8月9日、長崎に原爆が投下されてから75年を迎えた。人類史上2発目の原子爆弾が投下され、7万人以上が犠牲になった1945年8月9日は、どんな日だったのか。
写真や記録で振り返る。
世界初の原子爆弾(ウラニウム爆弾)「リトルボーイ」が広島に投下されてから3日後の8月9日。
午前2時47分、太平洋に浮かぶ北マリアナ諸島のテニアン島からプルトニウム型の原子爆弾「ファットマン」を積んだ爆撃機B29「ボックスカー(Bockscar)」が離陸した。
その前日の8日には、ソ連が日本に対して宣戦を布告し、翌9日未明にソ連軍が満州に一斉に侵攻していた。
米軍の記録によると、ボックスカー号は8時15分に屋久島に到着。
午前9時44分には投下の第1目標であった福岡県の小倉市(現北九州市)に到達した。
しかし、小倉付近はもやと煙で覆われており、視界不良のため投下を断念したという。前日の八幡大空襲による火炎の煙が視界不良の一因となったとも言われている。
原爆の投下は、レーダーではなく目視で行うことを厳命されていた。
ボックスカー号は、第2目標だった長崎に移動。10時50分に長崎に到着した。
機長チャールズ・スィニー少佐の手記によると、長崎も同じく雲に覆われていたという。「レーダーによる爆弾投下もやむなし」と決断していたというが、燃料切れが近づく中、爆撃手が雲の切れ間から市街をわずかに確認した。
午前11時2分、高度9600メートルの上空から、原子爆弾(プルトニウム爆弾)が投下された。
爆弾は松山町171番地の上空約500メートルでさく裂。爆発によって発生したすさまじい爆風と熱線、放射線は街に甚大な被害をもたらし、多くの尊い命が奪われた。
爆心地から1キロ以内の区域では、強力な爆発圧力や熱気によって、住民のほとんどが即死したという。
原爆の投下によって、当時の人口24万人のうち、約7万人がその年の年末までに死亡した。1950年に発表された長崎市原爆資料保存委員会の報告によると、死者は7万3884人、重軽傷者7万4909人と推計されている。
長崎の原爆投下から終戦まで
ソ連の宣戦布告を受け、8月9日午前10時半すぎから鈴木貫太郎首相や東郷茂徳外相ら6人が出席した最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾条件について話し合われた。
朝日新聞(2007年8月30日朝刊)によると、会議は紛糾し、同日午後11時50分から昭和天皇が臨席した「御前会議」が始まる。日をまたいだ8月10日午前2時30分、「国体護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定。
14日に再び御前会議が開かれ、昭和天皇がポツダム宣言受諾の意思を表明し、「終戦の詔書」が発布された。そして、15日正午、詔書を朗読した音声がラジオで全国放送(いわゆる「玉音放送」)され、日本は終戦を迎えた。