台湾生まれ台湾育ち、23歳にして日本に移住し、中国語を母語としながら第二言語である日本語で小説を創作するバイリンガル作家・李琴峰(り・ことみ)さん。
群像新人文学賞優秀作を受賞した『独り舞』、芥川賞候補にもなった『五つ数えれば三日月が』、新宿二丁目を行き交う人々を描く近著『ポラリスが降り注ぐ夜』など、李さんはデビューから一貫して、セクシュアル・マイノリティを含む多様な性の人たちが登場する小説を書いてきました。
女性、非母語話者、外国人、性的少数者など、複数のマイノリティの視点を持つ李さんから見た日本文学の課題について寄稿が届きました。
「LGBT小説だ」というラベリング
昔、小説を読んでいて、ささやかな疑問を抱いていた。日本の松浦理英子や中山可穂といい、台湾の陳雪といい、どこか「ビアン小説」「同性愛文学」と呼ばれるのを本人が嫌がっているように見えるのは何故だろう。書いている小説は女性同士の恋愛がテーマのものが多いから、胸を張って「レズビアン小説です」と言ってくれれば、当事者の読者にとってどれくらい勇気づけられることだろう。
ところが、自分がデビューしてみて、分かった気がする。結局、昔も今も、作家側が「これはレズビアン小説です」と言えるほど、文学環境(いわゆる「文壇」)はまだ健全ではないというのが主な原因ではないだろうか。
つまり、一度「LGBT小説」「同性愛文学」と表明してしまえば、読む側(文芸評論家ひいては一般読者)はそれ以外の読みを探る努力を怠ってしまいがちだからだ。文芸作品というのは書く側と読む側の協働があってはじめて完成するものだから、読む側が努力を怠れば、それだけ作品の奥行きが狭くなる。そしてそれがまさに作家の一番危惧する事態なのだ。
当たり前のことだが、私たちはある作品を指差して、「これは異性愛文学だ」「これは社会人小説だ」と言って、分かったつもりになったりしない。「日本文学なんてそんなもの」「歴史小説なんて最近書いている人が多くてもう飽きた」と十把一絡げにして語るのが乱暴なのは自明だろう。読者は「異性愛文学」を読むのではなく、それぞれの「作品」読み、その真価を見極めようと努力する。
ところが「LGBT小説」「ビアン文学」となると話は違ってくる。作品を読み解こうとする努力を怠り、「LGBT小説だ」などとラベリングを貼って、それだけで分かったつもりになるような怠惰な文芸評論家は、まだたくさんいるのだ。
「外国人が描いたLGBT小説」という乱暴な評語
私がデビューしたのは3年前、2017年である。デビュー作『独り舞』は「レズビアンがテーマなのにエロスの感じがない」(国文学者・石原千秋)と言われたことがある。芥川賞候補作『五つ数えれば三日月が』も「『外国人が描いたLGBT小説』という枠を超えられていない」(西日本新聞文化面)と言われた。
どれも勝手に「レズビアン小説」「外国人が書いたLGBT小説」なんて枠を作って、作品を中へ放り込んで閉じ込めるような乱暴な評語である。
当然ながら、どんな駄目な小説でも、まともな読者ならは「会社員が主人公なのにブラック企業の感じがない」「『日本人が書いた異性愛小説』という枠を超えられていない」などと言って一蹴しないのである。駄目出しをするにしても、もっと他に言うことはあるはずだ。
今でさえそうなのだから、松浦理英子や中山可穂がデビューしたての頃はどうなのか想像もつかない。「レズビアン文学」どころか「女流文学」で括られる時代だった。松浦理英子が芥川賞候補になった時に吉行淳之介に「天才少女のつもりはやめて」と、中山可穂が直木賞候補になった時に黒岩重吾に「男女ならもっと感動的に描けるのではないか」と言われたのは、やはり時代の制約なのではないかと想像する。
遥か前から、同性愛者やLGBTは生きていた
ビジネス誌が大きく取り上げたことがきっかけで、近年「LGBT」に対する認知度がかなり上がった。これは喜ばしいことなのだが、「一過性」「流行り」のように映ってしまう危険性もある。当然ながら、ビジネス誌が取り上げる遥か前から、同性愛者やLGBTは存在していた。大衆に認知されていないだけで、ちゃんと生きていた。生き延びようとしていた。
なまじ「LGBT」の認知度が向上したがために、それまでLGBTの存在を知らなかった人たちからすれば「流行りもの」に映ってしまうのも、ある意味仕方はないのかもしれない。そのため、標準とされる性の在り方を持たない人間を描く小説が出ると、ネットでは「流行りのLGBT」などと書き散らされる。しかしそれはつまり、私たちが生きている現状は、まだ「平等」「共生」「相互理解」といった理想とは程遠いということなのだ。
決して忘れてはならない。私たちが生きている2020年の日本は、まだ「バイバイ、ヴァンプ!」(※)のような同性愛嫌悪丸出しの映画が撮られ、劇場で公開されるような世界だ。
※編注
ヴァンパイア(吸血鬼)がとある街で住人たちを噛んで同性愛者に「目覚め」させ、占領を目論むという設定の映画。2020年2月に公開され、製作側は「自由な愛」を描いたエンターテインメント作品と説明する一方で、SNS上では差別的な表現だと多くの批判を集めた。
芸術はマイノリティとともにあるべきだ
直木賞作家・東山彰良の言葉にはかなり救われた。「あらゆる芸術はこの確固たる価値観に対する挑戦である。凝り固まった価値観の中で、つまり多数派が支配する領域では生きづらい人々が自分たちの生存場所をもぎ取るためのひとつの闘争形態、それが芸術だ」。
芸術とは元来、のけ者、少数派、マイノリティのためにあるべきものである。弱者の声を掬い上げようとする努力をせず、凝り固まった価値観に迎合するようなものは、芸術でも何でもない。LGBTが決して「一過性」でも「流行りもの」でもなく、LGBTを描く文芸作品も決して「どうせLGBT小説」などと一蹴できるものではないことを証明するために、証明し続けるために、私たちはこれからも文学や、絵画や、映画や、デモや、パレードを通して存在を主張し続けなければならない。
セクシュアル・マイノリティを描く文学作品は確かに増えてはいるが、まだまだ足りない。これからもっと書かれなければならない。
セクシュアル・マイノリティはいかに書くべきか。これは個々の作家の文学観や美意識によって違うだろうが、共通する道理というものもあるだろう。小説というのはとどのつまり、他者を扱う表現形式なのだ。その「他者」が実社会では弱者である場合、より一層気を遣わなければならない。
現実社会にあるような、必ずしも実状にそぐわない偏見や固定観念を作品世界で再生産しないというのが、倫理的な最低ラインだと思う。これは、小説は差別や偏見、あるいは背徳的な事柄を描いてはいけないという意味ではない。これらのことを描く時の作者の立ち位置が問われるのだ。
「個」を描く日本文学に足りない視点
日本文学の中でも、これまでセクシュアル・マイノリティが登場する優れた小説が数多く書かれてきた。それを踏まえてもなお物足りないと感じるのは、セクシュアル・マイノリティ当事者の等身大の実像、リアリティのある生き様を、真正面から向き合って描く作品が少ないからだろう。
ある作品はセクシュアル・マイノリティを美化し過ぎて、ある作品は当事者が直面するであろう現実の困難を敢えて避けて言及しようとせず、またある作品は当事者が抱える生きづらさや受ける差別を過度に相対化(みんな生きにくいよね、みんなどこか他人を差別するところがあるよね)してしまう。
思うに、日本文学は「個」を描くことに力を入れ過ぎている。「個」が抱える葛藤や悩み、生きづらさといったものの出自を内面へ内面へと掘り下げていき、その核にある普遍性を探求しようというのが、「私小説」の伝統だろう。それは決していけないことではないが、そんな作品ばかりで、そしてそれがあたかも規範かのようになってしまっているのは困る。
当たり前のことだが、私たちは一人では生きていけない。生きていくためには必ず他人と関わらなければならないし、必然的に政治や社会といった大きな環境の影響を受けることになる。集団主義的な傾向が強いと言われる日本社会は特にそうなのだろう。
しかし、「個」を描くことで「普遍性」を探求しようとする日本文学は、しばしば「個」や、「個」を含むコミュニティに作用する大きな力と、決して相対化してはならない「特殊性」「固有性」を見落とすきらいがある。それの行きつく先は、政治性や社会性の排除、弱者に対する差別や偏見の無化と不可視化、そして現実に対する批判性の欠如である。
一見まともに聞こえる言説に隠された欺瞞
分かりやすく言えば、「人間を愛するという意味で同性も異性も関係ない(だから同性愛を強調しないでくれ)」「異性愛も同性愛もみんな生きづらさを抱えている(だから同性愛への差別は強調しないでくれ)」「人の数だけセクシュアリティがある(だからセクシュアル・マイノリティは別に特殊ではなく、敢えて書く必要はない)」「人間はみんなマイノリティ(だからセクシュアル・マイノリティを取り上げる意味は特にない)」といった、一見まとものように聞こえるがよく考えれば欺瞞と言えなくもない言説が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するのである。
それはつまり、マイノリティが現実社会で耐えている様々な理不尽な不平等から目を背けるということでもある。文学作品は必ずしも現実社会をそのまま再生産しなければならないとは思わないが、社会から目を背けるのは決していい姿勢とは言えないのではないだろうか。
セクシュアル・マイノリティ当事者の、等身大の実像を描く努力をしていれば、そんなことにはならないはずだ。もちろん、セクシュアル・マイノリティと一口言っても、実に多様な人たちがいる。個々人のアイデンティティだって曖昧で、決して一様ではない。だから結局のところ、「カテゴリー」ではなく「個」を描くことが重要になってくるのだが、それは前述したような安易な普遍化を意味しない。
マイノリティ属性から来る苦しみや生きづらさ(その多くは社会的なもの)といった「特殊性」から目を背けないという前提で、一人ひとりの違いをしっかり見つめながら「個」を描く必要がある。その按配は極めて難しいだろうが、そこが作家の姿勢が問われるところ、そして腕の見せ所である。
新宿二丁目を舞台に、異なる女性たちを描く
2月末に私が刊行した『ポラリスが降り注ぐ夜』は、その理想形の一つである。新宿二丁目を舞台とするこの連作短編集では、国籍も、世代も、操る言葉も、セクシュアリティも、生の歴史も大いに異なるセクシュアル・マイノリティの女性たちが登場し、人生を交錯させていく。
彼女たちはマイノリティ属性から来る生きづらさを抱えて悩み、戸惑いながら、それぞれ異なる輝きを放ち、平成最後の冬を生き抜く。そこから見えてくるのは多様性、政治性、社会性、曖昧性と複雑性であり、救いのなさ、切実な生きづらさ、社会の偏見と差別、そして政治の影響もしっかりと描いている。
1987年に松浦理英子が『ナチュラル・ウーマン』を書いた時に文壇からはほぼ無視されたが、彼女自身は「間違いなく何物かである小説」と自賛したらしい。30数年経った今、彼女は間違っていなかったということが証明された。私もこの場を借りて自賛させてもらおう。『ポラリスが降り注ぐ夜』もまた、「間違いなく何物かである小説」なのだ。
李琴峰(り・ことみ)
作家・日中翻訳家。1989年台湾生まれ。台湾大学文学部卒業後、2013年来日。2015年、早稲田大学大学院修士課程修了。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』(講談社)で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』(文藝春秋)で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。自身の作品を中国語に訳したり、日台のメディアや文芸誌で執筆したりなど、言語と地域を跨がって活動している。近刊に、新宿二丁目を行き交う女たちの人生を描く『ポラリスが降り注ぐ夜』(筑摩書房)がある。個人サイト
(編集:笹川かおり)