。ともに一歩先へ進み、自分だったら何ができるかを考えてみてほしいのだ。
画面の向こう側にいた障害者が、もしかしたら隣に住んでいるかもしれないのだから。
五十嵐大
フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。
(編集:笹川かおり)