「サッカーのシリア代表としてプレーしたかった」
どこにでもいる大学生の日常は、2011年にシリア国内で起きた内戦で一変した。国を逃れ、親戚らを頼ってたどり着いたのは、母国から8500キロも離れた日本。突如、言葉も全く分からない場所で、家族を養っていかなければならなくなった。
難民認定を受けたシリア国籍のジャマル・ヤセルさんは、来日から7年が経つ。今では日本の大学に通い、新しい「夢」もできたが、ここに来るまでは苦労の連続だった。
家の屋根に爆弾が落ちた
ヤセルさんはシリアにいた時、ダマスカス大学で英文学を学ぶ学生だった。サッカー選手としてディビジョン2のチームでプレーもし、学生生活とサッカーに明け暮れていた。
大学1年だった2011年、内戦が起きた。移動に危険が伴うため全てのトレーニングは中断された。状況はさらに悪化し、3年の時、母と妹と住んでいた実家に爆弾が落とされた。
「空軍機か何かが現れて、下の階に移動しました。爆弾が屋根に落ち、一番上のフロアを破壊しました。音や声、光景は本当におぞましいものでした」
幸運にもヤセルさんや母、妹にけがはなかったが、命を失ってもおかしくない状況だった。平穏だった日常とはかけ離れた出来事に、まるで「戦争ゲームのようだった」という。
「(爆音で)数分間耳が『ピー』と鳴り響いていました。妹は泣いていて、母は衝撃を受けていました」
「その翌日、必要なものを荷造りしました。母親は仕事を辞め、妹は学校を辞め、私は大学を辞めました。父はカタールで働いていたので、それがシリアを出た大きな理由です」
2013年2月。レバノンを経由して、叔母のいるエジプトに渡った。父はビザの関係で、ヤセルさん家族をカタールに招くことが認められなかったという。
父からの送金を頼りに部屋を借り、生活に精一杯だった。
「エジプトにいた8カ月、何も上手くいきませんでした。当時エジプトも政情が不安定で、ムバラク元大統領とモルシ前大統領の対立が激化していました。現地の大学に受け入れてもらえず、働き先も見つけらなかった。全く一から生活を始めなければなりませんでした」
「私と母は、シリアに戻ろうかとも考えていました。大学に戻ることができる。シリアでどう生き抜くかは心得ていました。たとえ内戦下であっても、戻ることが好ましいと考えていました」
そんな時、たまたま会う機会があった叔父が、日本に行く橋渡しをしてくれた。日本人の女性と結婚し、日本に20年以上住んでいた。
そのつてや助けを頼って、レバノンの日本大使館で観光ビザを取得し、なけなしのお金で航空券を買い、来日することができた。
「難民の立場でできることが限られた」
日本は内戦もなく、爆弾は落ちてこない。政情も安定しており、命の心配をする必要もない。でも決して、生活が上向くことはなかった。
「状況はひどかったです。当初、難民の立場ではできることが限られていた。まともなアルバイトもできません。しかも、私たちが日本に来たタイミングで、父がシリアに帰国することを強いられました」
シリアの政情悪化で、父がカタールでの契約更新を拒まれてしまい、ヤセルさん一家は収入源を失ってしまった。
出入国在留管理庁によると、認定までの平均所要期間は1年5カ月。申請者の状況に応じて、手続きを待つ間、便宜上在留資格が与えられることがあるという。
「当時のシリアには仕事も何もなかった。私が日本から父に生活に必要なお金を送っていました。私は働くしかなかったのです」
見知らぬ地で、一家を養わなければ
すがる思いで見つけたのは日雇いの工事現場の仕事。朝4時に起き、5時半に会社に自転車で向かう。現場で解体などの作業をして、家に戻るのは夜7時。そんな生活を週6日、続ける日々だったという。
日本語も全く分からない。その状況で、一家を養っていかなければならなかった。
「全てのことを私が背負っていました。急激な変化でした。とにかくお金が要る。仕事量に比べて額は少なかったですが、例え過重労働でも生活のためでした。当初はまともな仕事も探せませんでした」
「そこら中に怪我や傷ができました。社長や現場の人たちから『あれをやれこれをしろ』と怒鳴られました。当時は日本語も分からず、彼らは英語が喋れません。最もつらく大変な時期でした。何度も何度もシリアが恋しくなりました」
その後、お台場のカフェのアルバイトに移った。そこで1年ほど、多い時で週6日で勤務した。ようやく難民認定が下りた時には、申請から1年半が経っていた。そのタイミングで父を日本に呼び寄せた。
一家を支える重責から少しだけ解放され、「自分の時間、将来について考える時間を持てるようになりました」と振り返る。
家族で政府の日本語プログラムに参加し、中断された勉強を再開するため、奨学金制度を利用して明治大学に入学。大好きなサッカーも、チームに所属して本格的に再開した。
「シリア代表としてプレーしたい」叶わぬ夢に
ヤセルさんには夢があった。
物心ついた時からサッカーボールを蹴り、16歳でプロリーグのチームに所属。生活できるほどの収入はなかったが、日本に来る前はディビジョン2でプレーしていた。
「サッカーのシリア代表としてプレーしたい」
そう思い描いていた。
もしそれが叶わなくても、ダマスカス大学を卒業後、イギリスの大学院への進学も考えていた。そこでの経験を生かして、帰国後に大学教授や教師として働くという目標もあった。
全ては叶わぬものになった。明るかったはずの未来は、自分の力ではどうすることもできないまま、内戦によって無残に打ち砕かれた。
日本に来た当初は、生きることに精一杯。そこから新たな生活を築き、一度は失った「夢」を見つけた。
幼い頃にはいつも、サッカーアニメ「キャプテン・マージド」を観ていたという。その原作「キャプテン翼」が誕生した日本で、今はJリーガーを目指している。
「日本でプロ選手になるのが夢です」と語る。
現在は、東京の国際トップリーグ「Tokyo Metropolis League」のチームに所属している。その他にも、Jリーガーとのプレーやトレーニングにも励んでいる。
「難民支援協会(JAR)でゲストとしてスピーチした際に、『私の夢は日本でプロ選手になることだ』と話しました。『Jリーグと繋がりある人はいませんか』と尋ねると、ある協会職員が、サッカーコンサルタントの幸野健一さんを知っていました。幸野さんがサポートし、トライアウトをしてくれると言ってくれました」
「スピードが私の持ち味です。今シーズンはリーグやトーナメント戦で9ゴールを決め、ベストシーズンの一つです」
けがが続いて、まだ実現していないが、プロへのトライアウトの機会を探っている。
初めてできた日本人の友達も、サッカーを通じて知り合った。まだ日本語が話せない時も、ジムでフットサルをしている人たちに混ぜてもらったこともあった。
「サッカーは国際的な言語です」
そう感謝する。
「シリアでやり直せない。日本が今の私のホーム」
幼稚園で英語を教える仕事も経験し、今は俳優としての仕事などもしている。
「大学を卒業したら、プロサッカー選手かサッカーのコーチ、もしくは俳優として働きたいです。今年はどちらも一生懸命努力して、どれが上手くいくのかを判断したいです」
8歳離れた妹は、同じ明治大の1年生。料理人の父は、30年以上の経験を持ち一流ホテルのメインシェフを勤めたこともあるが、言葉の壁から仕事を見つかっていない。母も同様で、家にいる時間が多いという。
「彼らの才能を発揮する場所を見つけることが難しい。家にずっといるのはとても辛いことです。働き口を見つけて、家か出る時間を作ってもらいたい」と願っている。
ビジネスパートナーが見つかれば、シリア料理を提供できる店の展開などを模索している。
日本に来てから7年。ヤセルさんは今後も、シリアに戻るつもりはないという。
「シリアでは全てを失ってしまいました。日本で新たに、自分の生活やコミュニティでの関係性も築きました。婚約もして一緒に住んでいます。サッカーや自分のやりたいこともできる。シリアに戻ってまたやり直すことはできません。日本が今の私のホームです」
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のデータなどによると、2020年6月現在、紛争や迫害により故郷を追われたシリア人難民はおよそ600万人を超え、世界で最も多いという。
内戦は発生から9年が経った今でも、終わりが見えない状態が続いている。
「内戦がすぐに終わることを願っています。いつかまたシリアを訪れたいです。数週間や1カ月だったり。他の学生たちは、家族に会うため、休暇には母国に帰っています。私もそれができたらいい」