「私はずっと、孤独を何かで埋めようとしていました。仕事で有名になることや、お金や、結婚によって。でも結局、自分のことは自分で変えていくしかないんですよね」
こう語るのは、タレントの青木さやかさん。
『婦人公論』(2020年3月24日号)誌上では、実母が入居した地元愛知のホスピスに通い、母子関係のきしみを少しずつ乗り越えていった過去を語り、話題になった。
2007年に毒舌キャラでブレイクし、近年は舞台やミュージカルで活躍。プライベートでは2007年に結婚、2012年に離婚し、現在は小学生の子どものシングルマザーでもある。
「子ども時代からずっと孤独感を抱えてきた」と明かす青木さんは、いまその孤独感とどう付き合っているのか。離婚を経験し、母親との関係を乗り越え、見えてきた景色について聞いた。
憎んでいた実母と向き合うまで
――青木さんは、30年以上、母子関係に悩んだ過去がありつつ、母の最期のときは関係修復に励んだそうですね。母への憎しみや嫌悪感が消えたと感じたのは、いつでしたか?
娘に対する自分の態度に母の面影を見たときに、「あれ、嫌じゃなくなってる」と気づいたときです。
2019年の秋に母が亡くなって少ししてからのことでした。そのときに初めて、私はもう母を嫌いじゃないんだ、乗り越えたんだ、と実感しました。
私はずっと、子育て中、娘に対峙しながら、自分の過去を思い出したり、自分の中に母を発見したりすることに悩まされてきたんです。
例えば、娘に「その言い方、おばあちゃんにそっくり」と言われるようなこともあれば、自分の娘に対するふるまいのなかに母に似た部分を見つけることもありました。
母は、私を世間体や周囲と比べて、点数をつけたり評価したりする人でした。一方で、私は娘を褒めてばかりになりがち。言葉は違うけれど、結局、どちらも価値観を押しつけているんですよ。
それを確認するたび、嫌な気持ちになって、落ち込んでいました。
でも不思議なことに、最近は自分の中に母を感じても「親子だなあ」と思うぐらい。
関係を修復すると、その人の面影が嫌ではなくなる。これは、すごく大きな発見でした。
――そもそも、関係がこじれていた母親と向き合い始めることも、大変なエネルギーが必要だったのではないでしょうか。
母との関係を修復した方がいいと頭ではわかりつつ、動けない期間は長かったですね。
ただ、母を憎み続けることにも、だんだん疲れてきたんです。
母が亡くなって、関係修復ができなかったことを後悔し続けるのも避けたかった。母の数年前に亡くなった父と、最後の時間をいい関係で迎えられなかったこともまた、原動力になりました。
直接のきっかけとなったのは、母に残された時間がもう長くはないとわかったとき、お手伝いしている動物保護団体「NPO twfの会」の創立者である武司さんにかけられた「親と仲良くしたほうが、生きづらさがなくなって自分が楽になれるよ」という言葉。
なぜか不思議と心が動き、それから週に1度、母が入っている地元愛知のホスピスへ車で通うようになりました。私、決めたらすごい行動力が出るんですよ。
――結構なエネルギーがいることだと思います。向き合い続けるためにモチベーションは何でしたか?
一番は、「関係が変わるかも」という手応えだった気がします。
こちらが「過去はなかったことにする」という態度で臨むと、相手の態度も変わるんですよ。反対に、「絶対、ああ言ったら、こう返してくるに決まってる」って思っていると、だいたいその通りになる。
固定観念を外すということですよね。これが一番大事だったかもしれない。
過去はなかったことにして、新しい一日に集中する。そうすると、仮に嫌な対応をされたときも「やっぱり!!」ってイライラしたりせずにすむんですよ。
実母に対して思い込みを外す訓練をしていたら、だれに対してもあまり固定観念を抱かなくなりましたね。
――母との最後の日々をいま振り返って、どんな思いですか?
母と仲直りできたことは、大きな自信になりました。自己肯定感がずいぶん上がったなと思います。
ただ、もっと早く母との関係を修復すればよかった。当時は「死ぬ間際だからできるんだ」と考えていたけど、もっと早くできたはずなんですよ。
親孝行ではなく、母との時間がもっとあったら自分のルーツについて聞きたかったですね。嫌いだったときは自分のルーツなんて興味がなかったけれど、今となっては母にも聞けないなんて悲しいな、と思います。
自分の孤独はどうすればいいのか
――母との関係もあり、子どものころから満たされない思いを抱いてきた、と「婦人公論」の連載で書かれています。
両親に褒められた記憶がなかったし、母に認めてほしいと思いながら、孤独を抱えて生きてきたんです。
私はずっと、孤独を何かで埋めようとしていました。仕事で有名になることや、お金や、結婚。でも、心の穴を何か、だれかで埋めることは不可能なんだと気づいた。
結局、自分のことは自分で変えていくしかないんですよね。
結婚5年目で離婚してシングルマザーになって、子どもに孤独を埋める役を求めてしまうかも知れない、という恐怖心もありました。
――具体的には、どうやって自分を変えようとしたのですか?
直観的に、「生活」のなかに何か答えがあると思っていました。
よくわからないけど、離婚して、「私はこれからしっかりと生活していく時間が絶対に必要だ」って思ったんですよ。
バイトと借金で暮らす生活から、30歳で急に年収何千万円みたいなスターになったから、私は同世代と同じような暮らしをした時代がなかった。「同級生と3泊4日のグアムに行く」みたいな時代がないんです(笑)。
さらに、私はテレビの世界しか知らないうえ、売れていて、自分を中心に物事が動いていくことが多かった。
何かが欠けているし、このまま年を取ったら、仕事でうまくいってもいかなくても、すごく孤独な老人になるだろうと思ったんです。
人との関わり方を学んだ「3つの場」
――青木さんが離婚されたのが2012年。8年間の間で、どんな変化がありましたか?
テレビとは違う場に身を置いて、人とのかかわりで学ぶことが多かったですね。大きな影響を受けた場が、3つあります。
1つは、子どもの学校です。
うちの娘は幼稚園から同じ学校に通っているのですが、月に一度、保護者が全員集まって、先生たちと一緒に子どもの生活について話し合う場が設けられるんです。
その目的は、保護者同士が気持ちを分かち合い、子育てをするうえで支え合える関係を作ること。
子どもの様子には、家庭の状況が映し出されるもの。ときには、先生から家庭について聞かれることもあります。だから、普通だったら隠しておきたい自分の弱さや抱えている問題を、ときに涙しながら打ち明けなければいけないこともある。
そうやって、保護者と学校と一緒に子育てをしてきました。
親になるのって突然のことだし、マニュアルがあるわけでもない。月に一度、集まって心を打ち明けあい、励まし合い、認め合う訓練をして、少しずつ自分に自信が持てるようになったのを感じます。
――学校やほかの保護者とともに子育てするという経験をされたんですね。2つ目の場とは?
2015年ぐらいから始めた舞台の現場です。
私は会社に属してはいますが、ピン芸人だったので仕事の判断は、ほぼ自分でしてきたんです。嫌なものは嫌だと言ってきた。これまでスポーツも個人競技しかやったことがなくて、複数人で何かをした経験がなかった。
一方で舞台の仕事は、稽古が始まってから舞台の幕を下ろすまで、スタッフも出演者も1カ月以上のあいだ一緒にいることになる。
そうした場に入って、初めて大勢の中で自分がどう立ち回ればいいかを考えるようになったんです。出すぎても引きすぎてもおかしいし、ほかの人たちを観ながら、集団の中でのふるまい方を勉強する機会になりました。
どの舞台にも(稽古が)遅れている人をみんなで助けようという雰囲気があって、支え合いながら舞台を作り上げる経験を積んだのも大きかったですね。
――大勢の人とのかかわりあい支え合う経験ですね。3つめの場とは?
数年前からお手伝いをしている動物愛護のNPO法人twfの会。母との関係を修復するきっかけを与えてくれた武司さんが、ゴミ拾いからスタートさせた団体です。
ボランティアでつながっているここの人たちは、いい意味で“普通のおばさん”たちなんですよ。彼女たちと交流していると、自分の価値観がいかに偏ったものだったかがわかる。
私は「テレビで売れていることこそいい」と思っていたけれど、テレビの外の世界の人たちにもそれぞれ生活があって、ドラマがあるんだと身をもって知ることができた。
彼女たちにとっては、テレビで売れることなんてどうだっていいんですよね。当たり前のことのようで、テレビの世界しか知らない私にとっては大きな経験だったと思います。
離婚後、作り直した「自分のベース」
――離婚後、母との関係をときほぐしたり、人とのつながりの中に身を置いたり、さまざまなことがありましたが、どんな変化を感じますか?
以前に比べて、人間関係はうまく結べるようになった気がします。
昔はそれが苦手だったと思うし、結んでいるように見えて安心感みたいなものはほとんどなかった。だから、全然楽しくなかったですよね。
離婚してから今までというのは、テレビではない世界での自分のベースの作り直しをしている時期だった気がします。
まだ立て直しの最中ですが、自己肯定感はかなり上がったんじゃないかな。孤独だと思う瞬間も、なくなってきた。
ただ、不安感もなく愛に満たされ、みたいなことはない。ゴールがどこにあるのかもわからないし、まだまだ過程ですよ。
(取材・文:有馬ゆえ 写真:加治枝里子 編集:笹川かおり)