「あれは誰?」彼は私達の前にあるテレビを指差して言った。
私は彼の声を聞いて驚いた。
「アーロン・ロジャースよ」つい熱のこもった口調で答えた私は、父と言葉を交わせることが嬉しかった。「彼はチームの司令塔だよ」
じっと見つめる彼の瞳は虚ろだった。
「ボールを投げる人だよ」
そしてまた、じっと見つめるばかり。ここ2年間、彼はずっとこの調子だ。
72歳の時、彼は認知病を伴う末期のパーキンソン病と診断された。3年もの間、誤診が続き、症状は既に進行しすぎていた。そして治療が始まってからも、決してそれは充分と言えるものではなかった。私は尚も医学の奇跡が起き、彼がまた「本来の彼」として目覚める日が来ることを願い続けている。
私は時間を見つけてはウィスコンシン州にいる彼の元を訪れている。今回、深夜便でカリフォルニアを出た私は、4時間の道中で一睡も出来なかった。飛行機の中から暗闇を見つめ、彼の健康が侵されていくことへの焦燥感の膨らみを感じていた。私は彼を知る人すべてに知って欲しい、知ってもらわなくては、と思うー。彼の容態がどれほど深刻なのか、彼が如何に”去り”、同時にここに居るのかを。彼が如何に素晴らしい思考の持ち主であるか、いや、あったかを。そして多くの人にとって、今まで出会った中で一番心の優しい人であったことを。
もしも、アメフトを思い出してくれたら
刺すような寒さの11月のある日曜日、ウィスコンシン州の空は白い雲で覆われていた。彼の暮らす施設の共有スペースで一緒にテレビを見る私たちの間には、赤い風船が浮かんでいた。「アクティビティの時間」で、周りの患者さんたちはバドミントンのラケットと風船でテニスをしているのだ。部屋にはカーペットが敷かれ、椅子と枕は厚みのある布張りになっている。この部屋、この空間は、安全性を考慮した作りになっているのだ。
施設のスタッフたちは、様々な生き物を敢えてあちこちに拵えており、檻の中で鳴くインコや水槽の中を泳ぐカメもいれば、廊下ではセラピードッグがうろうろとしている。まるでペットショップのようだ。
以前は母が父の介護をしていたが、彼が夜通し家の中を徘徊をし、階段で転び、家の外で迷子になり始めたことで、とうとう安全のために24時間体制の施設への入居が必要になってしまった。
今、彼はとても静かだ。
陽気で、かつてその背中は大きく見えた父は一家の長で大黒柱だった。そんな彼が今は車椅子に飲み込まれたように弱々しい。服はだらっと垂れ、頰は血色が悪い。日々、少しずつ彼を失っていく。もう1人で歩くことも、食事もできない。ほとんど話さず、自分が誰かも分かっていない。母によれば、もう現実と空想の区別もついていないという。
グリーン・ベイ・パッカーズのアメリカン・フットボールの試合を見ようとする私たちを風船が囲み、まるでクイズ番組で優勝したかのようだ。私はその風船を打ち飛ばした。
「プレーオフまで行けるかもね、お父さん」と声を掛ける。「今年は凄く強いの」
私を見た彼の眼差しは、まるで私の存在に今、気付いたかのようだった。
彼の手を握る。
「グリーン・ベイ・パッカーズは先攻ね」そう言ってテレビを指差すと、彼は頭を左右に振り、肩をすくめた。
私はサイドテーブルにあった雑誌の中に挟まっていた定期購買用の紙を取り出し、フィールドの絵を手短に描き、ヤードラインとエンドゾーンを書いた。すると突然、これが凄く大切なことのように思えた。もしアメフトのことを思い出してくれたら、他の記憶も還ってくるのではないかと思ったのだ。
私が好きなのはアメフトなのか、それとも父との絆を深める時間だったのか
初めて父がアメフトについて教えてくれた時のことはもう覚えていないけれど、間違いなくランボー・フィールドでの試合を何度か観戦した時だ。父の勤める法律事務所の誰かが、数試合分のフィールドど真ん中の席を譲ってくれたのだ。ブレット・ファーヴが人気を博した時代で、彼はこのおてんば娘を試合観戦に連れて行ってくれた。覚えてるのは、何が良いプレイで、何がペナルティになるのかを彼が物凄い勢いで説明してくれたことだ。
アメフトを学んだ記憶はなく、すでに身についていた感じだった。覚えているのはビールや殻入りピーナッツの匂い、氷点下の気温に小声、寒さで早く体の感覚が麻痺してくれないかと祈ったこと。父はよく腕を私の周りに回し、体を暖めてくれた。それから次の試合の一手もよく予測していた。「よく聞くんだぞ」彼はそう言うと「ファーヴは2度目のプレーでゴールを狙うぞ。守備はそれに気がついていない」と続けた。そして大抵、彼の読みは正しかった。私も父と喝采に加わり、チームへの深い愛で団結した観客たちと騒いだ。
大人になった今でもパッカーズの試合を見逃したことはなく、それは違う街に引っ越しても変わらなかった。1997年のスーパーボウル(全米の王者決定戦)で、パッカーズ対ニューイングランド・ペイトリオッツ戦が行われた時、私はボストンで大学に通っていた。ボストンはペイトリオッツが本拠地をおくマサチューセッツ州にあるので、クラスメイトの殆どはビールを飲みながら一緒にテレビを見てペイトリオッツを応援していたが、私は部屋で1人、ファーヴのユニフォームシャツを着て、テレビの前でウィスコンシン州にいる父と電話をしながら観戦をした。パッカーズが遂に勝利を納めた時、彼は泣いた。
病を患う前、パッカーズが1回のプレーで40ヤード以上獲得すると父は私に電話をして来て、2人で興奮の追体験を楽しでいた。「キッカーがブロックするところを見たか?あれが最高のチームワークってもんだぞ、キャリー」と彼は熱弁した。数年前にデトロイトで、アーロン・ロジャーが65ヤードに渡る神頼みのパスをして、それをエンドゾーンで受け取ったチームメイトがタッチダウンしてサヨナラ勝ちをした時には、私は余りの嬉しさに飛び跳ねて、ロサンゼルスの我が家の居間で大はしゃぎをした。そして呼吸が整うとすぐに、彼に電話をかけた。
彼が病を患って以来、私はアメフトそのものが好きなのか、それとも父との絆を深める時間が好きだったのか、と時々思う。今でもパッカーズの試合は必ず見ている。しかし、彼と共有できなくては、チームが勝利した時の喜びも減ってしまった。
「彼はもう還って来ない」と、心の底ではわかっている
「お父さん」
私は線を書いたカードを彼に見せた。「これがヤードラインだと思ってね」そう言って手書きのフィールドを彼に見せながら、彼がかつて私に教えてくれたことを、今度は私が彼に教えようとする。頷く彼が、私の為に理解しようと努力しているのは明白だった。
私はアメフトが大好きだ。ルールがあって、それに沿ってプレイする人たちがいる。次に何が起こるのかを予測することもでき得る。時計があって、残り時間が分かる。父の思考や記憶が、前のように回復することはもう無い。彼の病気からの回復はないのだ。
私は自分で書いた小さなフィールドを折り畳んで、ペンにキャップをした。瞬きで涙をぐっと堪えながら。それから彼の腕を持ち上げて、自分の肩に回して寄りかかり、私たちの大好きなチームが試合に負けるのを見ていた。
ハフポストUS版を翻訳、編集しました。