「ほんとうの自分を生きるってどんなこと?」
吉本ばななさんと平良アイリーンさんの共著『ウニヒピリのおしゃべり』のサブタイトルにはそう書かれている。
私はほんとうの自分がわかっているのだろうか?どうしたら本当の自分が見つかるんだろうか? そんな疑問を日々抱えている人も多いだろう。私もその一人だ。
俳優の石田ゆり子さんが自身のInstagramで
原稿書きの合間に
ずっとこの本を読んでいました。
読んでいるうちに
ボロボロとなにか古いものが
剥がれ落ちていくような気持ちになりました。
ウニヒピリとは、
自分の中のうちなる子供。
みんな自分の中に
小さな子供の頃の自分が住んでいて
その子と無意識に対話しながら生きているんですよね。
わたしは、その感覚を
実は子供の頃から持っていて
吉本ばななさんがこの本でおっしゃられていること、
手に取るようにわかります。
平良アイリーンさんのお話も
ほんとうに興味深くて
結局あっという間に完読してしまいました。
そうなんだよ、そうなんですよねと
独り言をいいながら
唸りながら読みました。
いまの世の中、とくに日本は
周りに気を使いすぎて
自分の本心がわからなくなってる人が沢山いるような気がするのです。
自分に誠実であること。
自分の人生を生きること。
そのことを
深く考えさせられました。
ぜひ。(石田ゆり子さんのInstagramより抜粋)
と言及した、最新刊について吉本ばななさんにお話を聞いた。
ほんとうの自分はどうしたら見つかりますか?
――『ウニヒピリのおしゃべり ほんとうの自分を生きるってどんなこと?』はどのようなきっかけから生まれたものなのですか?
この本を一緒に作った平良アイリーンさんとは、彼女が20代前半の頃からずっと親しくしていました。アイリーンさんは1983年生まれで私とは年齢も違いますし、アメリカ育ち。古代ハワイの問題解決法「ホ・オポノポノ」をアジアを中心に広げる活動をしていたりと、これまで属していた環境や経済的な状況などまったく違う方なんです。それなのに「これは、こう思うよね」といった肝心なところがいつも一緒で。
出会った最初のころは、私の方が年上だから、アイリーンさんが合わせてくれているのだろうと思っていました。でも、どうやらそうではないようだとわかったときに、「これほど違う部分が多いのに、肝心なところで同じなのはなぜなのだろう?」というとことから、企画がはじまったんです。言ってみれば、“考え方の一族”のようなものが世の中にあるのかもしれないって。
もし、そんな“族”があるのだとしたら、そういったことについて考え詰めてきた私とアイリーンさんが対談をして本にまとめることで、誰かの役に立つかもしれないなと思ったんです。
――この本で大きなテーマになっている“ほんとうの自分”。なかなか見つけられず苦しんでいたり、ほんとうの自分を見誤って生きづらさを抱えていたりする人も多いと思います。
そんなに難しいことをする必要はなくて、「好き・嫌い」が1番のセンサーだと思っています。今の世の中では、インターネットやSNS上で「これは好き」「あれは嫌い」と簡単に発言することができます。でも、好き・嫌いを表明して終わり、という人が多いのではないでしょうか?
大抵の場合、どうして好きなのか、どうして嫌いなのかを考え、その結果を自分に役立ててはいません。考えた結果を自分に役立てれば、「ほんとうの自分」は簡単に見つけることができると思いますよ。
――「役立てる」とは、どういうことなのでしょうか? もう少し詳しくお聞かせください。
たとえば、「私は蛇は怖いから嫌いです、食べません」と言うのは簡単だし、言うだけでは誰の役にも立たないですよね。「そうなんだ、吉本さんは蛇が嫌いなんだ、それなら食べないね」で終わってしまう。
でも、そこで終わらせるのではなく、発展させるんです。別のたとえで言うと、好き・嫌いのセンサーでは、嫌いな場所にいなくてはならないような場合。「あぁ、この場所は嫌いだな」と思ってそこにいるよりも「嫌いだけれど、ここにいる」とわかっていれば、その状況をたやすく受け止められるのではないでしょうか?
365日24時間、そこにいろと言われているわけではないはずです。たとえば6時間、仕事の間、「嫌いだ」と心の中で理解しながら淡々とその場にいるのと、「嫌いだけれど、楽しまなくては、好きにならなくては」と思いながらいるのとは大きな違いですよね。
それが役立てるということだと思いますし、こういうことに意識的になっていくと、より自分の好き・嫌いがはっきりしていって、ほんとうの自分がくっきりしてくると思います。
しかも、好き・嫌いセンサーを前もって働かせていれば「蛇を食べる会は行かない、欠席」と判断できるようになるので、行かずにすむでしょう? 逆にとても親しい、もしくは尊敬する方から「一緒に行きましょう」と誘われたら、センサーが嫌いと言っていても、行かなくてはなりません。そうなったら、「どうやって断るか」が問題になるわけですが、断り方がその人の“個性”になるわけですよね。
断り方にも、ほんとうの自分が出る
――人の誘いの断り方はとても難しいと日頃から感じています。吉本さんは断わるときにこころがけていることはありますか?
経験上思うのですが、個性が出ている断り方は不思議と通じるんですよ。その人らしく断れば通じる。もちろん、ある程度ですけどね。
私は割と普段から、行けない、できない理由をしっかり説明して断るタイプなんです。「これこれこういうわけで、こういうものがあまり好きではなく」と説明することで、また誘われることもなくなりますしね。
でもなかには、当日になって急に来ない人もいるでしょう。そういう人は「あの人は、そういう人なんだな」と思われるリスクを負っているわけなので、それもひとつの個性と言えるかもしれませんね。そしてそういう人は本当に好きな会や、時間の正確さが必要な旅行などには誘われなくなる。
そういういろいろなリスクを負っていながらも、当日来ない人はその人らしく行動しているわけで、それもひとつの、ほんとうの自分を見つけることなのだと私は思っています。
――自分を見つけると言うと、たくさんの本を読んだり、様々な場所に出かけたりするほか、難しいことをしないとできないと思い込んでいました。
そういうことも、もちろん必要でしょう。でも「好き・嫌い」を考えて自分に役立てる。そんなシンプルな、誰にでもできることでも、ほんとうの自分は見つかります。
そして、仮に私の大親友が私の嫌いな蛇を食べることに興味がある人かもしれない。そういう部分は、本当に親しいから同じでもないし、違うから、その人のことが嫌いということでもありません。違う部分があったとしも、根本のところで「これはこう思うよね」というのが同じであれば、親しくなれる。私と一緒にこの本をつくったアイリーンさんのように。
――そう考えると、人間関係は根本の部分が一緒の人と付き合う方が居心地がいいですし、楽しく過ごせるので、結果として長く付き合いも続くのでしょうね。そのためにもほんとうの自分を知ることは大切だと痛感します。
その一方、ネット上などで好き・嫌いを表明することは容易になっていますが、実際の人間関係で明らかにするのは難しい風潮もあると思います。
たしかに、人間関係はほんとうの自分を知って、居心地のいい人と付き合う方が長く一緒にいられると思います。
ただ、好き・嫌いは、誰にも伝えることなく自分がわかっていればいいことなので、表明するかどうかは特に問題にはならないと思います。
たとえば手土産でお菓子をいただいて、それがあまり好きじゃないものだったとしても「私、このお菓子、嫌いで食べられないのよね」とはわざわざ言わないでしょう?
私はあまり好きじゃないのでしませんが、「黙って残す」というのもその人の個性で、ありだと思っています。そうすることで、表明しなくても「あ、あの人、あれが嫌いだったんだな」とまわりに伝わりますから。
一方で、これからの関係を考えてはっきり言う人もいると思うし、人それぞれ。角が立つかどうかも、それは相手による部分もあるから、人それぞれなんですよね。
それをどうやって判断するかも、結局のところ好き嫌いなのだと思います。
――好き・嫌いで判断したとしたら、仮に角が立ったとしても、後悔は少ないということでしょうか?
そうだと思います。それに、後になってから変な連鎖反応を起こさなくて済みますよ。仮に、嫌いなものを好きだと嘘ついて、その嫌いなものに関する会に誘われても困ってしまうでしょう? そういう人って結構いるのではないかと私は思っているんです。
そして、そういう不満や不平をネットでこぼしたりしているから、悪循環になって、自分がわからなくなっていってしまうことがすごく多いと思います。そういったことで苦しんでいる人も多いのではないでしょうか。
――吉本さんはこれまで、ほんとうの自分がわからなくなったことはありませんか?
好きかなと思って、少しやってみてやめる、合わなかったみたいなことはありますよ。ある一定の期間はやってみるけれど、やはりやめていいなと判断し、やめてということをずっとやってきたと思っています。
「生きやすさ=楽」ということではない
――吉本さんは、人と会ってすぐに「この人は、こういう人」と勘が働きますか?人間関係における試行錯誤が不要だったりするのでしょうか?
私も、試行錯誤します。だから、人間関係を作るのに時間をかけるようにしています。
ただ、「この人、どんな人かな?」と頭で考えるというよりも、“機会がある”ことが多い気がしていますね。旅行に行った先でたまたま会うとか、出かけた街でよく会うとか……。だから人間関係の半分は自分で決められないこともあるなと感じています。「この人、こういう人だから仲良くしよう、さぁしよう」というものでもないですからね。
そういう意味で、アイリーンさんも初めて会ったときは、世界が違う人だなと思いました。特に接点は見出せなかったですしね。それなのに、街でばったり、しかも何回も会ったりしたんです。そして、ばったり会ったからって、じゃあ、お茶しに行きましょうともならない。自然に仲良くなった感じがしています。
――話は変わりますが、本書のなかに書かれていた「憧れは危険」という言葉がとても気になりました。今の社会は、憧れを煽るようなもので溢れ、自分とのギャップが苦しいと言う人もいます。一方で憧れは、目標やモチベーションにもなるものです。上手に付き合えたらと思うのですが。
「何に憧れているのか」を考えてみるといいのではないでしょうか?
全体的に素敵というのではなく、持ち物の選び方だったとしたら、どういう選び方をしていることに憧れているのかを考えてみる。そうすると、ただ漠然と大きな憧れを抱くのではなくて、少し憧れがサイズダウンして、自分との比較で苦しくなることは避けられるのではないでしょうか。
――お話をお聞きしていて、1つのことを深く考えられるようになれば、楽になるとよくわかるのですが、それは訓練ですか?
訓練ですね。月日が必要だと思います。ただ頭ではなくて、体が入っていくかどうか。体の快、不快をセンサーにしてみるといいと思います。
たとえば、私は仕事がら、お洋服をいただくことも多いのですが、どうしても体が入っていかない服ってありますよ。
――生きづらいという言葉を、とてもよく聞きます。ほんとうの自分がみつかったら、生きづらさが軽減するでしょうか?
私は介護を少しだけ経験していますが、自分の好きな場所で、好きなことをしている時間に急に、介護で呼び出されることもありました。そうすると、自分がやろうと思っていなかった作業をしなくてはいけなくなるわけだけれど、それを「苦痛だ」「生きづらい」と思ったら、あまりに狭いと思います。
呼び出されて、嫌々、行ってみたら大好きなお菓子があって「おいしい!」というようなこともあるのが人生です。自分の好きなことしてたのに、好きじゃないところに呼び出されて、好きじゃない時間を過ごして「わー! 嫌だ」というだけなのは、少し違うなと思います。行ってみたら意外と楽しかったという展開、そういう単純なことで人生はできている気がしますから。
ただ、私は「生きやすさこそすべて」だと思っていますよ。
と言っても、生きやすいとは、「簡単」ということではありません。自分がこの世に「いやすい」ということであって、簡単とか楽ということではありません。
今の時代、生きづらくない人はいないと思います。自分がいやすい場所を知るにも、結局は自分を知る、自分の好き・嫌いを知るということが必要なのではないかと思います。
会社や組織はなかなか変えられなくても、近しい友人やプライベートの時間の過ごし方は変えられます。少しずつ「いやすい」場所の陣地を広げていく。そうすると楽になれるのではないでしょうか。
よしもと・ばなな
1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で第16回泉鏡花文学賞、89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で第39回芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で第2回山本周五郎賞、95年『アムリタ』で第5回紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』で第10回ドゥマゴ文学賞(安野光雅・選)を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版されており、イタリアで93年スカンノ賞、96年フェンディッシメ文学賞<Under35>、99年マスケラダルジェント賞、2011年カプリ賞を受賞している。近著に『切なくそして幸せな、タピオカの夢』『吹上奇譚 第二話 どんぶり』がある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
『ウニヒピリのおしゃべり ほんとうの自分を生きるってどんなこと?』
吉本ばなな・平良アイリーン著
講談社刊 1,800円+税