「実は心が女性なの」と明かした夜。第二の故郷、歌舞伎町の記憶

人間を差別せず、個々の人格を尊重し、ちゃんと評価しようとしてくれる。居場所を与えてくれる。大きな愛で包んでくれる街。

新型コロナウイルスの影響で、いまだかつてない危機に直面する新宿・歌舞伎町。

社会から疎外された人、生きづらさを抱えた人を、大きな愛で包んでくれる街。

トランスジェンダーで柔道整復師の早乙女ゆきさんが、第二の故郷の追憶をつづりました。

………

私の第二の故郷、新宿・歌舞伎町。 

今でも新宿駅や新大久保駅に降り立つと手を合わせたい衝動に駆られます。

この街は私の人生、命をつなぎ支えてくれた。そのくらい大切な場所です。

幼少の頃より性別の違和感に悩み、苦しんでいました。そんな私に手を差し伸べてくれたのがこの街の人たち。

以前にも触れたとおり、当時私は自身の性と戦うためにあえて極端な選択をし、世間で言う不良、ツッパリ人生を歩んでいました。

そんな10代の頃、もともと洋曲が好きだった私はソウル・ディスコミュージックに出会いました。ある意味、それが私と新宿の運命の出会いだったのかもしれません。

16歳、初めての新宿・歌舞伎町

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1980年、16歳。

私は初めて新宿歌舞伎町の東亜会館のディスコに足を踏み入れました。

歌舞伎町一番街を入って行ったところ、今はなきコマ劇場の近くです。

東亜会館にはディスコが数店舗入っていた記憶がありますが、私は主に「B&B」や「グリース」というお店に通っていました。 

ボーイズ・タウン・ギャングの「君の瞳に恋してる」が大好きでした。

当時は1000円程度でフリードリンク、フリーフードが基本。フードはピラフやパスタ等。

懐かしいな。決しておいしいとは言えないけれど、なぜか今でも思い出しては当時に戻って食べたい気持ちになります。

私がディスコデビューしたのは、ディスコブームの終盤。

アラベスクの「ハローミスターモンキー」「ペパーミントジャック」、ジンギスカンの「ハッチ大作戦」「モスクワ」、マルコポーロの「アリババ」、ドゥーリーズの「ウォンテッド」「ストーンウォール」などなど。大好きな曲が流れる中、DJの巧みな話術に乗ってみんなで盛り上がりました。 

ディスコで女の子の友人が出来ました。

私はその友人に人生で初めて、自分のセクシュアリティをカミングアウトしました。

リーゼントでビシッと決めた私が、「実は心が女性なの」と。

友人は、「OK、良いじゃない。私達のグループに入って踊ろうよ」って言ってくれました。

地元の友人には恐くて言えなかったけど、なぜかこの新宿という町ではカミングアウトすることができました。

私も含め、当時世間で不良扱いされていた仲間たちでしたが、歌舞伎町で遊ぶ彼らや彼女達は不思議と個を大切にする心を持っていたように感じます。 

同じ頃、私はアマチュアの女装愛好者向け雑誌「くいーん」に出会いました。性別にとらわれず、自分の心のままに好きなファッションを楽しむ、そういった雑誌があると聞いて、上野駅前 広小路口のアダルトショップに買いに行きました。

アダルトショップに関心はなかったけれど、「自分の心の通りの格好をしたい」という気持ちでいっぱいで、勇気を振り絞って、買いに行ったのです。

当時は今のようなネット社会ではありません。私と同じように自分の性別に違和感を持ち、悩む人が他にもいるのか、インターネットで調べることもできませんでした。

女装愛好者向け雑誌「くいーん」には、ファッションの情報だけではなく、お友達募集コーナーや自分で撮った写真を投稿するコーナーがありました。

私はこのお友達募集コーナーで、大阪に住むトランスジェンダーの女の子と知り合いました。他愛もない日常のできごとや、人に言われて辛かったことなどを文通し、私と同じような悩みを持つ人が他にもいるんだということを知りました。

18歳、初めて女装してワンピースを着た日  

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高校を卒業した18歳の頃。

アルバイトで必死に貯めたお金を持って、「くいーん」に掲載されていた新大久保の女装サロン「エリザベス会館」の扉を叩きました。

エリザベス会館は、月極で自分のロッカーを借りるサロン。

女性の格好をしたい人が、今ほど自由に好きな格好をできる時代ではなかったので、自宅ではない別の場所にウィッグや洋服をしまうロッカーが必要でした。

メイク講習や、レンタル衣装、談話室などもあり、いつか行ってみたいと思っていた憧れのお店でした。

そこで私はメイクを本格的に教わり、はじめて普通の女性の服を着ました。

たしか、イエローに白の水玉柄で、ウエストをリボンで結ぶフレアワンピース。

「変身」するための衣装ではなく、普通の女性の服を来て、やっと本当の自分に戻れた気持ちになって感動したことをいまでも鮮明に憶えています。

店内は決して豪華ではなく、スタッフも数人しかいない小さな場所でしたが、私にとっては本当の自分に戻れるお城のような場所でした。そこに集う仲間は、私のようなトランスジェンダーの女の子、女装が趣味の方など様々でしたが、スタッフの方を含めてみんなで悩みを語り合い、おしゃべりに花を咲かせるひとときは夢のような時間でした。 

20代、初めて女性として外出した日

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女装サロンに通いはじめて数年。

友人に誘われて、はじめて女性の格好で外出しました。

新大久保の「エリザベス会館」から西武新宿駅北口付近の歌舞伎町のスナックまで、遠い距離ではないのに、とてもドキドキして、線路沿いを隠れるように歩くのが精一杯でした。

友人はその姿を見て、「あなたは本来の自分の姿に戻っているだけなんだから、そんなにおどおどしなくていいのよ。私たちが人に迷惑をかけたり、悪いことをしているわけではないんだから」と、ずっと側で励ましてくれました。

スナックの扉を開けたときのママの笑顔はとても印象的で、あたたかく私達を迎えてくださいました。何度か通っていると、ママが「お店を閉めたあとに知り合いのバーに行くけど一緒に来る?」と誘ってくださいました。

それからは週末にエリザベス会館で着替えては2軒のお店を行き来するようになりました。

どちらのお店も歌舞伎町の端っこ。決して華やかな場所ではないけれど、二人のママさんやスタッフ、お客様も含めてみんなが私達を守ってくれている、理解者でいてくれる、そういう雰囲気がひしひしと伝わってくる空間でした。

それからほどなくして、私は一児の父となり、表向きには男性として生きることにしました。

今でも家族には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいですが、この街、この場所があったから今の私がある、頑張れたのだと思います。

20代後半、初めての男性からの誘い

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20代後半のころ、こんな出来事がありました。

いつも通っていた飲み屋さんで、男性からデートのお誘いを受けたのです。

その方もお店の常連さん。いつも冗談を交え、楽しくお話する間柄ではありましたが、まじめに言われたのは初めてで、正直そのような経験もなく、どうしたら良いのか戸惑いました。

その方がお帰りになったあと、ママが私の側に来て、あの人のことゆきちゃんはどう思っているの?と聞かれました。

「うん、好きかな」。恥ずかしい気持ちでそう答えた私に、ママは、こう言ってくれました。

「ゆきちゃん、あの人なら大丈夫。好きならデートしたら? 本当に良い人だから。それと今は私が見ていたからアドバイス出来たけど、もし、私が見ていない状況でそういうことがあって、必ず私に相談してからお返事なさいね。あなたのためだから絶対よ」

私のようなトランスジェンダーの人間のプライベートなところまで、気にかけて面倒をみてくれる人がいる。お金もなく、安いお酒で、大した売上にもならない客なのに、本当に親身に相談に乗り、応援してくれる人が周りにいる。「おとこおんな」といじめられたり、今と違って自分の本心を隠さなきゃいけないという風潮のなか、私たちが“居ていい場所”があるということのありがたさ。

私たちは孤独ではない。

そう感じさせてくれたのは、歌舞伎町という街だけでした。 

歌舞伎町という街、そこに生きる人々

早乙女ゆきさん提供

それから十数年、私もこの街に助けられつつも子育てに追われ、気がつけばエリザベス会館は新宿から姿を消し、行きつけだったスナックもママが病に倒れたり、閉店したり。

街並みも変化しました。東亜会館もすっかり様変わり、歌舞伎町のシンボル、コマ劇場もなくなってしまいました。 

それでも当時、歌舞伎町で出会った人とのつながりは途切れながらも続いています。

現役を引退されたあとも、ママは相談相手として、時に母親のように私の人生を支えてくれました。友人関係のこと、家族に対するカミングアウトのこと、将来のこと。

病に伏したママの元へ仲間とお見舞いに行ったり、思い出話に花を咲かせたり。ほどなくして亡くなったママを想い、仲間と一晩中お酒を飲み、泣き明かした日もありました。

私は歌舞伎町で遊び回っていたわけではないので、歌舞伎町を広く深く知っているわけではありません。でも、昔も今も他の地域に比べたらこの街の人達は一生懸命生きていこうとしている人間を差別せず、個々の人格を尊重し、ちゃんと評価しようとしてくれます。居場所を与えてくれる。大きな愛で包んでくれる町。

これからも歌舞伎町はどんどん進化を遂げていくでしょう。街並みがどんなに変わろうとも、ここに生きる人達がいる限り、その心根は受け継がれていくように感じます。

私自身もこの町で出会った人から学び、「はじめから女の子に生まれていればよかった」とは思わなくなりました。軽蔑の目で見られても、心折れないようにどうにか頑張って生きていく、その過程で、様々な問題を抱え、同じように社会から疎外されている人たちへの想像力をもち、理解しようと努力することができたから。

私は新宿という街、歌舞伎町という街、そしてそこに生きる人々をいつまでも誇りに思います。

2020年、世界的に流行した新型コロナウイルスは、LGBTQコミュニティにも大きな影響を与えています。「東京レインボープライド」を始めとした各地のパレードはキャンセルや延期になり、仲間たちと会いに行っていた店も今や集まることができなくなりました。しかし、当事者やアライの発信は止まりません。場所はオンラインに移り、ライブ配信や新しい出会いが起きています。

「私たちはここにいる」――その声が消えることはありません。たとえ「いつもの場所」が無くなっても、SNSやビデオチャットでつながりあい、画面の向こうにいる相手に思いを馳せるはずです。私たちは、オンライン空間が虹色に染まるのを目にするでしょう。

「私たちはここにいる 2020」特集ページはこちら。

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