「人を傷つけない笑い」を目指す時、芸人である僕は「傷つける笑い」が支持されてきた理由を考えた

「昔のお笑いは何でもありでよかった」と言う人が、本当に手放せないでいるものは何か?

いまお笑いの業界では「人を傷つけない笑い」が一つのトレンドとなっています。「人を傷つける笑い」ではもう笑えない、と感じる人も多いようです。

「人を傷つけない笑い」とは、安心して観ていられる、誰かへの誹謗中傷や差別的な言動を含まない笑いのことを言うようです。

例えば、2019年末のM-1グランプリで3位となったコンビ「ぺこぱ」さんの漫才には、ネット上の記事などで「誰も傷つけない笑い」というキャッチコピーが使われており、このトレンドを象徴する芸人の1組となっているようです。

お笑いコンビ「ぺこぱ」のシュウペイさん(左)と松陰寺太勇さん(右)
お笑いコンビ「ぺこぱ」のシュウペイさん(左)と松陰寺太勇さん(右)
時事通信社

反対に「人を傷つける笑い」とは、差別的な物言い、とまでは言わないにしても、偏見や中傷スレスレのワードによって笑いを取るようなものを言うようです。

お笑いは過渡期にあります。近年では、かつてバラエティー番組に出ていたキャラクターがテレビに再登場したところ、「性的少数者への偏見を助長する」などと批判を受け、番組側が「お詫び」したこともありました。

芸人もファンも制作者も、「人を傷つけない笑い」を目指しつつも、かつての何でもありだった時代への憧憬を捨てきれない、という状況にあります。

「人を傷つけない笑い」が求められる社会で、僕たち芸人は、どんな笑いを作ったらいいのでしょうか。この記事では、「人を傷つけない笑い」「人を傷つける笑い」について、お笑い芸人、プレイヤー側として僕が考えていることを述べてみようと思います。

「これ笑っていいのかな」と思いながら笑ってしまった経験はありませんか?

筆者
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まず大前提として、僕は「安易に人を傷つける笑い」をなるべく避けようと思っています。ネタを書いているとき、およそアウトであるような表現について「これ面白いな」などと思ってしまうことはよくあります。が、そういった要素はなるべく誠実に排除していこうと思っています。

もともと僕は人を傷つけたくて芸人になったわけではないですし、お客さんの中には、今まで傷ついてきた人たちもたくさんいるでしょう。自分が面白いと思って提示したもので、人が傷つくのは不本意です。

笑いで人を傷つけたくはない。

ただし、ここでいくつか整理しておきたい点があります。

まず一つ目に、「人を傷つけない」ことと「面白さ」について分けて考える必要があるということです。よく、「人を傷つける笑いなんて面白くない」という意見を言う人がいますが、それは違うと僕は思うのです。

何せ僕たちは面白かったらなんでも笑ってしまうわけです。友達同士のコミュニケーションなどで、「これ笑っていいのかな」とか思いながら笑ってしまったことはありませんか。爆笑してしまったあとで「ちょっとさっきの笑っちゃいけなかったな」などと反省したことはありませんか。

「人を傷つけない笑い」を目指すとき、僕らは意外となんでも笑ってしまう、なんでも面白がれてしまうということを認めるところから考えねばならないと思うのです。面白くても引く、という判断が必要なのです。

「人間は倫理的なんだから、そんな非倫理的なもので笑ってはいけない」ではなく、「人間は非倫理的なものでも笑ってしまうのだから、倫理的にならねばならない」と考えるとき、はじめて「人を傷つけない笑い」を目指すことができるのだと思います。

「昔はよかった…」と言う人が、手放しきれないでいる「もの」は何か

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二つ目に、「人を傷つける笑い」を支持してきた人たちが、何を支持してきたのかを考える必要があるということです。

「人を傷つけない笑い」が評価されるようになった今でも、「昔のお笑いは何でもありでよかった」というような声は存在します。しかし、そういう意見を持つ人たちでも、必ずしも「人を傷つける笑い」が好きなわけではないでしょう。

例えば言ってはいけないことを大声で言いきってしまうことのスカっとする魅力。現実を全てふっ飛ばしてしまうような爽快感。「人を傷つける笑い」が持つある種の快感ゆえ、それを手放しきれない、ということなんじゃないかと僕は思います。

感覚的な話になってしまいますが、「人を傷つける笑い」と対置されるときの「人を傷つけない笑い」は、得てしてスリルや緊張感に欠けていて、紋切り型で、大型工場の匂いのするような人工物に聞こえてしまうのでしょう。

化学的に作られた「人を傷つけない笑い」からは、むしろ人間の匂いや体温が奪われていて、とても愛せそうにない。そういった考えの人は少なくないと思います。

「人を傷つけない」を目指しつつ、爽快感を織り込むために

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そこで僕は「人を傷つける笑い」が持っていた良さをなるべく違った形で引き継げたらなと思っています。すなわち、スカッとするような爽快感や、ある種の人間味は、傷つけること以外の方法で織り込めるのではないかと思うのです。

考えてみれば簡単な話で、誰かが「人を傷つける笑いが好き」というとき、「人を傷つけること」そのものが好きだったのか、には疑問があるわけです。

スカっとする感が好きだったとしたならば、別の方法でスカっとできたら十分楽しめるわけです。スリルだって、危うさだって、人を傷つけなくても十分確保できる。「人を傷つけない」を目指しつつ、「人を傷つける笑い」が持っていた利点を保ち続けるやりようがあるはずなんです。

それを担うのは、例えば「モノボケ的な想像力」ではないかと思います。あるものが常識的な使われ方をしてそこに存在する限り、現実には息苦しさがつきまといます。

そこで、靴を電話に使うような、蛇口からお金が出て来るような、何気ない身の回りのものへの意外な気付き、視点の変更など、お笑いにおけるモノボケ的な想像力は、爽快感と解放へ僕たちを導く突破口になるのではないかと思うのです。

「急に正面が変わる」に感じた、これからのお笑い

筆者。「72時間軟禁コント暮らし」の会場で。
筆者。「72時間軟禁コント暮らし」の会場で。

ぺこぱさんがM-1グランプリにおいて披露した漫才には、「急に正面が変わる」というくだりがありました。

ボケのシュウペイさんが真横を向いて漫才をはじめ、それに対してツッコミの松陰寺さんが視点の変更を迫られる、というくだりでした。あの一連の流れは、まさに会場全体を用いたモノボケのようであり、人を傷つけずに、同時に強い爽快感をもたらすくだりでした。

ぺこぱさんの漫才については、「誰も傷つけないツッコミ方」ばかりがフォーカスされていますが、むしろ僕にはあの「正面が変わる」くだりにこそ、これからのお笑いが見える気がしたのです。

今までのお笑いには、たくさんの財産があります。これまでたくさんの芸人が、人に向かって鋭い視点や言葉を紡いできました。それらを今一度モノに向け直し、現実を捉え直す爽快感を開拓していくことで、お笑いは新たなフェーズに進めるのではないかと思っています。

以上のようなことを考えたうえで、微力ながら、新しい時代のお笑いを作っていけたらな、と思っています。

(編集・湊彬子

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