黒人の人たちへの差別や暴力に抗議するBlack Lives Matter運動は、2016年に一つの転機があった。
アメリカプロフットボールリーグ(NFL)の試合前、コリン・キャパニック氏が示した国歌斉唱での起立拒否。彼の存在や片膝をついたポーズは、いま世界中で広がるこの運動の象徴となっている。
多くのアフリカ系アメリカ人が活躍する米スポーツ界では、それ以前からずっと、人種差別反対や平等を勝ち取るための闘いが続いてきた。
人生をかけて声をあげたアスリートの闘いの歴史を振り返る。
モハメド・アリ
史上最も有名なボクサーの呼び声の高いモハメド・アリ氏。実力やアスリートとしての偉大さはもちろん、今よりも黒人やアフリカ系アメリカ人の人権が護られていなかった1960年代に、先頭に立って声をあげていた。
アリ氏はベトナム戦争への徴兵を拒否した。1966年3月に残したのが、あの有名な「俺はあいつらベトコンたちに何の恨みもないんだよ」というセリフ。彼ほど著名な人物で、徴兵を拒否した例はなかった。
アリ氏は批判や圧力に直面したが、反戦の姿勢を崩さなかった。
1960年代はアフリカ系アメリカ人の公民権運動が最盛期を迎えていた。アリ氏の行動や発言の背景には、公民権運動が訴える構造的な階級主義や人種主義への批判があったという。
当時のアメリカでは、バスやレストランで白人専用の席が設けられ、黒人に対する入店拒否や離席の要求など、公然と黒人差別が行われていた。国から平等に扱われていないのに、戦争で国のために戦う事に疑問を感じたからだ。
「金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く。そんなシステムを政府が作っている」と、アリ氏は言った。
1967年には、徴兵を回避した罪で有罪判決を受けた後(のちに無罪)、州のボクシング・ライセンスを剥奪された。アリ氏はキャリアを犠牲にしても、一貫して、黒人の権利のために発言・行動し続けた。
1970年のジェリー・クォーリー氏との復帰戦の前には、こんな言葉を残している。
「私は、目の前の相手だけと闘っているのではない、多くの人たちと闘っている。彼らに絶対に倒せない、征服できないやつがいると示すんだ。私の使命は3000万人の黒人たちに自由をもたらすことだ」
1974年のフォアマン氏との対戦でもこう述べている。
「俺が闘うのは自分のためじゃない。同胞たちのためだ。アメリカでコンクリートの床で寝泊まりし、福祉の世話になっている人たち、食べる物にも困り、暗い将来しか描けない黒人たちのためだ」
亡くなった今でも、アリ氏の功績は語り継がれている。
(参照記事・資料)
・モハメド・アリ語録
・アリと猪木のものがたり
・Muhammad Ali - in his own words - BBC Sport
・The Thoughts of Muhammad Ali in Exile, c. 1967
ビル・ラッセル
モハメド・アリ氏と同じ世代を生き、今もなお声を上げ続けているのがアメリカプロバスケットボールNBAのレジェンドであるビル・ラッセル氏。
NBAで1950、60年代に活躍し、歴代最多となるキャリア通算11回の優勝を誇る。彼のキャリアは差別との闘いの連続だった。
当時、黒人の選手は、チームメイトの白人の選手と同じ建物に入ることを拒否される時代だった。ラッセル氏ら黒人選手は1961年、ケンタッキー州のホテルのレストランで入店を拒まれ、現地で予定していたエキシビションの試合をボイコットした。
1950、60年代のアフリカ系アメリカ人の公民権運動にも積極的に携わった。ワシントン大行進でのキング牧師の演説は、最前列で聞いたと語っている。
1964年の公民権法、65年の投票権法の法制化を支持・サポートした。
「ここ4世紀の中で初めて、アメリカの黒人たちが自分自身の歴史を作ることができる。その瞬間に立ち会えるのは、経験できうることの中で最も意義のあることの一つだ」と当時につづったという。
全米黒人地位向上協会のメンバーとして積極的に活動し、徴兵拒否したアリを支持し、彼と共に闘った。ラッセル氏のTwitterのトップ画像は当時の写真で、アリの右隣に座っている。
暴力から黒人を護る「Negro Industrial and Economic Union」(NIEU)の活動の一環として、ボストンで平和的なデモ行進を主催したこともあった。
80歳を超えた今でも、平等や社会的正義のための信念や行動は変わらない。
2017年には、キャパニック氏と同じ片膝を立てた写真を投稿し、団結を示した。
1966年、アメリカ4大プロスポーツ史上初のヘッドコーチ(選手兼務)に就任し、スポーツ界でのアフリカ系アメリカ人の地位獲得の道を切り開いてきた。
だが、ラッセル氏は44年間、NBA殿堂入りを拒んできた。
その理由は、黒人初の殿堂入り選手となるのは、NBA史上初の黒人ドラフト選手のチャック・クーパー氏がふさわしいと考えていたからだ。クーパー氏が2019年に殿堂入りしたことを受けて、ラッセル氏も受け入れた。
(参照記事・資料)
・Bill Russell, Civil Rights Hero and Inventor of Airborne Basketball | Bleacher Report
・1968 and 2020: How Bill Russell and Wilt Chamberlain once faced the same questions confronting today’s NBA players | NBA.com Australia
トミー・スミスとジョン・カーロス
この写真に見覚えのある方も多いはず。拳を高く突き上げて黒人差別に抗議するブラック・パワー・サリュート。オリンピック史上、最も有名な政治的ジェスチャーとして知られている。
1968年メキシコオリンピック。男子200メートル金メダルのトミー・スミス氏と、銅メダルのジョン・カーロス氏は、表彰台で黒人差別に抗議した。黒い手袋をはめて拳を高く突き上げる姿は、今でも語り継がれている。
だが、代償は大きかった。2人はメキシコオリンピックやアメリカ代表チームからも追放され、世界中から非難を受けた。職も失い、脅迫など命の危険も及んだ。
この時、銀メダルだったオーストラリア代表ピーター・ノーマン氏は、サリュートではない方法で、団結を示していた。事前に計画を聞かされていたノーマン氏。拳を掲げる代わりに、スミス氏とカーロス氏と同様に人種差別に抗議する団体のバッチを胸につけ、意思表示した。
オーストラリアは当時、白豪主義が根強かった。ノーマン氏も2人と同様に非難にさらされ、陸上界から理不尽な仕打ちに遭った。
不遇な時を味わうことになった3人。カーロス氏は後に「私たちは、これからやろうとしていることが、どんなアスリートとしての功績よりも偉大なことだと分かっていた」と振り返っている。
著書の中でも、あのジェスチャーには、世界に向けて次のようなメッセージが込められていたとつづったという。
「黒人や他の有色人種にとって、アメリカはみんなが考えるような国ではない。胸にUSAと刻まれているからといって、全てが素晴らしく、快適な暮らしを送っているわけではない」
スミス氏は、その瞬間、さまざまな思いが頭を駆け巡った。インタビューの中で当時のことを次のように振り返っている。
「職に就けないかもしれない。市民そして人間としての信念。何かを言わなければという思いがあった。責任や使命。平等な権利に関して、アメリカが変わる必要があること示すという、トミー・スミスの使命でした」
2019年には、米国オリンピック・パラリンピック委員会(USOPC)がスミス氏とカーロス氏の殿堂入りを表彰。メキシコオリンピックで追放されてから、名誉回復には51年を要した。
(参照記事・資料)
・The man who raised a black power salute at the 1968 Olympic Games | World news | The Guardian
・Black Power Salute | 100 Photographs | The Most Influential Images of All Time
・VICE - We Interviewed Tommie Smith About the 1968 ‘Black Power’ Salute
・白人選手のブラックパワー・サリュート(大野 益弘、笹川スポーツ財団公式サイトより)
コリン・キャパニック
キャパニック氏の行動は、こうした先人たちの意思を引き継いでいる。
起立拒否は、アメリカで賛否が分かれる社会問題となった。所属していたサンフランシスコ49ersとの契約終了後、彼との契約を申し出るチームはなく、アメフト界を去ることを余儀なくされた。
2018年にはNIKEがキャパニック氏を広告起用すると、アメリカ国内で大論争となり、NIKEのスニーカーを燃やす人たちまで現れた。NFLはその年、ひざまづく行為を禁止した。
ジョージ・フロイドさん事件で抗議デモをする人々に対して、キャパニック氏は支持を表明。世界中の人たちが、彼が示したひざまづくポーズで連帯と抗議の意思を示した。
Black Lives Matter運動の盛り上がりの中で、NFLは6月、人種差別に抗議する選手たちを支持してこなかったことを謝罪する声明を発表。キャパニック氏については触れなかったが、彼の行動が、リーグの姿勢を変えたのは言うまでもない。