やはり、避難所は避けられているのかもしれない。
そう感じた。7月7日。元サッカー日本代表・巻誠一郎は、洪水の被害にあった熊本県人吉市に入った。
訪れた体育館のフロアには、飛沫を防ぐカーテンで区切られた避難スペースが設けられていた。できる限りの感染防止策がとられている。
だが、熊本地震の際に比べると、どこの避難所も閑散としている印象だった。
同市では、5000戸が床上浸水をしたと伝えられている。
その被害の大きさからすれば、避難所が人であふれていても不思議ではないところだ。
「やっぱり、コロナの影響はありそうです」
電話での取材。話題を振るまでもなく、巻はそう語った。
「ある程度、想定はしていました。今、災害が起きたらどうなるのか。それはずっと考えてはいたので…」
聞いたことのない雨音。緊急のニュース
その日は、激しい雨の音で目が覚めた。
7月4日早朝。時計の針は午前6時よりもほんの少し前をさしていた。
すでに一昨年、引退した身。早起きの必要があるわけではない。だが巻は胸騒ぎに駆られるように、寝室からリビングに向かった。
「聞いたこともないような雨の音だったので」
急いでテレビをつける。アナウンサーが、緊急のニュースを読み上げていた。
巻の自宅から、南に50キロほど。熊本県南部の球磨川が氾濫したと、国交省の現地事務所などから発表された。
また災害か。被害が大きくならないでほしいが…。
そう祈りつつ、巻はタブレット型端末の電源を入れ、情報を集め始めた。
濁流に飲まれる集落
マスメディアからの初報。SNSへの書き込み。
一通り目を通して、ある程度の状況を把握したところで、巻は動き出すことにした。
午前7時19分。Twitterに最初の投稿をする。
「皆さん、大丈夫ですか?」
すぐに反応があった。
リプライで。あるいはダイレクトメッセージで。少しずつ「生の声」が集まってくる。
テレビのニュースからも、徐々に現地の状況が伝わってきていた。
球磨川はほぼ全流域で氾濫。集落が次々と濁流に飲まれ、行方不明者も出てきているという。
このレベルの災害になると、行政や報道関係者も、自分の身の安全を慎重に確保しながらの情報集めを強いられる。
おそらく、すべてを把握するにはかなりの時間がかかるだろう。巻はそう見ていた。
4年前と同じだ。そう思った。
裸足で飛び出し…深夜の交通整理
2016年4月16日午前1時25分、熊本地震本震。
マグニチュード7.3、最大震度7の激震が、熊本県を襲った。
巻は熊本・宇城市内の実家に戻っているタイミングで被災した。
強い揺れに見舞われただけではない。津波注意報の発令で、高台に避難することも強いられた。
深夜2時。詳しい状況を誰も把握できていない。
高台の公園への一本道には、パニック状態の市民たちが乗用車で殺到。皆がお互い譲らず、まったく前に進めない状況になってしまっていた。
はだしで乗用車から飛び降り、巻は交通整理を始めた。
元サッカー日本代表の顔は、誰でも知っている。市民たちも指示を素直に受け入れ、譲り合いながら高台へと車を進め始めた。
誰かが「サッカーのグラウンドがあるから、そこにも車を入れたらいい」と言い出した。
真っ暗闇で分からなかったが、確かに広大なスペースがあった。非常時でもある。巻は入り口にあった車止めをどかして、そちらへも誘導した。
するとあっという間に、一本道の渋滞はなくなった。
やがて、津波注意報も解除された。何人かが「ありがとう」と礼を言ってきた。
それに笑顔で応じながら、巻は振り返っていた。
「そこにグラウンドがある」というような生の情報と、それをうまく拡散する経路の確保が、いかに大事なことか…。
災害対応で何よりも大事なものとは
そこから、巻は人気サッカー選手だからこその人脈を生かして、熊本地震の被災地復興に奔走することになる。
全国に呼び掛けると、あっという間に支援物資が集まってきた。長友、岡崎ら現役のサッカー日本代表選手たちも、巻の活動を支援するために現地を訪れた。
そして、行政に引けをとらない効率的な支援につながったのは、人脈を使って集めた情報のきめ細やかさだった。
200人規模の有志が、被災地を回って避難所の状況を調べ、その情報を巻にもたらした。
どこの避難所で何が、どれだけ足りない。そうした情報をもとに、巻と協力者たちは必要な物資を必要なだけ届けることができた。
「この避難所にいけば、行政からこういう支援が受けられます」。そうした情報の拡散にも、多くのフォロワーを抱えるSNSを活用することで一役買った。
災害対応において、情報の確保、流通は何よりも大事になる。
経験は学びとなって、巻の中に残った。
「#まずは情報から」
今回も情報が大事。だが、これまでとは状況が違う。
7月4日午後、巻は自室で考えにふけっていた。
世には新型コロナウイルスがまん延している。
今、災害が起きたらどうなるのか。緊急事態宣言の発令中から、巻はずっと頭の中でシミュレーションを重ねていた。
熊本地震の時のように、被災地を回って情報を集めるというわけにはいかない。人と人との接触は最少限度にする必要がある。
熊本地震の際も、巻は情報の集約や拡散にSNSをうまく活用していた。
今回はその時よりも、活用の範囲をかなり広げなければいけない。というよりも、主たる情報源としなければ。そう結論付けた。
TwitterやFacebook、Instagramでの呼びかけを始めた。
「#まずは情報から」
多くの反応。稀有な申し出
夜にかけて、朝の投稿を大幅に上回る反応が、巻の元にもたらされ始めた。
テレビのニュースでは、球磨村の老人福祉施設でたくさんの入居者が心肺停止状態で見つかったとの報が、重点的に流れていた。
だがSNSの「生の声」は、巻に人吉市内の被害状況の深刻さも伝えてきた。
そして情報以外の反応もあった。
熊本地震の復興支援活動の際に、NPO法人の理事になってもらった物流会社の社長から、メッセージが届いた。
「あの時と同じように、被災地の外に拠点が必要でしょう。200坪の倉庫があるので、自由に使ってください」
社長はあわせて、物資運搬用の大型トラック数台や、がれきや土砂を撤去するためのパワーショベルまでそろえてくれていた。
翌7月5日。巻はこの場所を各種SNSで告知する。
「人吉に届けたい物資はここに送ってもらえると助かります」
夜には、人吉市内からSNSで送られてきた被害状況の写真も添えて、再投稿をする。
リツイートは1万件をこえた。全国から「物資を送ります」の声が届く。現地の様子を知らせるリプライ、DMもさらに増えた。
「支援しなければ」思いが冷めぬうちに
7月6日。物資は順調に拠点に集まっていた。
近隣の人々は、直接この場所に支援物資を持ち込んでいた。熊本地震の際も巻の活動に協賛した地元の企業「えがお」は、早くも10トンもの飲料水を準備してくれていた。
この日のうちに第1便を現地に送れるのではないか。そんな見通しもついていた。
だが、巻はなかなか拠点に姿をみせなかった。クラウドファンディングサービス「マクアケ」のスタッフとの打ち合わせに入っていたからだ。
復旧作業にかかる資金確保のため、と誰もが思うタイミングだったが、目的はそれだけではなかった。
「復興にかなり時間がかかるレベルの災害になりました。そうなると支援を束ねる上で大事なのは、忘れられないこと、風化しないことになります」
一度支援をした被災地のことは、そうではない被災地のことよりも、ずっと気にかけ続けるものだ。
そうやって、できるだけ多くの支援者を被災地と強く結びつける。そのためには「一次的な支援が終わってから動く」では遅い。巻はそう考えていた。
「支援をしなければいけない」という世の中の気持ちが熱いうちに、クラウドファンディングを立ち上げなければならないー。
担当者も巻の思いに賛同し、手続きを急いでくれた。結果として、わずか4日後には支援窓口がマクアケの公式サイト内に開設された。
熊本地震の復興支援活動は、4年をこえている。「風化させないこと」の難しさを、痛いほどに感じている。
最初にこう動いていれば…と思うこともある。その教訓を生かしたかった。
避難所を避ける住民。滞る物流
7月7日。巻は初めて人吉に入った。
避難所に行かない市民は、どうやって避難生活を送っているのか。SNSによる情報収集で、ある程度把握していた。
集落の公民館。被害を受けなかった知人の家。自宅の庭に張ったテント。
巻が物資を配る先で、人吉の人々は非常に細かい単位で避難生活をしていた。
人が少ない避難所では余っている支援物資も、こうした小口の避難先には行き届いてはいなかった。
市内の乗用車の大半が水没し、故障してもいた。市民が自力で物資を取りに行ったり、買いに行ったりするのも難しい状況だった。
思った以上に、物流は滞っていた。
水上から陸上へ。託されたバトン
そんな中で、初動から救助に、物資運搬にと大活躍していた人々がいた。
球磨川ラフティング協会の面々だ。急流下りのインストラクターをしている彼らは、道という道が水没した流域一帯で、機動力を発揮した。
市からの要請を受け、ゴムボートで逃げ遅れた人々の元へ。
4日のうちに数十人を救助したという。
同協会の大石権太郎会長は、巻がロアッソ熊本で一緒にプレーしたMF八久保颯の親戚に当たる。
そんな縁から、被災地を漕いで回ることで集まった情報は、すべて巻に引き継がれた。
そしてもう一つ。巻は「うちの事務所を今後は物資の集積所として使ってほしい」と同協会から提案された。
復興支援は、ボートが活躍する局面から、陸上で活動する局面へ。バトンは託された。
ウィズ・コロナの復興支援とは
コロナの影響だろう。民間のボランティアは、現地にはほとんどいなかった。
「僕もそれは考えました。熊本地震の時のように、大人数で動くわけにはいかない。今回は2人で動くことにしました」
いかに住民に動いてもらうか。そこが「たくさんの人が移動できない」コロナ禍の災害復興ではポイントになる。
巻はそう見ていた。生活に必要な支援物資だけでは足りない。
手袋。土のう。スコップ。長靴。消毒薬。さらには狭い山道も走れる軽のワンボックスカー。
そうした復旧作業や物資の運搬に必要な道具を、事前に集めた情報にそって準備し、現地の住民に大量に提供した。
復旧作業では大量の災害ごみも発生する。これを住民が行政にどう受け入れてもらうのか。そこもポイントになると、巻は考えていた。
市もまさに、そこを考慮していた。
普段は透明なごみ袋を指定していたが、今回は早々に「非常時なので袋の種類は問わない」と切り替えていた。
ただ、そういう非常時の対応がされていること自体を知らない市民も、少なからずいた。
巻はSNSで「市に確認したところ、今回の災害に関するゴミは色つきのゴミ袋でも大丈夫だそうです」とつづり、拡散を求めた。
集めた情報を拡散することも、住民が自力で動くことを求められる「コロナ禍にあっての災害復興」ではより大事になる。そう感じた。
支援する彼らも「被災者」
支援する側を支援する必要もある。
巻はそう思っていた。きっかけはやはりコロナだった。
今年5月。母の日にあわせて、巻はドライフラワーを小瓶に入れた「ハーバリウム」2400個を熊本県内の医療施設などにプレゼントした。
配って回る中で、医療従事者がいかに大変な思いをして、コロナと戦っているかを知ることになった。
常に自分たちよりも患者を優先させている人たちを、誰かがサポートしなければ。そう痛感した。
だから、今回の災害においても「支援する側」のことを思った。
市役所の職員からも、SNSで連絡をもらった。
「もしよろしければ、消防署も気にかけてもらえませんか?」
行政としては、身内を市民よりも優先して支援する、という形はとれない。
だから今は、できれば巻のような民間の立場から支援してほしい。そういう思いと受け取った。
熊本地震の時もそうだった。
最前線で救助活動や復興支援活動に当たっている消防署の職員たちだが、自分も自宅を失っていたりするケースが非常に多い。彼らも被災者だ。
巻は消防隊員の詰所を訪れ、飲料水や塩分を補給できる飴を配って回った。
復旧に向け、炎天下での作業が続く。熱中症にならず、無事に家族のもとへと帰ってほしい。そんな願いを込めた。
未知の支援活動。思い出す恩師の言葉
7月11日。熊本県内を再び強い雨が襲っていた。
自分たちが被災してしまっては元も子もない。巻は早々に、この日の復興支援活動を取りやめることを決めた。
「自分たちがこう進めたい、みたいな理想のイメージにはめて活動するというのは、あまりよくないかもしれませんね」
巻が復興支援してきたのは、熊本地震の被災地だけではない。
西日本豪雨で水害をこうむった岡山の真備町。2019年に相次ぐ台風、豪雨に襲われた千葉県。
「地震と水害では、被害の状況も必要な支援もまったく違います。被災地や被災者の皆さんを取り巻く環境も、それぞれですし」
今回はそこにコロナも加わって、今までとは違う支援の難しさを感じている。
事前にSNSで入念に情報を収集した巻だが、現地に行って実情をみて、方針を変えることに抵抗はなかった。
「岡山や千葉を見てきた経験もありますし、何より思うのは、サッカーの経験が生きています。オシムさんの言葉を、いつも思い出す」
「相手をリスペクト」被災地でも
ジェフ千葉や日本代表で巻を指導した恩師、イビチャ・オシム監督は、相手を徹底して分析し、対策を練るタイプの指揮官だった。
だが一方で、巻ら教え子には「相手をリスペクトしろ」と繰り返し諭した。
相手も考えている。こちらが対策を練っているのを分かって、まったく違うやり方をしてくることもありうる。
その時に、自分たちが準備してきたやり方にこだわっていては勝てない。最終的には相手をよく見て、現場で考えて対処するしかない。
被災地でもそうだと、巻は思う。
事前の準備はもちろん大事だ。ただ一度活動が始まれば、被災地の環境、被災者の皆さんの状況などといった「実情」を重んじて、柔軟に動く必要がある。
「自分だからできることと、自分にはできないことをしっかり見極めるのも大事です。専門家の方にお任せした方がいいことも多い。1人の民間ボランティアとしては、僕にできることは限りがあります」
道のりは長い。だからこそ…
自分だからできること。
そこを意識して、巻は今後の青写真をすでに脳裏に描いている。
「復興の道のりは本当に長い。気が遠くなるし、心が折れそうになることもあります。その時に大事なのは、子どもたちの笑顔です。そこには確信があります」
ひと時だけでも子どもが楽しそうにしていれば、大人は救われる。笑顔になる。
そんな現場に、巻は熊本や岡山、千葉で何度も立ち会ってきた。
「もちろん、それは一瞬のことで、大人はすぐに現実に向き合わないといけないというのはあります。でもだからといって、無駄だと言うのは違う気がするんです。何度も何度も、絶え間なく繰り返していけば、必ず大人も前向きになれる」
元日本代表のサッカー選手として、避難している子どもたちとサッカーで交流をはかる。
他の人気アスリート、あるいは著名なアーティストを被災地に呼び寄せて、イベントをする。
さらには、スポーツに限らず、留学などのサポートをする。子どもたちの夢を応援する。
それらは熊本地震の被災地でも行っている活動でもある。
「忘れられないためのクラウドファンディング、がまさにそうですが、大事なのは続けていくことだと思っています。まだ始まったばかり。やることは多いです」
コロナ禍の被災地、という未知のフィールドで。
巻は走り始めている。
(取材・文:塩畑大輔 編集:泉谷由梨子)