もっとも重要な存在は著者である
ご自分で「天才編集者」と名乗っていらっしゃる方の本を開くと、「編集者などという仕事は善悪や倫理など関係ない。自分の偏愛や熱狂が抑えきれなくなって、ほとばしって漏れ出したものが作品に乗って世に届くのだ」(箕輪厚介『死ぬこと以外かすり傷』マガジンハウス)と書かれている。
まず思う。「えっ、著者は?」。もう一回思う。「ねぇ、著者は?」。
続いて、かつて編集者の仕事をしていたので、編集者という仕事ほど、善悪や倫理というものと慎重に付き合わなければならない仕事もない、との自覚を蘇らせる。
本を書く上で、もっとも重要な存在は著者である。著者が文章を書かなければ、本は生まれない。だが、著者が書いたところで、本は生まれない。原稿を完成させるまで編集者と議論を繰り返す。そして、デザインし、印刷し、製本し、届けて、並べる。こうして多くの人の手を経由して、ようやく読者の手元に届く。
電子書籍など様々な形態があるので、この流れ以外で読まれる「本」も増えてきたが、編集という仕事を、「書き手」の偏愛や熱狂ではなく、「編集者」の抑えきれない偏愛や熱狂を作品に載せるものだと考えている人がいることには驚く。
とにかく「わかりやすい」ものを好む社会
この度、『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)という本を出した。とにかく「わかりやすい」ものを好む社会になった。とりわけ、言葉を用いて説明する際、情報を待ち構える側が微動だにせずに、自分のお気に入りの情報、そして、わかりやすい情報だけを得るようになった。微動だにしない人が悪いのではない。だって、そうやって黙って座っていれば自分に都合の良い情報が次々と入るのだ。
そちら様にとって有益な情報ですよ、という案内が、スマホだろうがテレビだろうが四方八方から届き続ける。
私は、本というのは読者に負荷をかけるものだと思っているので、書くときにもその負荷の存在を重視している。長々と文字が連なっているのだから、読んでもらえば、それなりに疲れる。かといって、負荷の軽減を優先しなくてもいい。理解しやすいように、どこまでも気を配る必要はない。これは、今回の本の、いくつもある主張のうちの一つである。
「これこそ“要約”から読みたいですよね」
書籍内容を要約するサービスが流行っている。なぜ長々と本を書くかといえば、要約されないために書いているのであって、この手のサービスからの依頼は基本的に断っている。『Live News α』(フジテレビ系列)で紹介されたニュースの同内容が「FNNプライムオンライン」に、「『学び』に変化 書籍要約サービスとは」と題して記事化されている。
ビジネス書籍を要約した文章をアプリで閲覧できるサービスを行なっている会社の会議室の模様が映され、こんな会話が繰り広げられる。
「“要約”読みたい感じはあるよな」「これこそ“要約”から読みたいですよね」「まず“要約”読みたいって人は多いでしょうし」……。
テレビ画面の前で、奇声をあげながら、のけぞってしまう。「3つの要点と、およそ4000字程度の要約文章にまとめるため、10分程度で本の情報を得ることができる」のだという。この会社を運営する社長は、書籍と読者の「触媒」になっていかなければいけない、と語るのだが、同サービスを社員研修の一環として取り込んでいる会社の担当者いわく、「読んだ内容をぜひアウトプットしてもらって、社員間のコミュニケーションを活性化してもらう」ことを目的にあげている。
社長は化学反応の仲立ちを意味する「触媒」と言っても、使うほうは「内容」を「アウトプット」してしまうのである。要約なのに。
簡略化にも技術がいる
『わかりやすさの罪』の中でも、要約サービスについて触れている。このように記している。
「要約行為は、並べられた要素を間引きすることによってのみ導かれるということを忘れてはいけない。要約がいつのまにか定則になってしまうことへの警戒が必要である。要約など、要約にすぎないのだ。複雑なものを整理する働きがあまりにも多い。簡略化に慣れ、簡略化を急げば、簡略化は良きものとしてどんどん持ち上げられる」
そう、要約なんて、要約にすぎない。私たちは、いや、少なくとも私は、10分程度で読んでもらうために長々と書いているわけではない。
例えばこんな文章があったとする。
「A君はB君と一緒に山登りに行きました。帰り道、雨が降ってきたのですが、A君しか傘を持っていなかったので、B君はA君の傘に入れてもらい、下山しました。二人とも笑っていました」
この文章を「要約」するとどうなるか。
「山登りに行ったA君とB君は、A君が持っている傘に二人で入って下山しました」
こんなところだろうか。
この時、雨が途中から降ってきたことや、二人とも笑顔だったことが、抜け落ちてしまう。だからなんなんだよ、と思うかもしれない。しかし、書き手が最も重視しているのは、途中から降ってきた雨や、二人の笑顔かもしれない。長い文章を書くこと、長い文章を読むこと、その醍醐味は、書き手と読み手がどの言葉に反応するのか、反応しているのか、そう簡単に見えないところにある。
もちろん、あらすじ紹介や書評などでは、簡略化して中身が伝えられる。その簡略化にも技術がいる。そして、表面化しているとは限らない「偏愛や熱狂」(箕輪厚介氏)を嗅ぎ取る。それでも取りこぼす。だからこそ、紹介文や書評に誘われて本を読む。
『わかりやすさの罪』を要約したい
文芸のジャンルだけではなく、ビジネス書であろうが自己啓発書であろうが、その文字の集積には何がしかの意味があって、わかりやすく簡略化して伝える時、何かを削ぎ落としているのではないか、との意識が不可欠である。だが、往々にして「要約」という行為をビジネスにしたものには、その意識が欠落している。
少なくとも私は、「“要約”読みたい感じはあるよな」と会議で盛り上がってもらうために本を書いているわけではない。優しく解きほぐしてもらうために書いているわけではない。「多忙なビジネスパーソンが本の内容を効率的につかむことで、ビジネスに役立つ知識・教養を身に付け、スキルアップにつなげること」(「本の要約サイトflier フライヤー」ウェブサイト)とある。
多忙なビジネスパーソンにとって、本は非効率なものなのかもしれないが、本とは必ずしも効率的である必要はないし、わかりやすく伝えてもらい、スキルアップにつなげてもらう必要なんてない。
「偏愛や熱狂」というものは、「抑えきれなくなって、ほとばしって漏れ出したもの」だけではない。本に限っていえば、漏れ出しているわけではない偏愛や熱狂に、読むこと、体感することによって、ようやくたどり着いてもらうものだと考えている。交通整理をして「わかりやすく」してしまうと、本と対峙する意義を勝手に奪ってしまう。
そんなことを長々と記したのが新著『わかりやすさの罪』なのだが、発売前(つまり、どんな本かを通読する前)、とある要約サービスから、取り上げる候補に入っているとの通達が舞い込んだ。わかりやすさにすがる危うさを記した本を、どのようにわかりやすくまとめるのかに興味はあったのだが、もちろん、お断りした。