イチローの「寡黙な選手」という印象は、メディアの一面的な見方だったのかもしれない。
2019年3月に東京ドームで迎えた最後の試合のあと。
観客はスタンドから立ち去ろうとせず、それぞれの思いでイチローへの感謝を伝えていた。イチローはグラウンドをゆっくりと一周し、両手を掲げてそれに応え、ファンと気持ちが通じ合っていたのだ。
スポーツ選手がTwitterなどSNSで自らの考えをどんどん発信できる時代だ。だが、イチローは積極的にSNSを使って自分から発信してきたわけでなかった。
どうやってファンに対して「自分」を表現してきたのか。ハフポスト日本版が単独インタビューを行った。
「あの選手は違う」と思ってもらえるように
「日本のファンの方は表現することは苦手という印象があったのですが、(きょうで)完全に覆りました」
2019年3月21日に現役引退を表明した時、母国のファンの大歓声に対して試合後の記者会見でイチローはそう言った。
ハフポスト日本版は、当時スタンドにいたファンに話を聞いてみた。
大学時代に渡米し、それ以来、30年間アメリカに住んでいるという日本人の男性(50)は、「イチローの姿を見ているだけで、異国の地で頑張ろうという気持ちになった。コツコツとヒットを積み重ねる姿を見ることで、他人の目を気にするより、自分自身と戦うことの大切さを教えられた。
引退した日も、グラウンドで動きまわるイチローから、たくさんのメッセージを受け取った」と話す。
アメリカを拠点とするイチローは、メジャーリーグに渡った2001年以降、日本にいるファンに対して間近でプレーを見せ続ける機会は減った。
インターネットなどを通して日本のファンは活躍や野球に対する思いを知ることができたが、最近のプロスポーツ選手のように、積極的にSNSを使って自分から発信してきたわけではない。
それでもイチローには人の心を惹きつける「何か」があったのだ。
「だからこそ、昨年3月21日(東京ドームでの)あの瞬間が生まれたような気もするんです」と振り返る。
「さすがに僕も感情的になりましたが、何とかこらえました。たくさんの方が涙を流しながら声を掛けてくれている姿が見えたので、ここで僕が涙を見せては絶対にいけないなと」
先ほどのファンの男性が言うように、イチローはプレーや立ち振る舞いを通してファンに対して表現をしていた。球場に足を運ぶ人に「あの選手は違う」と感じてもらうことを意識してきた、とインタビュー中にも語った。
球場を訪れた人がグラウンドを見渡した時、「選手の集団の中でもすぐにイチローを見分けることができる」と言われるのが喜びの1つだったという。
「それは、僕が目指してきたことでもあったので、そんな風に感じてもらえたなら、とても嬉しいんです。『あの選手ちょっと面白いな』と、野球を知らない人に感じてもらうのも目標の1つでした」
「僕は、守備の時もじっとしている時間が少ない。いつもストレッチなどをしているイメージを持っている方もいると思います。もちろんパフォーマンスと連動することが前提ですが、 人がしていないことをやれば、それは個性にも繋がる。そんなところも大切にしていました」
踏み込む足を振り子のように揺らしてタイミングを計る「振り子打法」や、打席に入った後にバットを立てる仕草。フライを背中越しに捕殺する「背面キャッチ」。さらには、外野から矢のような送球でランナーを併殺する「レーザービーム」。
どれも、真っ先にイチローの動く姿が思い浮かぶ。そうした個性を持つことが、イチローが考えるプロの条件でもあった。
見ている側の気持ちを考えた時、「プロ野球選手は、人と違う個性がないと面白くない。打ち方や仕草、何でもいい。その上で結果を残せば、それがその選手の代名詞にもなる。野球に関する知識がないドがつく素人が見ても、『明らかに違う』と感じられる選手でいたい。そこを目指すのもプロじゃないでしょうか」
「今、何を思っているんだろう」
「野球選手としての表現」について話を続けていると、イチローはこんなことを口にした。
「結果がすべて、と言われる勝負の世界では、自身のことを伝えるときに、自ら発信するとなかなか伝わらないという側面がある。もちろん現代ではデマも多く、火のないところに煙を立たすことができてしまうので、それを抑止するツールを持っておく必要はあります。理想は、客観的視点を持った第三者に伝えてもらうことです」
「しかし、話を聞く側の解釈が違ったり、ストーリーがすでに決まっていてそこに誘導したりしようとすることもあるのが難しいところ。なれ合いではなく、お互い批判し合える緊張感のある、本当の意味での良い関係を築くのは簡単ではありません。その上で現役中は『聞かれれば答える』のスタンスを大事にしてきました」
これまでは、スポーツ選手の言葉を伝えるのは新聞、テレビ、雑誌などのメディアに限られていた。ただ、スポーツ選手の発言が正確に伝わらないこともあり、現在は自分のTwitterやYouTubeのアカウントを開設して、思いを直接ファンに伝える選手も少なくない。
今年2月7日、日本学生野球協会の資格審査委員会があり、イチローは高校や大学野球での指導が可能となったばかりだ。今後はどう野球と関わるのだろうか?草野球のこと、高校や大学などアマチュア野球の未来、球数制限問題など若い選手と健康管理の課題…。現役を引退した後も、イチローにみんなが聞きたいことは山ほどある。
それでもイチローは、自分で発信するよりも、「第三者」を通してメッセージを伝えてきた。その方がより長く、深く伝わっていくと考えているからだという。
「聞かれてもいないことを自分から発信すると、瞬間的には伝わるかもしれないけど、心にまで響かない。興味深い点ですが、これが第三者をはさんで伝わると、まったく違うんです」
「『イチローは今、何を思っているんだろう』と考えてもらう状態を作りたい。そのとき抱いている感情をその都度表現してしまうと、受け取る側の興味が、薄くなっていってしまう。ある程度、見る側に委ねる。そして答えは後に明かす。その距離感を保ちながら、ずっとやってきました」
日本人アスリートを見渡すと、TwitterやYouTubeを使ったり、事細かに思いを説明したりして、積極的に発信する選手も増えている。
イチロー自身、マリナーズの公式Twitterに度々登場している。現役中はもちろん、引退した後も、ユニフォーム姿でバッティングやピッチングする様子はファンに届いていた。「第三者」の目線から、ネットを通じて様々な姿を見せてきた。
「でもコミュニケーションの手段は人それぞれ。多様性があって当然です。いろいろな人間がいるから、見ている人も面白いと感じるのだと思います」
プロスポーツ選手の何気ない食事の話題をSNSで見つけて、野球に興味を持ち、そこからより深くプレーを理解できるファンもいれば、イチローのように独特のやり方でメッセージを伝える選手もいる。インタビューを通して感じたのは、「それぞれの個性を見せ合うからこそ、プロ野球は面白い」というイチローの思いだ。
「頭を使う必要のない」野球
その「個性」を失いかねない流れが今のメジャーリーグに起こっている。
イチロー自身も、2001年にアメリカに渡ってから、シアトル マリナーズ、ニューヨーク ヤンキース、マイアミ マーリンズと3球団でプレーした19年間で、「野球が変わっていった」印象があるという。背景にあるのが「データ革命」だ。
ゴロよりも、ヒットになる確率が高いとされるフライを狙う戦略を採用するチームが増えた。ホームランになりやすい打球の速度と角度を計測し、守備位置に関するデータも数値化された。
実際、データ戦略を積極的に採り入れ、結果を出しているチームもある。選手のプレーを数値化し、ビッグデータを駆使した、一見すると最先端な戦術。
「最近はコンピューターを操っているというより、人がコンピューターに操られているように見えます」
「攻撃では全ての投手のデータが出され、こと細かく傾向が示される。まさに木を見て森を見ず、です。ノーアウト2塁の場面で、右打者が初球をサードフライ、なんてこともよく見かける。ランナーをためてホームラン、そんなTVゲームのような野球を目指しているから『バッティングコンテスト』に見えてしまうのかもしれません」
「守備でも全てがデータ化され、極端なシフトを含め、守る位置は全て決められている」
「興味深いのは、個性を重んじるイメージのアメリカで、全てのチームがこの傾向にあるという点。1チームや2チーム、他とは違う考え方で臨んだ方が面白いはずなのにみんなが右へならえ」
データに基づいて守備位置が決められ、それに従う。もしデータと違う結果が出ても、「指示に従ったこと」がOKとされ、「仕方ない」となる。
それでは、相手と駆け引きしたり、試合の流れやチーム状況を読んだりするプレーが生まれづらいのではないか。
「これでは選手の感性が発揮できないどころか、感性そのものが消えていく。以前はバカじゃ野球はできないとよく言われましたが、今はどうでしょう?頭を使う必要がなくなってきているのは明らかです」
イチローがアメリカに渡った2001年と比べた、2019年のアメリカの野球。「頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある」というのは、イチローが2019年3月の引退会見でも、言葉を選びながらも口にした表現だ。
その場でイチローは「日本の野球は頭を使う、面白い野球であって欲しい」とも発言を結んでいた。
「どこでもドアみたいにできる」世の中は…
野球界を変えたビッグデータや技術革新は、スポーツだけでなく、世の中のさまざまな分野で活用されている。そのおかげで、生活はどんどん便利になっているのは確かだ。
例えばスマホを開けば、世界中の人とつながったり、さまざまな情報を得たりすることができる。VR(仮想現実)や撮影・映像技術の発展で、実際にその場にいるかのような臨場感あふれる体験ができるようにもなった。今後はVRを通してスポーツを見る人が増えそうだ。
どうすればこうしたテクノロジーとうまく付き合えるのだろうか。
「現地に行かなくても体験できる。そこにいなくてもいる気分にさせられる。飛躍的な技術の進歩により、感覚としては『どこでもドア』ができる時代になった。ものすごいことだと思います。時間が進む速度や世の中のサイズが、急速に変わりましたよね」
「ただ、どんな時代になっても、ITなどのテクノロジーを生かしつつも、同時に、現地に行って『体感』することに対する思いも、僕は強い。薄く広くではなく、狭くてもいいから、より深く物事を捉えたいんです」
20代の時、リスクを取ってアメリカに渡ったからこそ分かった、現地の雰囲気。歴史の重みがあるニューヨーク(ヤンキース)と、開放的な南国にあるマイアミ(マーリンズ)など地域ごとの個性も肌で感じた。
アジア人選手という「マイノリティ」としての立場も嫌というほど経験した。だからこそ「日本人であること」や「日本語」に対して感覚が研ぎ澄まされ、表現をすることに、独特の哲学があるのかもしれない。
最高の最後を迎えられた理由
再び、2019年3月の東京ドームのシーン。日米通算4367安打、メジャーリーグでシーズン最多262安打、10年連続の200安打。
「数字」以上に、東京ドームに足を運んだファンが見たかったのは、イチローのプレーだった。一つ一つの動きに個性を感じ、「球場に来て良かったな」と思わせる。言葉を超えたそんなイチローの表現に惚れ込み、それぞれのメッセージを受け取る。
ファンとあれほど通じ合えた瞬間を、イチローはこれからも忘れるはずはない。
「試合が終わった後も残ってくれた人たちは、それぞれに僕に対して何かしらの思いを持ってくれていた。今まで野球に対して、自分なりに真面目に向き合ってきたし、ありったけの情熱をささげてきたつもりです。その姿を見ていてくれたのかもしれないですね。だからこそ、あのような特別な最後を迎えられたのだと思います」
(取材・文:竹下隆一郎・濵田理央、撮影:渋谷純一)