「僕、実は今の会社に入社するまでは、悪役俳優をしていたんですよ」
ある展示会の取材でエスカレーターに乗ろうとしていたときに、挨拶をしてくださったのが、関口敏之さんとの最初の出会いだ。
当時の私は新入社員で一回りほど年齢が下だったにもかかわらず、その後ランチや飲み会に何度も誘っていただき、右も左もわからない私を常に気に掛けてくれた。
なぜ関口さんは悪役俳優からサラリーマンの道を選んだのか――。新型コロナウイルスの影響で、大変な状況の人が多いなか、「夢が破れたとしても負けではない」と第二の人生を生きる関口さんに話を聞いた。
「劇団ひまわり」を経て映画監督の道へ
関口さんは2020年4月現在、株式会社井之上パブリックリレーションズ(以下:井之上PR)のシニアアカウントエグゼクティブとして広報PR業務をしている。
7年前までは16年間、脚本家と悪役俳優としてエンタメ業界に携わっていた。
最初のキャリアに選んだのは、「劇団ひまわり」への入団。当時は18歳で演技に強い関心があったわけではなく、自分が人を楽しませることで「社会に恩返しがしたいと思った」とふり返る。
「学生時代は喧嘩っ早くて、親や社会に何度も迷惑をかけました。思い返せば、有り余ったエネルギーをコントロールできなかったんですよね。当時、どうしようもなかった自分を近所の運送屋のお兄さんや先輩など、沢山の人が本気で叱ってくれました」
「あのとき本気でぶつかってくれた人が『社会に貢献する生き方』と、それが自分の幸せと個性を最大限に輝かせる生き方であることを教えてくれました」
入団中、映画放送部に所属し映画監督を目指していた関口さん。入団4年となる22歳のとき、映画『失楽園』や『家族ゲーム』などを手掛けた映画監督の森田芳光氏に弟子入りを志願する。
映画監督としての道を歩もうとした矢先、森田氏から言い渡されたのは悪役俳優への転身だった。
「『お前は顔が怖い』と言われ、映画監督ではなく『渡来敏之(わたらいとしゆき)』の名を与えられました。ずっと裏方でやってきたので1カ月は悩みましたね。悩んだ末に、『社会に恩返しをしたい』という思いは、悪役俳優になっても根幹がぶれないと思って転身を決意しました」
「8枚切食パン1袋」で食いつないだ時代
しかし、「悪役俳優として歩み始めた道は甘くなかった」と、少し苦笑いをしながら関口さんは話す。
当時、本業からの収入はほぼゼロ。アルバイトで10万円強稼いでいたが、家賃4万円のボロアパートに住み、電気代や光熱費以外は芝居につぎ込んでいたため、残るのはわずかだった。
「食費代がほぼ残らず、100円を握りしめ、スーパーに向かったことも覚えています。8枚切り食パン1袋を買い、2日間食いつないだこともありました。
貧乏生活を続ける中、今は有名になったエンターテイナーと生活を共にすることもあった。そのうちの一つがお笑い芸人「サンドウィッチマン」との隣人生活だ。家賃4万円のアパートを引っ越した後、隣に住んでいたのが、M1優勝前の2人だったのだ。
「洗濯機が部屋の外にある造りだったので、伊達さんとは洗濯機を回している間のお話仲間になりました。お隣さんがまさかM1で優勝するとは。最後にお会いし、記念写真を撮ったのも洗濯機の前でしたね。隣人が有名になり嬉しい思いはありつつ、悔しさや虚しさのような感情も残りました」
アルバイト募集で見つけた会社
悪役俳優の傍ら、生活費を稼ぐために飲食チェーンやポスティング、板金工事といったハードなアルバイトを多く経験した。
肉体的な負担が少ない業務を探している中で、現在働く井之上PRのアルバイト募集を見つけたという。現社長の鈴木孝徳氏と面接し、性格が明るくコミュニケーション能力がある、という理由で採用された。
アルバイトでは、主に事務作業を担当。しかし、何度もクビになりそうになったと関口さんは振り返る。
「顔がイカつかったですし、態度も相当悪かったです。業務中に昼寝したり、上司にも何度も怒られていましたね(笑)。ただ、今もそうですが会社には私のような悪ガキも受け入れる多様性と寛容さがあって、撮影で3週間いなくても受け入れてくれた」
悪役俳優と脚本家、二足のわらじ
その頃、悪役俳優として、少しずつチャンスに恵まれるようになった。
『平成ガメラシリーズ』などを手がける金子修介監督に出会い、テレ東深夜の連ドラ『ホーリーランド』のオーディションを受け、赤ツナギの八木役に抜擢。
映画『デスノート』の死神・リュークの動きであるモーションキャプチャを担当したり、映画『アウトレイジ』の大友組組員を演じたりなど、徐々に出演の幅を増やした。
また、一度は離れた脚本業も機会に恵まれて再開し、小西真奈美さん主演の『トマトのしずく』で榊英雄氏と共同脚本を手がけた。
しかし、これが最後の1本となってしまう。
2011年、東日本大震災が起きたのだ。
「映画やドラマ企画の脚本を7~8本控えていましたが、震災後にエンタメ作品はあらゆる企画が中止となったんです。当時は34歳で結婚したばかり。生活基盤を整えなければいけないと思っていたときに、人生がガラッと変わってしまいましたね」
30歳をすぎて、エンタメを諦めるまで
この15年間は何だったのか。これからどう生きたらいいのか――。
自分のやってきたことを否定されたような感覚に陥り、心が折れてしまった関口さん。そんな彼を支えたのはパートナーだった。
「『才能がない』『辞めてしまえ』と色んな人から怒られ、ある日、脚本が怖くて書けなくなりました。30を過ぎたおっさんですがPCの前で男泣きして。そんなときに、妻が『この道でもいいし、この道じゃなくてもいい。もう一度どう生きていくか、一緒に考えましょう』と言ってくれたんです」
今までは自分の信念を貫いて進むことを優先していた関口さん。この言葉で、関口さんはしがみついていたエンタメの道から離れる決心をする。家族のために生きようと、当時アルバイトだった井之上PRに頭を下げた。
こうして、関口さんはエンタメ人生に区切りをつけ、2013年に会社員になった。
当時、34歳だった関口さん。社会人として十数年働く同期も多い中、エンタメ業界から異業種の仕事に飛び込み、最初は戸惑いが大きかったという。
「社員の多くは有名大学を卒業する高学歴ばかり。一人だけバッググラウンドが異例で、最初は社内のミーティングにもついていけなかった。それでも、家族や拾ってくれた会社のために、とにかく食らいつきましたね」
仕事で見つけたエンタメとPRの共通点
まずは自分のバックグラウンドを生かし、メディア業界関係者と出会った際はコンタクトをとり、情報収集を行った。また「PRプランナー」の資格取得のため、毎朝7時半に会社近くのドトールに通い、勉強を重ねた。
入社3年目には、本格的にPR業務を担当するようになり、今では大手IT企業や外資系企業の広報PR業務、危機管理広報業務などをまかされている。
関口さんはいま、仕事に対する想いを次のように語る。
「広報PR業務は、戦略立案からコンサルティング、メディアへのフォローまで一貫してクライアントと一体となって業務を遂行していきます。訴求したいことに合わせて個別取材や記者会見をアレンジし、社会の理解が進んだときに喜びを感じ、仕事を誇りに思います」
「迷ったときはシンプルに『人を喜ばせているか』の原点を見つめ直します。人を喜ばせる、社会を元気にさせていく。そういう観点でいうと、PRも全く同じ。道は一つじゃないと気付くことができましたね」
一度は夢を諦め挫折したが、今では仕事に生きがいを覚える関口さん。第二の人生を選ぶことになった人に想いを寄せる。
「志を持って東京に来たが、夢かなわずに実家に帰って、ふさぎ込みがちになってしまう友人たちを見てきました。私自身も通った道で、気持ちは分かるのですが、自分のやってきたことを絶対に卑下してはいけないと思います」
「夢を持ってる人間は、『困難から逃げるのは悪だ』と思ってる人が多い。その結果、夢と現実の開きが出てくるにつれて他人と比較して、自分を卑下して、自分の人生に迷いが生じてしまう。でも、根底にある想いが変わらなければ、必ず社会はつながっている」
“努力が実らなかった”関口さんは、前を向いてこう語った。
「結果がうまくいかないことがある。それでも夢破れても、“人生に敗れた”わけじゃない。最終的にゴールは違ったとしても、そこに向かって歩みを進めること自体に価値があると思っています」