「『芸術文化』という目に見えない長期的な投資の下地を、豊岡は持っている」
劇作家の平田オリザさんは、兵庫県豊岡市の魅力をそう語る。
東京・目黒の「こまばアゴラ劇場」を拠点に長年に渡って活動してきた平田さん。自ら主宰する劇団「青年団」とともに2019年の秋に豊岡市に移住し、大きな話題となった。
ここ数年、城崎国際アートセンター(KIAC)の開設などとともに国内外の観光客が急増している豊岡市。
文人にも愛された城崎温泉を有する同市は、2019年9月に第ゼロ回となる「豊岡演劇祭」を開催。今春には新たな劇場のオープンが予定されており 、芸術文化の街として大きく発展させようと仕掛けている。
縁もゆかりもなかった豊岡に移住するに至った経緯や豊岡の魅力について、平田さんに聞いた。
平田さんが豊岡に移住した理由
ーー昨年秋に豊岡に移住されて、落ち着きましたか?
まだ引っ越して数ヶ月しか経っていませんが、普段も講演や演劇授業で外に出ていることが多かったので、東京に居た時とあまり変わりはないかもしれません。
けれども、やはり子育て環境としては東京よりも快適に過ごせていますね。
ーー東京出身・東京育ちの平田さんが、主宰している「青年団」ごと豊岡に移住したことは反響も大きかったと思います。移住される直前の2019年9月に第ゼロ回となる豊岡演劇祭を開催しました。劇作家の平田さんが、新しい演劇祭を企画構想する意図は?
前提として、国際演劇祭として世界中のアーティストが集まる南フランスのアヴィニョン演劇祭が有名です。正式招待作品は30〜40くらいしかなく、 他はフリンジと呼ばれる持ち込み型の企画が、お店やテラスや庭、広場や通りなど至るところで開催される約1カ月間の一大イベントです。
このフリンジ型の演劇祭は、アジアでは成功しているものはありません。アジアで、日本でこうした演劇祭を作りたいと考え、豊岡で10年かけて仕込んでいきたいと考えています。
ーーなぜ、豊岡で演劇祭なのですか?
演劇祭の成功条件は3つあります。
一つは招待演目の劇場があること。豊岡市は人口約8万人程度ですが、平成の大合併で1市5町が合併した地域に、出石(いずし)に芝居小屋や永楽館、城崎に城崎国際アートセンター、豊岡市内に豊岡市民プラザ、市民会館、そして豊岡劇場という映画館もあります。新しく江原には青年団の小劇場もできる。地域の中にこれだけの劇場や施設が豊富にあります。
二つ目は宿泊施設があること。日高町にある神鍋(かんなべ)高原は、西日本でも歴史あるスキー場があり宿泊施設が沢山あります。もちろん、城崎温泉は古くからの旅館街です。フリンジの人たちの雑魚寝からVIPが泊まる旅館まで、あらゆる人達を受け入れる施設が地域には点在しています。
三つ目はアートのネットワークがあること。これは、2014年に設立したKIACの実績で世界中のアーティストが来てくれる素地ができています。
これらの条件が整った地域であれば、国際演劇祭ができる環境は十分あると考えています。2019年は第ゼロ回の位置づけで、2020年から本格化していく予定です。
ーーKIACの芸術監督に平田さんは就任されていて、設立にも大きく関わっています。それまで、縁もゆかりも無かった豊岡に、後に移住するほどに強い関わりができたきっかけは何ですか?
とある講演会で豊岡を訪れた時に、担当者から「施設を見てください」と連れられたのが兵庫県立大会議館(当時)というコンベンションセンターでした。
城崎温泉の素敵な旅館街の町並みの奥の方にある県から払い下げられた施設で、担当者が「どうにか活用したい」と言うので、「施設として手を入れれば、どうにか頑張ればできるかも」と何気なく意見をしたんですが、それが大きな始まりとなりました……(笑)。
同時期に、豊岡市長の中貝宗治さんが「この建物を劇団とかダンスカンパニーに貸したらどうだ」と考えていたそうで、市の担当者が「劇作家の平田さんが『頑張ればできる』とおっしゃってました」と市長に意見したことから、市長が本腰を入れて施設の改修に乗り出すことになったんです。
そうした流れもあり、私は施設活用の諮問委員となったことでKIAC設立に関わるようになりました。
ーー城崎といえば、作家の志賀直哉が『城の崎にて』を書いた場所として知られ、関西では温泉と文化の街として知られています。そこにアート施設ができることの意味は?
諮問委員をきっかけに、城崎温泉の旅館オーナーなど地域の人たちとじっくり話す機会がありました。
城崎温泉は、志賀直哉だけでなく多くの文人墨客を招いて世話をする文化が街に根付いてる土地で、宿代の代わりに一筆書いたり作品を寄贈したりという文化があったそうです。そこから生まれた『城の崎にて』が、この百年近くの街の観光文化を支えてきました。
城崎の人達がかつて当たり前のようにやっていたことは、実は今で言うところの「アーティスト・イン・レジデンス」(アーティストを一定期間、地域に招聘し、芸術創造活動の環境を提供する事業)とほぼ同じなんですよ。
昔の作品制作といえば絵画や小説ばかりでしたが、21世紀になった今、小説だけじゃなくコンテンポラリーアートやダンス、これから生まれる新しいアートから、21世紀の『城の崎にて』のようなものが生まれてくるかもしれない。
そこで生まれた作品が城崎の次の100年を支える文化となり、街が元気になっていく。そんなストーリーが見えたんです。
ーー「文化で街を元気にする」というお題は、昨今地方の至るところで見受けられますが、多くの地域で苦労もしています。文化が根付いているとはいえ、アーティスト・イン・レジデンスに特化したKIACの施設運営に当初から見込みはあったのでしょうか?
いや、全然なかったですよ(笑)。ストーリーは描けても、本当に来るかな、と思ったくらいです。
豊岡は東京から距離もあるし、羽田から直通もなく、移動には少し不便です。しかし、フタを開けたら、世界中の劇団からレジデンスの募集がやってきました。
結果的に、県のコンベンションセンターだった時代には、1年間で20日程度しか使われていなかった施設が、KIACとなって初年で330日稼働したんです。今ではほぼ毎日稼働するほどです。
おかげさまで初年度から多くの問い合わせが来るようになったので、私も2015年から正式にKIACの芸術監督に就任し、しっかりと運営責任を担っています。
ーー何が要因で大きな反響につながったのでしょうか?
海外の劇団は、公演するだけなら劇場の近くのホテルに泊まればいいけど、1カ月や2カ月ほど滞在して作品制作をしようとすると、宿泊費だけで馬鹿になりません。KIACは最長3カ月の滞在期間の間「宿泊費無料」というのは大きな訴求ポイントです。
ーーレジデンスとして世界中の劇団に貸し出しをしても、市としては直接的には利益を生んでいるとは言いづらい施設でもあります。KIACも含めた文化施設の多くには公的な予算が使われていて、その運営のあり方は、時には市民からの批判の対象にもなるのではないでしょうか。
おっしゃるように、文化施設には多くの税金が使われていますので、運営や予算の根拠が求められます。施設としてただ場所貸しをしても意味はなく、きちんと文化を醸成する場所として機能させることも必要です。
そのため、文化施設が成功するには数字とストーリーの両方が必要です。
2012年に劇場法が改正され、劇場は一般の人が演劇を楽しむだけでなく、ワークショップや教育普及、創作までを行う場所として定義されました。
医療に例えるなら、病院のように病気や怪我を治すだけでなく、健康診断や新薬開発などにも注力するようなもの。総合病院のようなあり方がいまの劇場には求められるんです。
KIACでは、宿泊費は無料の代わりに、アーティストたちは市民に対して作品のゲネプロ(本番間近に本番同様に舞台上で行う最終リハーサルや通し稽古)の公開やワークショップなど、一定程度の時間を割いてもらって、アートに触れる機会を地域に還元してもらっています。
また、地元の人達の協力もあり、レジデンスで来たアーティストたちは臨時の市民扱いになります。彼らは100円で城崎温泉の外湯に入ることができるんですよ。
こうした地域をあげた取り組みを、アーティストらも粋に感じてくれて、地域に積極的に還元をしてくれます。
ーーただの施設ではなく、世界中のアーティストたちが集う、地域に開かれた劇場にしていることに意味がある、と。
そうです。少ない運営予算ながらも、世界中の劇団に口コミが広がり、今では20カ国以上の国や地域から応募が来て、年々レジデンスの倍率は高くなっています。
もちろん、KIACで生まれた作品も年々増えてきていて、国際的な賞を受賞した作品も出てきており、城崎という地域そのものをPRする力をKIACは持ちつつあります。
これらの費用対効果などをまとめながら、新たな文化創造を生み出す拠点がもたらす可能性とともに、数字の根拠と未来に向けた大きな物語を描き、きちんと市民に対して説明をしていくことが大切だと考えています。
ーーどうして、このような新しい構想を実践できたのでしょうか。
こうしたレジデンス機能を持った劇場はヨーロッパでは当たり前ですが、日本では意外とありません。日本の文化政策は周回遅れと言われることがあります。しかし、私はヨーロッパでも仕事の経験もあるしノウハウもある。
これを私は「大きな隙間」と呼んでいるんですが、遅れているからこそ、知恵を絞ってやることで世界で唯一のものができると私は考えています。
ーー2014年にオープンしてもうすぐ6年を迎えます。地元の理解はどうでしょうか?
もちろん、すべての人が大手を振って賛成していたわけではありません。最初はレジデンスの理解も少なく「また市長が変なこと考えたんだな」という声もありました。市議会でもKIACの運営に関して議論の俎上にあがることもあります。
ただ、実は「芸術文化」という目に見えない長期的な投資の下地を、豊岡は持っているんです。その一つがコウノトリの再生物語です。
日本最後の一羽が生息していた豊岡では、絶滅動物であるコウノトリの野生復帰のために、市民活動や自然再生事業に長年取り組んできて、今では100羽以上のコウノトリが生息するまでになった成功体験があります。
中長期的な視点で取り組むことによって、自分たちならではのオンリーワンな取り組みができるということを知っている地域なんです。
ーー独自の市民活動に取り組んできた経験があるんですね。
地域に芸術文化の可能性を感じてもらうため、アウトリーチ(地域への普及活動)もしっかりやっています。一つが、私の豊岡市内の小学校に対する演劇の出前授業です。
ある時、教育長が視察に来ることになり、それがきっかけで今では市内38のすべての小中学校で演劇的手法を取り入れたコミュニケーション教育が導入されました。
教育長が私の授業を見てアクティブ・ラーニングとしての可能性を見出してくれ、教育プログラムの計画立案の際には、研修プログラムの提案もさせていただきました。
短期間で市内の全ての学校に展開するスピード感も豊岡にはある、と実感しています。
ーーアートセンターの設立や教育現場の変革。お話を聞くと、豊岡はソフト面でドラスティック(抜本的)に変化しています。よくある「地方創生」の取り組みは、不動産開発やインバウンド誘致に力を入れがちですが、豊岡の人たちはこうしたソフト面など“目に見えない価値”に重きをおいているように感じます。
やはり、先ほど話にあげたコウノトリ再生の成功体験は大きいと私は感じます。コウノトリの再生という誰が見ても美しいストーリーを、豊岡はこれまで何十年と失敗を繰り返しながらも進めてきました。
それこそ、卵は生まれるが孵化しない時期が10年くらいあって、周囲からは「無理なんじゃないか?」と言われることもありました。人工孵化に着手し、そこから野生に帰るのに10年以上かかってやっと手にした成功なんです。
大きな物語とそれを実現するための地道な計画を実践していく、という一連の経験が、この街には根付いていると思います。
また、こうした精神は植村直己からも読み取ることができます。
ーー冒険家、登山家の植村直己さんですか。
※編注:世界初五大陸最高峰登頂(1970年) 単独北極圏到達(1978年) 世界初デナリ(マッキンリー)冬期単独登頂などの功績で知られる。1984年2月、冬期のデナリに単独登頂したのち帰らなかった。同年に国民栄誉賞を受賞。
植村直己といえば、豊岡出身の偉大な冒険家です。
私も10代の頃は冒険家を目指していたのですごく共感するんですが、彼の偉大で壮大なロマンと、実際に冒険をするにあたっての緻密な作業、その両方が兼ね備えられていたからこそ、世界初の五大陸最高峰登頂者になれた。この植村直己の話をすると、豊岡の人たちはみんな「そうだ!そうだ!」と納得と共感をしてくれます。
豊岡の人たちは、大きな物語を共有し、それに向かって着実に突き進むことの素晴らしさを、地域全体が共有しているんだと思います。
※後編は近日中に掲載予定です。
(取材・文:江口晋太朗 編集:笹川かおり)
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