1974年にザ・ドリフターズに正式加入した志村けんは、76年に「東村山音頭」でブレイクする。これによって『8時だョ!全員集合』はますます子どもたちの喝采を受け、大人たちからは眉をしかめられていった。しかし、80年代に入ると『全員集合』に強力なライバルが登場する──。
強力なライバル『ひょうきん族』現る
『8時だョ!全員集合』は、志村けんのブレイクによって70年代後半を駆け抜けた。“土8戦争”とも呼ばれた、フジテレビ『欽ちゃんのドンとやってみよう!』との視聴率対決にも勝った。
変化が訪れるのは、80年代に入ってからだ。フジテレビは1981年5月から土曜夜8時に『オレたちひょうきん族』をぶつけてくる。漫才ブームで大活躍していた東西の芸人を集めた番組だ。これによって、ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、山田邦子などが大ブレイクする。
ただ、『ひょうきん族』は最初から好調だったわけではない。
81年は『全員集合』は視聴率が30~35%を維持していたのに対し、『ひょうきん族』は10%台前半をうろうろし15%を超えることをなかった。はじめて『全員集合』を上回ったのは、番組開始から1年5ヶ月が経過した82年10月9日のことだった。
『ひょうきん族』の特徴は、パロディと楽屋落ちをふんだんに盛り込んだことだ。
たとえば「タケちゃんマン」や「ひょうきんベストテン」はパロディであり、「ひょうきん懺悔室」はNGシーンのコーナーだ。横澤彪プロデューサーなどスタッフも多く出演し、女性アナウンサーにアイドル的な人気が出るようになるのも、この番組からだ。
その魅力は、“ギョーカイ”的なテレビの内輪空間にあった。パロディを理解するには他番組の知識が必要となり、スタッフの登場もテレビ業界への理解が要求される。それは、複雑なテレビ空間の読解のうえに成立するものであり、『全員集合』の単純なドタバタコメディとはかなり質が異なるものだ。
語弊を恐れずにまとめれば、『8時だョ!全員集合』はローコンテクストで“演芸的”、『オレたちひょうきん族』はハイコンテクストで“テレビ的”だったのである(※)。
『ひょうきん族』について多くを語らなかった志村けんさん
志村けんは、ライバルである『ひょうきん族』について多くを語っていない。
「当時はまだビデオデッキが普及していなかったら、観ていなかった。『全員集合』は生放送だし」と、たびたびテレビ番組で話していたと記憶する。
一方で、ビートたけしは『全員集合』についていろいろ思うところがあったようだ。
いかりや長介は、『ひょうきん族』収録中のビートたけしとばったり出会ったことがあるという。そのときたけしに「手ェ抜いて適当にやってますから」と照れくさそうに挨拶されたという(前出『だめだこりゃ』)。
つい最近、志村けんの訃報に触れたビートたけしは、以下のように語った。
ドリフはちゃんと創った、計算されたお笑い。お菓子でいえば大納言とか、ちゃんとした砂糖とあずきの味なの。『ひょうきん族』というのは、テレビの裏側まで見せる人工甘味料。
(TBS『新・情報7daysニュースキャスター』2020年4月11日)
かなり言い得て妙だが、おそらくこれは謙遜ではない。
たけし軍団を作ったときに、志村は「何をしたいの?」とたけしに聞いたという。すると「ドリフみたいにきちっと台本をつくってコントをしたい」と返したという(前出『変なおじさん【完全版】』)。
別ものの笑いであると認識しながらも、創り込んだコントを続ける志村への憧憬と尊敬の念をずっと抱いていたことをうかがわせるエピソードだ。
『全員集合』と『ひょうきん族』が本格的に視聴率で激しく争うようになるのは83年に入ってからだ。この年、両者は視聴率20%前後で推移し、『ひょうきん族』が上回ることも増えていく。この頃、20時台の前半は『全員集合』のメインコントを観て、後半は『ひょうきん族』の「タケちゃんマン」にチャンネルを替える流れもできていたという話もある。
そして84年に入ると、形勢は完全に逆転する。
ファミコン・ジャンプ・フジテレビが日本のポップカルチャーを変える
振り返ると、1983~84年は日本のポップカルチャーにとって大きな転換期だ。ファミコンが発売され、『週刊少年ジャンプ』の部数は増え続け、そして「新人類」と「おたく(オタク)」という言葉が生まれた。ファミコン・ジャンプ・フジテレビが、当時の男の子たちにとっての3点セットだった。
当時は、メディアの発達とともに、日本のポップカルチャーが爛熟期に突入し始めた頃だ。ファミコンの「裏技」とテレビのNGを楽しむ感性はとても近しい。メディアの構造自体を楽しむ、受け手の複雑な読解が成立していった。
こうして土曜の夜8時も大きく変化した。当時、小学生だった自分はこの変化をリアルタイムに経験した。視聴者としてその潮流を大いに左右した張本人だ。
結果的に、自分を含めた多くの子どもは志村けんを裏切った──。
筆者は小学2年生だった82年頃から、『ひょうきん族』を観る機会が増えていた。学校で話題となるのも、ビートたけしや明石家さんまのことばかり。『ひょうきん族』の新しいお笑いは、ドタバタコメディを貫く『全員集合』を一気に古臭いものに感じさせた。
そして1985年9月、『全員集合』は最終回を迎える。その頃、視聴率は15%前後を推移していた。
われわれは、自分たちの原風景である志村けんの死に大きなショックを受けている。と同時に、うしろめたさを抱えている。あのとき、視聴者の多くは志村けんを見捨ててしまった。ビートたけしの喩えを使えば、刺激的な人工甘味料の中毒になっていった。
その後、テレビ空間とギョーカイを徹底する『ひょうきん族』的な魅力は、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(1985年開始)や『とんねるずのみなさんのおかげです』(1988年開始)でさらに拡張されていく。
とくに、とんねるずの存在は大きかった。ネタはパロディと楽屋落ちばかり。視聴者の多くは、自分がギョーカイ人のひとりとなった気分でその世界に沈溺していった。
80年代に生まれたこうしたテレビ空間は、その後も00年代いっぱいまで30年ほど延長されていくことになる。
結果的に『ひょうきん族』にリベンジした志村さんの笑い
『全員集合』の終了後、3ヶ月のインターバルを挟んで、TBSは同じ枠で『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を始める。1986年1月のことだ。ドリフターズの人気メンバーである加藤茶と志村けんのみによる新番組だ。
メインはコントだが、人気だったのは志村が発案した「おもしろビデオコーナー」だった。ホームビデオが普及し始めていた当時、視聴者からの投稿ビデオを紹介するコーナーだ。いまでこそYouTubeによってこうした動画は珍しくはないが、当時は世界的にももっとも早く、その後外国のテレビ局に企画フォーマットが広く販売されていった。
視聴者のテレビ参加、より具体的にいえば“素人いじり”は、70年代の萩本欽一を経て、80年代には『ひょうきん族』や『元気が出るテレビ!!』、『ねるとん紅鯨団』とテレビでは一般的なものとなっていった手法だ。
一方、ドリフターズは『全員集合』でも『ドリフ大爆笑』でも手を出さなかった。にもかかわらず、志村けんは80年代のテレビ状況に積極的にアジャストしていった。
こうしたこともあり『ごきげんテレビ』は大ヒットする。一方で、ビートたけしの不祥事による出演見送りなどもあり、『ひょうきん族』の人気は低迷していく。そして1989年10月、番組に幕を下ろすこととなる。
結果的に、志村けんは『ひょうきん族』にリベンジしたことになる。しかし、本人は周囲のそうした見方にはあまり関心がなかったようだ。当時のことを志村はこう振り返っている。
マスコミは騒いだけど、実際のところ僕らはあまり視聴率競争とかには関心がなかった。同じお笑いの番組だけど、笑いのつくり方が違うだけだと思っていたから。ドリフや僕なんかのコントは、ある程度計算していろんなところに伏線をはりながら笑いを仕掛けていくけど、『ひょうきん族』はそれと違うやり方をしていたということだ。
ただ、ドリフ本来の路線を引き継いだ『加トケン』にお客さんが帰ってきたと知って、僕らのやり方は、やっぱり間違ってなかったのだと思った。
もっとも、僕は今もってそれしかできないんだけど。
(志村けん『変なおじさん【完全版】』1998→2002年/新潮文庫)
「それしかできない」とは、謙遜でもあるのだろうが、自負でもあるのだろう。
『だいじょうぶだぁ』や『バカ殿』の特番だけでなく、フジテレビでは96年から亡くなるまで深夜の30分枠でコントを続けた。文化人や俳優の道を進むこともなく、「おもしろビデオコーナー」はやっても、終生コントだけはやめなかった。まさに職人としての生き様だ。
志村けんは年を取らなかった。テレビのなかで常にコメディアンとして、さまざまなキャラクターを演じ続けた。だから、いつも当たり前のようにコントを続けていた志村が突然いなくなるなど、まるで想像できなかった。
いま感じるのは、やはりうしろめたさだ。あのとき『ひょうきん族』に心を奪われてしまった過去だけでなく、志村の存在を自明のものとしてしまっていたことについてもだ。
ああ、志村けんが死んでしまった。心のなかにぽっかり穴が空いてしまった──。
※『8時だョ!全員集合』では楽屋落ちがなかなか成立しない状況にあったが、週刊誌ネタにもなったいかりや長介のゴシップをネタにしたり、「ピッカピカの一年生」などCMをパロディにすることは見られた。