「ハーフですか?」
最初にこの質問をされた時のことは覚えていない。幼い頃には恐らく母に向けられていたこの質問が直接私に向けられるようになってから随分経つ。私は一体何度この質問に答えてきたのだろう。
もっとも多い質問が、「私の人種を聞く」
テレビや雑誌でよく見かけるようになった「ハーフ」こと「ミックス(ミックスルーツ・ミックスレイスの略)」だが、現実にはまだ珍しい存在だ。
レストランに行けばイングリッシュメニューを渡されるし、日本語を喋れば日本語を褒められる。コンビニでは「箸でも大丈夫ですか?」と聞かれ、銭湯では「入浴方法」の冊子を渡される。
そして中でももっとも多いのが、「私の人種を聞く」というもの。
どれくらいの頻度で聞かれるかというと、新しい人に出会えば「必ず」である。
近所のコンビニやレストランの店員さん、旅館のおかみさん、飲食店でたまたま隣に座った人、タクシーの運転手さん、大学の職員さん、街をゆく人、うちにガスや水道の点検にきた業者さん。普通であれば会話をする必要が生じないような人でも、質問をしてくる。
大げさだと思う人もいるかもしれない。私の周りの友人もそうだった。
でも半日一緒にどこかに出かけると驚かれる。「本当にみんなから聞かれるんだね。」と。
あまりにも聞かれるので、たまに私のルーツについて何も言われないと拍子抜けする。「え?私たち今日初めて会うのに私がミックスかどうか聞かないの?!」と。それだけでその人の評価が爆上がりする。
そしてこの「ハーフですか?」から始まるダイアローグは、その後も続く。いつも決まって聞かれる質問に対して、私の中では定型文の答えが用意されている。
親の人種。彼らの出会い。私がどこで生まれて育ったか。他言語は堪能か。日本は好きか。壊れたCDのように、会う人会う人全員と10分以上、なんどもしてきた同じ会話が繰り返される。
自分が「外国人」であるという感覚はない
私は、日本において自分のことを「外国人」だと思っていない。ミックスルーツであるということは、アイデンティティを感じる国が二つ以上あるということであり、自分が「外国人」であるという感覚はない。
しかし、日本では「ミックス」であることは「非日本人」として扱われることがとても多い。
「ハーフですか?」と聞かれる度に、周囲に「他所者」と認識されていることを再確認する。そしてそれに続く質問はまるで門番からの尋問のようで、毎度入国審査を受けているような感覚に襲われる。そう、「自分の国」で。
もちろん聞いている側に悪意がないであろうことは重々わかっている。しかし、悪意のない差別は厄介である。自分は悪いことをしていると思っていないので、指摘するとムキになって言い訳をされることが多い。中には私に対して攻撃的な言葉を投げつけてくる人もいる。一度クラスメイトの女の子に「ハーフかどうかいきなり聞かれるのはあまり好きはじゃないんだ。」と伝えたら、「え?でも顔からして日本人じゃないんだからしょうがないじゃん。」と言われた。鼻がツンとして涙がじわじわと目元に溜まるのを感じたが、なぜ嫌なのかを冷静に伝えた。しかし彼女の、「それくらい我慢しなよ。日本人じゃないんだから。」という言葉で会話は平行線のまま終わった。なので、私はこれまでずっと、会話をなるべく早く終わればいいと思いながら、笑顔でこれらの質問に答えてきた。
初対面で人の外見や人種の質問をするのは失礼
2019年の秋、私はいつものようにカフェで勉強をしていた。するといきなり見知らぬ男性が声をかけてきた。
「ねぇ、お姉さん外人さん?」
おそらくテーブルに広げられた日本語の教科書と私のルックスのギャップに困惑して、聞かずにはいられなかったのだろう。しかしこの質問が私の心のコップを溢れさす最後の一滴だった。相手を睨みつけ、一言も返事をしなかった。男性は気まずそうに立ち去っていった。
私はその場でパソコンを開き、怒髪衝天しながらカードを作り始めた。
カードに書いた内容は以下の通りである。
♡初対面カード♡
(表面)
ハーフですか? はい。
どちらの親が外国人ですか? 父がアメリカ人です。
日本には何年住んでいますか? 通算15年ほどです。
英語は喋られますか? はい。
夢はどっちの言語? 両方あります。
考える時はどっちの言語? その時に喋っている言語です。
(裏面)
日本とアメリカどっちが好き? 両方良し悪しです。
自まつ毛ですか? はい。
これらの質問は全て、必ず初対面で聞かれるものです。
毎度答えるのが大変なのでカードを作りました。
これらの質問をしてくださった方にお願いがあります。
初対面で人の外見や人種の質問をするのは失礼であり、傷つきます。
今後他の人にも同じ質問をしたくなった時は、このカードを思い出してください。
おもて面は素直に質問に答え、裏でそれが嫌だった旨を伝えるのは、私なりの皮肉。
できあがった後に、ちょっと怖いかなと遠慮して「初対面カード」の言葉の前後にハートを足した。
最初に初対面カードを作った時、実際にこれを誰かに渡すことは想定していなかった。
その場で「こういう時にパッと渡せるカードがあったら良いのに!」と思ったので作ってみただけ。数日が経って怒りも収まり、私の苦悩を知っている周りの友人に見せて一笑いでも取ろうと思ってカードを印刷した。8枚刷られたカードは定期入れの奥底にしまわれ、長らくその存在は忘れられていた。
私は意を決して「初対面カード」を渡すことにした
ところが、カードのお披露目は唐突にやってきた。
その日私は友人たちと約束した早めの忘年会に向かっていた。予定が押していたので、タクシーを拾った。
私は運転手に行き先を告げ、車が発進すると窓の外のクリスマスのために飾られた街並みをぼーっと眺めていた。その時だった。
「お客さんて、ハーフ?」
バックミラー越しに運転手と目が合った。またか、と思ったが、最低でもあと15分は空間を共にしなければいけない。私はキュッと口角を上げ、「はい。」と答えた。
「あーやっぱりね!綺麗な方だと思ったもの!」自分の予想があたり嬉々とした反応を見て、これは長くなりそうだなと悟った。
「日本語上手だけど、日本は長いの?」
「はい、大学進学で帰国してから6年になります」
「それにしても日本語上手だねー。」
「小さい頃は日本に住んでいたんです。日本語が母語です」
「へー。親御さんは何人?」
「父がアメリカ人です」
「アメリカ人!やっぱりねー、お客さんのその鼻は日本人じゃないもの!」
「はは…」
「英語はなに、ぺらぺーら?」
「はい、一応」
「へーすごいねー!お客さん彼氏はいるの?」
「…はい」
「彼氏さん、外人でしょ。お客さんみたいな人は日本人の男には目もくれないでしょ!」
「そんなことないですよ」
セクハラまがいの会話はなかなか終わらない。早く着かないかなあと思いながら、携帯をカバンから出そうとした時にふと自分の定期入れが目に入った。
あ、あのカードあるじゃん。
鼓動がドクドクと早くなるのを感じた。え、本当に渡しちゃう?自問自答した。
今、私はすごく不快な思いをしている。
でも私さえ我慢すればいいだけの話。
でも今日の約束のためにせっかくおしゃれしたのに、気分は台無し。
それに、この運転手は別のミックスの人とも同じことを言うかもしれない。
私は意を決して、渡すことにした。
お会計の際、お金と一緒にカードを渡し、「お釣りはいりません。」とそそくさとタクシーを降りた。
カードを配ることは私の無言の抗議
レストランの入り口で、自分の気持ちが軽くなっていることに気付いた。
あぁ、嫌なことに嫌って言えた。
それから、私はポケットにあのカードが入っているだけで、心が安らかになった。失礼な質問をしてくる人がいたら、これを渡せばいいんだ、と思うと少し気持ちが楽になった。
その後も様々な人の元にカードは渡った。
「髪質がやっぱガイジンっぽいねー」と言ってきた美容師。
走っている自転車をわざわざ止めてハーフか聞いてきたおばちゃん。
日本語が上手ですねと褒めてきたカフェの店員。
「私ガイジンと結婚してハーフの子が欲しいんです!」と言ってきたネイリスト。
カードを配る数が増えれば増えるほどに、このカードを配ることは私の無言の抗議(プロテスト)になっていった。
マーティン・ルーサー・キング牧師の『バーミングハム獄中からの手紙』の一説にこうある。
「非暴力的直接行動(シットインやデモ等)の狙いは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、争点と対決せざるをえないような危機感と緊張感をつくりだそうとするものです。…わたしは、これまで暴力的緊張には真剣に反対してきました。しかし、ある種の建設的な非暴力的緊張は、事態の進展に必要とされています。」
質問に対して口頭で不快感を示すと、必ずと言っていいほど
「褒めてるんだからいいじゃないか」
「実際ミックスなんだし、聞いて何がいけないの?」
「神経質になりすぎている」
と散々黙らされてきた。
私は1億人以上の人にあのカードを配ったことになる
実際、私はこの歳になるまで、自分に投げかけられる質問を半ば諦めてきた。
しかしこのカードは、その質問が失礼であることを伝えるためのツールになった。私の非暴力的武器になった。私の意思を表明するプラカードになった。
ミックスルーツの人間が受ける差別のツイートをしていた時に、ふとこのカードの写真をあげた。
すると瞬く間に拡散され、2020年6月28日現在、1億3千万以上のインプレッションがついている。賛否両論あったが、多くの意見は好意的であり、何より同じ悩みを持つミックスの方々から共感を得られたことはとても嬉しかった。
間接的ではあるが、私は1億人以上の人にあのカードを配ったのだ。私の無言の抗議が、そこまで広がったことに驚きは隠せない。しかし、私はキング牧師がいう「緊張感」を作り出せたのではないか。事態の進展に、一石を投じることができたのではないか。
「そう聞かれることが嫌だとは思わなかった。」
「カードを見て、気をつけようと思った。」
そう言ってくれる方が何百人もいた。
事態は動き出したばかりだ。私はこれからも、様々な方法でプロテストを続けたいと思う。
(編集:榊原すずみ)