1980年、WHO(世界保健機関)は天然痘の根絶を宣言した。長らく苦しめられてきた感染症に、人類はついに打ち勝ったのだ。
だが、同じ頃から新たな感染症が流行する。エイズとエボラ出血熱だ。現在、エイズは抗ウイルス薬によりかなり致死性を抑えられるようになったが、エボラはいまだに死亡率が高い感染症として怖れられてる。
1995年に公開された映画『アウトブレイク』は、このエボラをモデルとする感染症を描いたハリウッド大作だ。そのタイトルは「感染爆発」、あるいは「大流行」を意味する。
製作のきっかけとなったのは、前年に出版されたリチャード・プレストンのノンフィクション『ホット・ゾーン』だと言われる。未知のウイルスがアメリカの地方都市で一気に広がり、それを阻止すべくダスティン・ホフマン演じる軍医が文字通り奔走する物語だ。
おそらくこの映画は、今回の新型コロナウイルスによるパンデミックが起こるまでは、感染症をモチーフとした映画では(ゾンビ映画を除けば)世界でもっともヒットした作品だった。
エボラ出血熱をモデルにした未知の感染症
この映画で登場するモターバ熱という未知の感染症は、エボラ出血熱をモデルとしている。
モターバとは、アフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)に流れる川だ。60年代、この付近で未知の感染症が広がった。それを抑えるために、アメリカ軍は爆弾を投下して村ごと破壊する──これが映画の冒頭だ。
時は移り90年代、アフリカからアメリカへ密かに輸入された猿が、輸送中に車を運転していた青年に、飲んでいた水を吐きかける。猿はペットショップに持ち込まれるが、店主が腕をひっかかれる。そう、この猿が保菌者だった。
翌日、青年は空路でボストンに戻るが機内で発熱。ペットショップの店主も突然卒倒する。
その後、青年の恋人や店主の血液を調べていていた検査技師に二次感染が起こる。検査技師が立ち寄った映画館では、体調を崩した男性が突然痙攣しながら倒れる。
こうして、みるみるうちにウイルスは伝播していく。近親者との濃厚接触と院内感染という、感染症の初期段階は的確に押さえられている。
物語もここから拡大していく。ダスティン・ホフマン演じる軍医の元妻でもあるCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の職員が、病院の調査に入る。主人公の軍医は、感染症を食い止めるために奔走する。
日本公開は地下鉄サリン事件の翌月
このモターバ熱の特徴は、感染から発症までの期間が短く、急激に悪化し、そして致死性が強いことだ。
症状としては、高熱に加え、目や鼻などから出血し、身体中が腫れる。こうした特徴は、今回の新型コロナウイルスや約100年前のスペイン風邪(インフルエンザ)とは異なり、当時恐怖の感染症として注目されていたエボラ出血熱とよく似ている。
この映画が日本で公開されたのは、1995年4月29日のことだった(アメリカでは3月10日)。オウム真理教による地下鉄サリン事件の翌月だ。
都心では常にテロへの警戒が続き、4月から5月にかけて新宿駅での青酸ガスによるテロ未遂事件や、都庁への爆弾小包事件があった。つまり公開時期としては、あまり良くないタイミングだ。
しかし、この映画は日本でも大ヒットした。配給収入13億円と、その年の洋画8位になるほどに。
それには理由がある。この映画の公開直後、実際にザイールでエボラ出血熱がアウトブレイクした。4月から感染が拡大し、6月には収束したものの244名が亡くなった。そのうち100名以上は医療関係者だったという(国立感染症研究所「エボラ出血熱とは」2019年)。
公開時期とちょうど重なり、しかも発生したのは映画と同じザイールだった。エボラへの関心が、全世界的にこの『アウトブレイク』に向かったのである。
だが、このときのエボラが3カ月で収束したように、決してその期間は長くない。致死率が高いために、感染が拡大する前に宿主が亡くなってしまうためだ。今後根絶が難しいほどに蔓延している新型コロナウイルスと決定的に異なるのは、この毒性の強さだ。
パンデミック時の統治権力と市民との関係
『アウトブレイク』は、前半の静かな展開と打って変わって、後半はチェイスもあるアクション映画の様相となる。
だが、そこで中心のテーマとなるのは感染症よりも政治だ。新型コロナウイルスのパンデミックと酷似する映画『コンテイジョン』が、感染症そのものと社会を描くことに力を入れたのとは異なるアプローチだ。
方向性としては、ヨーロッパを横断する電車内での感染症の広がりを描いたアクション映画『カサンドラ・クロス』(1976年)と近い。
詳しくは触れないが、軍はあることを隠蔽するために大胆かつ非道な作戦をとろうとする。その暴走を阻止するために、主人公の軍医は部下の相棒とともにヘリコプターで奔走する。
こうした展開には、冷戦以後・911以前のアメリカのリベラルな雰囲気が漂っている。軍内部での対立が描かれるその展開は、1998年に公開される『マーシャル・ロー』にも通ずる。
3年後のアメリカ同時多発テロ事件(911)による混乱(とくにアラブ系市民への迫害)を予見していたとして後に見直されるこの作品は、テロ事件に端を発して国内で活動するCIAの前にFBIの捜査官が立ちはだかる内容だった。そこでは、統治権力の暴走をいかに食い止めるかがテーマとされていた。
感染症を題材とするフィクションでは、程度はともあれ統治権力と市民との関係が描かれる。行政が関与しなければ、感染症の抑制は難しいからだ。しかし、同時にそこでは非常事態の混乱に乗じた統治権力の暴走や隠蔽を招くリスクも高まる。
今回の新型コロナによるパンデミックでも、最初に感染が広がった中国では、国による徹底的な都市封鎖と外出規制、そして監視によってウイルスを封じ込めた。
当初は、言論の自由が認められていない社会主義国家だからこその政策とみなされていた。が、その後ヨーロッパにも感染が拡大し、フランスやイタリア、イギリスなどの自由主義の国でも罰金付きの外出制限がなされた。市民の私権は、いまだに大きく制限されている。
補償伴わない「自粛要請」が生む“晒し上げ”
周知の通り、欧米ほどの感染症の広がりを見せていない日本では、他国ほどの強い制限はかかっていない。
しかし、補償を曖昧としたままの「自粛要請」は、それに従わない場合の“晒し上げ”と、ひとびとからのバッシングを生じさせた。
その状況とは、信頼とそれにともなう契約をベースとする市民社会とはほど遠く、不安(安心)ベースの世間的機制による衆人監視が作動していることにほかならない。
つまり、統治権力は市民との信頼構築を前提とせず、ひとびとの情緒(安心/不安)に訴えかけて感染症を制御しようとしてきた。
そのメカニズムは、東日本大震災のときに使われたキャッチコピー「絆」にも通ずる。
そこでは、自分とは相容れない、「絆」のない他者との相互扶助が必要とされる市民社会は想定されていない。身内の論理である「絆」を擬似的に拡張することで成立している“世間ムラ”でしかない。80年代以降は、さらにここに新自由主義的な自己責任論が吸着され、その構造は頑丈なものとなった。
「自粛要請」も、欧米には見られないこの独特のメカニズムを行政が利用したものだ。嫉妬と排斥を生じさせやすいこの機制は、統治権力の“晒し上げ”である程度上手く回ることが今回も実証された。95年に生まれた『アウトブレイク』が逆照するのは、こうしたいびつな日本社会だ。
もちろん、このような日本の現況にすべてのひとが納得しているわけでもないだろう。
たとえばこの状況で官邸が押し切ろうとしている検察庁法改正には、SNSで「#検察庁法改正案に抗議します」とのハッシュタグ付きで多くの声明が出された。「ネットデモ」とも言うべきその状況とは、“世間ムラ”に安住することを善しとしない、統治権力との信頼関係を希求するひとびとの声だ。
『アウトブレイク』のクライマックスは、実は映画としてさほどカタルシスを感じられないものかもしれない。なぜなら、最終的に大きな決断をするのは、主人公やその敵ではないからだ。勇気と知恵と機転が利く、名もなきふたりの人物だ。
しかし、彼らこそが市民である。