「僕はフェミニストですが、何か?」と、てらいもなく言ってしまえる男性に対する、ネガティブな気持ちがどうしても消えない。
もちろん、「いかなる差別も許されない」という、この社会に市民として生きる者なら誰もが持っていてほしい正しさの感覚は、備えていて然るべきだ。フェミニズムに触れて、「僕たちも生きづらかった」と気が付き、内省を深めるのもいい。
だが、「女性差別に苦しめられてきた当事者」は、文字通り女性だ。男性としてこの社会で生きてきたあなたは、私たちの苦しみの何を知っているというのか。常にそういう疑念を持たざるを得ないし、事実、ちょっと油断していると「今の時代、男も女も関係ないよ」「男だってつらいんだよ」なんて論理にすり替わっていたりする。
ジェンダーについて、フェミニズムについて、男性とともに語ることは難しい。でもこの隔たりに、逃げることなく立ち向かう優しい小説に出会った。
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(河出書房新社)。本作は、男性である著者の大前粟生さんが、「女性差別に傷ついた」経験をきっかけに書いたという。
初めは少し、身構えた。でも読んでみたら、不思議に言葉がスルスルと胸に入ってきた。心が動いた理由を知りたくて、大前さんに話を聞きに行った。
「女みたいだって僕のことをいじって、同時に女子のことも馬鹿にするのは男子だった。でも僕も男子だ。女子じゃない。男子のなかで育ってきた。男子の輪から外れてしまわないよう、同じことをしてへらへらするしかなかった」
物語は、主人公の大学生・七森が、高校時代の自分をそう回想する場面から始まる。七森は、「男子の輪」に暴力的なものを感じてきたからこそ、自分自身が「男」として見られることを恐れている。周囲が無邪気に楽しむ恋愛に対しても積極的になれない。「男と女」の関係になった途端、欲望したり、欲望されたりするコミュニケーションを強いられることに耐えられないからだ。SNSで流れてきた女性差別的な広告にも嫌悪感を抱く。しかし、仲良しの女子学生・麦戸ちゃんが痴漢の現場に遭遇して傷ついてしまう場面では、「男である自分」への罪悪感に苛まれ、かけるべき言葉を見失ってしまう。
つまりこれは、「男らしくありたい」とは全く思わない青年が、「男であること」からは逃れられないゆえに何も語れなくなっていく、息の詰まるような話なのだ。
なぜ大前さんは、こんな「苦しさ」に満ちた小説を描こうと考えたのか。
執筆のきっかけは、大前さんが女性差別に関するニュースに「男性として」傷ついたという感情を、Twitterで呟いたことだった。
「自分が直接的な被害を受けていなくても、誰かが差別されたり、ひどい目にあったりしていると知ることで、自分の体調も崩れていくくらいに『つらい』という感覚があったんです。セクハラ事件など、SNSで流れてくるニュースを見ていると、男性が加害者であることが多い。僕は加害者に対して全力でむかついているし、許せない。でも一方で、その男性が育ってきたのと同じ社会で、自分も『男性として』生きてきたという事実に直面してしまう。女性を傷つけるさまざまな出来事の根っこをたどっていけば、加害者と自分に共通してしまう部分があるのだろうか。そう考えると、心が痛くて仕方なかったんです」
担当編集者の矢島緑さんは、そんな大前さんの書き込みを見て「どういう気持ちなのか、もっと知りたい」と感じたという。「フェミニズムが浸透してきて、女性たちがようやく声を上げられるようになってきたなか、ここに全身全霊で女性差別に傷ついているように見える男性がいる。そんな男性側からの語りは、表に出てきにくいものだと思いますが、だからこそ読んでみたい。そんなふうに、打ち合わせで伝えました」
七森は作中で「156センチで45キロ」と描写されているが、大前さんも、小柄で細身な体格。物腰も優しく、穏やかだ。大前さん自身、幼少期からジェンダーによる抑圧への違和感を抱いてきたという。
「幼稚園とか小学校とか、人が集まる場所に身を置いた瞬間、『男』と『女』にきっぱりと分けられる。その場で求められている役割を演じさせられてしまう。恋愛になれば、なおさら露骨です。ジェンダーだけでなく身体的特徴なども含めて、個人から特定のアイデンティティーを勝手に引き出していじるようなことが、この社会では日常的に引き起こされる。ずっと居心地の悪さがありましたね」
フェミニズムは、そんな理不尽さに怒るための言葉をくれた。しかし同時に、支配する側にある「男性」であることそれ自体からは、たとえ「有害な男らしさ」を一つひとつ脱ぎ捨てていったとしても、逃れられない。そんな「引き裂かれた自分自身」が、主人公の七森には投影されている。
大前さんがこの作品を通じて描きたかったのは、男性と女性の置かれた立場をまるでフラットであるかのように規定して「男性だってつらいのだ」と主張してみせることではない。他者の痛みに心を寄せずにはいられない、小説のタイトル通りの「やさしい」人が、自身の持つマジョリティー性に敏感になるがゆえに、自分の中に閉じこもっていくしかなくなっていくという現実だ。
「僕は20代ですが、周囲の同世代の男性と話していて少しずつ聞こえてくるようになったのは、フェミニズムに共感する気持ちがあるからこそ、僕や七森のような罪悪感を抱いてしまうという声です。そういう意味では、ある種の『あるある』を書いたことになるのかな、という気もしています。ただ、そのつらさのケアを女性に、マジョリティーがマイノリティーの側に求めるのは違うと思いますね」
私は、この丁寧に紡がれた「あるある」を、受け取ることができてよかったと思った。マイノリティーの立場に置かれた個人がその痛みを語り、連帯するために、今やインターネットは欠かせないツールになっている。けれど、一方で敵と味方をはっきりさせる「強い言葉」が注目を集め過ぎてしまうTwitterなどの空間では、複雑さを飲み込んで少し弱々しくなった言葉は、伝わりにくい。
そんな言葉は、自分の中に閉じ込めておくしかないのか。だとしたら、それはあまりに息が詰まることではないだろうか。
この小説のユニークなところは、そんな優しくなり過ぎて言葉を失いそうになる人たちに対して、「ぬいぐるみサークル」(通称「ぬいサー」)という居場所が与えられていることだ。
「ぬいサー」は、七森や麦戸ちゃんが通っている大学のサークルで、部室には幾体ものぬいぐるみが置かれている。表向きはぬいぐるみを愛好する集まりとだけ説明している。だが、実はメンバーの多くはぬいぐるみと1対1で向き合い、「人間」に向けては話すことができない心の中のわだかまりや悩みを打ち明けている。
「他者とつながらなくてもいいコミュニケーションが、自分で自分をケアすることの選択肢の一つとして、あってもいいのではないかと考えました」
大前さんは、設定の背景をそう語る。
「『ぬいサー』は、ヒトではないものに向かって語ることで、癒しを得られる場です。ぬいぐるみとしゃべる行為を通して癒されるのはなぜかといえば、それはきっと『自分は支配的なマジョリティーの立場から相手を傷つけているのではないか』という自問を引き受け続けることをいったん止められるから。安心して、気持ちを言葉にすることができるからだと思います」
作中、七森は女性差別に傷ついている麦戸ちゃんを見て、心が潰れそうになっている「男である自分」の胸の内を、ぬいぐるみに対してこんなふうに吐露する。
「(前略)……僕がしんどいことなんか、どうでもいいよね。僕は恵まれてるんだ。僕は他人からとつぜん侵害されたりしてない。僕は自分のことばで自分を傷つけてるだけ。……(中略)……僕がどれだけしんどくなっても、それでいい。僕は男。僕も、いるだけでだれかをこわがらせてしまっているのかも。このしんどさが、だれかを傷つけないことにつながるならそれがうれしい」
引き受け続けていくしかない「しんどさ」と、どう付き合っていけばいいのか。大前さんは、作品に託した思いをこう語ってくれた。
「すべての『しんどさ』が解決される必要はないのだと思います。ただ、こうして僕のように文字や文章にしたり、あるいは七森たちのようにぬいぐるみという存在に向かって語りかけたりすることで、少し楽になれるかもしれない。自分より弱い誰かにケアを強いたり、消費して安心したりしなくても、抱えている『しんどさ』を自分の体の外に出す方法はある。しのぐ方法はある。それを示したかったです」
本作には、罵ることで自分の正しさを確認するのに都合のいい「間違っている人」は出てこないし、胸の中がスッキリするようなドラマチックな起承転結もない。だけど、柔らかなぬいぐるみとの関係をクッションにしながら、やっぱり他者と共に生きていくことを手放さない登場人物たちの姿を見ていると、愛おしさと少しの希望が滲んでくる。
ぬいぐるみとしゃべる人は弱そう、と思うだろうか。そういう人にこそ、この本を読んでほしい。弱さを開くことで生まれる強さを、きっと発見できると思う。
(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko)