思春期の頃のぼくは、ずっと“怒り”を持て余していた。
先生に言われたことや友人とのトラブル、将来への不安など、狭い世界のなかで生まれるさまざまな日常の悩みを両親に相談したくても、うまくできなかったからだ。
自分のなかに渦巻く感情をうまく手話で表現できない。
「わかってほしい」という気持ちばかりが先行して、拙い手話を使って伝えても、彼らには半分ほども届かない。やがてそれは「両親に対する怒り」へと変容し、ぼくのなかで熱く煮えたぎっていく。
どうしてわかってくれないんだ。
やり場のない怒りを伝えるために、ぼくは聴こえない両親に怒鳴り声をあげた。ときには泣きながら物を投げつけ、ときには洋服をビリビリに引き裂くことすらあった。
それでも、決して彼らは怒らなかった。特に母はいつも穏やかで、ぼくが泣き叫び、暴れまわっても、ただ哀しそうに見つめるだけだった。
けれど、そんな母が一度だけ、“怒り”を表明したことがあった。
小学生のぼくが直面した、障害者の家族への「差別」
ぼくが小学6年生の頃。授業が終わり、ひとりで自宅に向かっていたときのことだ。
家の近所にはひとり暮らしのお婆さんがいて、ぼくは彼女ととても仲がよかった。花を育てるのが趣味で、庭にはさまざまな草花が植えられている。遊びに行くと、花に水をやりながら、ぼくに花言葉を教えてくれるような人だった。
ある日、お婆さんの家の前を通りがかったとき、お婆さんと隣に住むMさんが話し込んでいるのが目に入ってきた。なにやらお婆さんは困っている様子だ。
なにがあったんだろう。そう思っていると、ぼくに気づいたMさんが声をあげた。
「あんたが犯人でしょう」
突然、身に覚えのないことで大人に詰問され、体が動かなくなってしまう。ぼくを見るMさんはいまいましい表情を浮かべ、隣にいるお婆さんは哀しそうにしている。
どうやら、お婆さんが大切にしていた花壇が踏み荒らされてしまったらしい。地面にはグシャグシャに踏みつけられた色とりどりの花弁が散っている。
Mさんは、その犯人をぼくだと決めつけているようだった。
「ぼくじゃないです」
「そんなわけない。あんたでしょう」
「違うってば」
仲良しのお婆さんが大切にしていた花壇を荒らすわけがない。何度も説明したものの、Mさんは聞く耳を持たない。
「どうせこの子がやったんですよ」
「親が障害者だから、仕方ないかもしれないけど」
そんなことを呟きながら、お婆さんをなだめていた。
Mさんは、いつもそうだった。「障害者の子どもだから」という理由で、常に差別的なまなざしを向けてくるのだ。
Mさんにはふたりの子どもがいたが、彼らもまた、決してぼくと仲良くしようとはしなかった。近所の子どもたちと集まって遊んでいても、Mさんの子どもが来ると空気が一変する。
それまで仲良く遊んでいた子たちが、途端によそよそしくなる。そして、Mさんの子どもが「俺んちでゲームしようぜ」と言い出すと、ぼくひとりがその場に取り残されるのだ。
彼らがどうしてぼくだけをのけ者にするのか。
その理由をはっきりと耳にしたことはない。けれど、幼いながらにそれは明確だった。ぼくが障害者の子どもだから。いまとなってはわかる。その残酷な思想が、Mさんを通じて子どもたちにも浸透していたのだろう。
「ほら、早く謝りなさいよ」
Mさんにそう言われた瞬間、ぼくの心のなかで、なにかが音を立てて折れてしまった。泣いちゃいけないと思っても、次から次へと涙がこぼれてしまう。お婆さんがオロオロする様子が目に入ってくる。けれどMさんは、冷たい表情を変えない。
「ぼくが、障害者の子どもだからですか?」
堰き止められていた感情があふれ出すように、ぼくの口からどんどん言葉がこぼれていった。
「ぼくの両親が障害者だから、こうやって意地悪するんですか?」
「ぼくのお母さん、お父さんの耳が聴こえないから、ぼくはダメな子なんですか?」
「障害があるって、そんなにいけないことなんですか?」
ぼくの言葉を聞き、Mさんは顔を強張らせた。
「誰もそんなこと言ってないでしょう」
どんな言い訳をしたって、Mさんがなにを考えているのか、なにを理由にぼくを責めているのは明白だった。だからこそぼくは、ここで負けちゃいけないと思ったのだ。
障害者の子どもだからって、差別しないでほしい。
ずっとずっと言いたかった想いを、ぼくはMさんにぶつけた。
耳の聴こえない母が、初めて表明した「怒り」
30分ほど押し問答が続いただろうか。やがて、Mさんがバツの悪そうな表情を浮かべた。
視線の先を追うと、そこにはぼくの母が立っていた。どうやら近所の人が、母にこの騒ぎを報告したようだった。
母はMさんに不審な目を向けている。それもそのはず、Mさんが障害者に偏見を持っていることは母自身も気づいていた。そんな人の前で自分の息子が大泣きしているのだ。なにがあったかは一目瞭然だったのだろう。
ここで、ぼくは立ち向かうのを諦めようとした。
母から「もういいから、おうちに帰ろう」と言われるに違いないと思ったのだ。
ところが、そうではなかった。いつも穏やかで、他人に敵意を向けることのない母が、毅然とした表情で、Mさんに言ったのだ。
「わたしの耳が聴こえないから、息子をいじめるの?」
「わたしが障害者だから、あなたはいつもいじわるをするの?」
先天性の聴覚障害である母は音を知らない。だからうまく発声することができない。このときも、彼女が発した声はうまく音になっていなかった。
実際、Mさんは母の言葉をどこまで理解できただろうか。
けれど、「いじめ」という単語だけが、その場にはっきりと響いた。いつもおとなしい母に初めて反論され、Mさんが狼狽しているのがわかる。
Mさんは、ああでもないこうでもないと言い訳を並べていた。母はその様子をまっすぐ見つめる。そして、母はお婆さんに「騒がせてごめんなさい」と頭を下げ、ぼくの手を引いた。
その手はとても熱かった。
見上げた母の瞳には、怒りと哀しみが滲んでいるようだった。
それから数日後、Mさんが謝罪に来たという。それ以降、道端ですれ違うと、「こんにちは」と挨拶されるようにもなった。
ぼくはその豹変ぶりが気持ち悪かったけれど、母はうれしそうに会釈を返していた。
「分断」を埋めるために必要なのは、「許すこと」かもしれない
あれから25年。年末に帰省した際、母がMさんの近況を教えてくれた。
家族の体調や子どもたちの結婚や仕事の近況など、よくあるひとの家の話だった。でもどうして母は知っているのだろう。
「Mさんのことなんか別にどうでもいいんだけどさ、なんでそんなに詳しいの?」
すると母は、こう手を動かした。
「だって、時々、お茶してるんだもん」
なんと、いまでは同じ年齢の息子を持つ母親同士、仲良くしているのだという。これには驚きを隠せなかった。
「あのときのこと、忘れたの?」
そう問いただすぼくに、母はとぼけた様子で答える。
「いつまで昔のこと言ってんの」
正直、当時のことを思い出すといまだに“怒り”が湧いてくる。障害者に対し、偏見を隠そうともしなかったMさん。それを許すことは難しい。
けれど、母を目の前にすると、“怒り”だけでは溝を埋められないことを思い知らされる。
人は誰だって間違いを犯す。その起因となるのは「無知」であることも少なくない。それを指摘するのは“怒り”や“哀しみ”だろう。
しかし、ただ声を上げるだけでは溝が深まるだけなのかもしれない。
その先にある、人と人とのつながりを望むのであれば、きっと「許す」ことが必要なのだと思う。
いまだにぼくは怒りっぽい。“怒り”は、ぼくが書きつづける原動力でもある。
けれど、“怒り”を表明し、「許す」ことでMさんとつながった母の笑顔を見ていると、障害者のことを本当に理解してもらうために必要なことがわかる気がした。
五十嵐 大
フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。
(編集:笹川かおり)