耳の聴こえない両親に育てられたぼくにとって、小さい頃から「聴こえない世界」はすごく身近なものだった。苦労はしたものの、手話でコミュニケーションが図れたし、両親の表情は人一倍豊かで、家庭内はいつも賑やかだった。
だからこそ、耳の聴こえない親を持つCODAのぼくからすれば、「聴こえる世界」と「聴こえない世界」の境界線は、ひどく曖昧なものだった。
ぼくは「聴こえる世界」の住人でもあると同時に、「聴こえない世界」の住人でもある。その感覚は、大人になったいまでも残っている。
たとえば、難聴の友人たちと遊んでいるときは、手話がその場での第一言語になる。そんなとき、ぼくはうっかり声を出すことを忘れてしまう。「五十嵐くん、誰よりも聴覚障害者みたいだね」といじられることもある。その瞬間、不思議と居心地のよさを感じる。
逆に、耳の聴こえる聴者と一緒にいるときにひどく疲れてしまうこともある。言葉どおり伝わらないこともある。声の高低やスピードなどによる細かなニュアンスも情報となって、こちらが意図していないコミュニケーション上の齟齬が生まれてしまうからだ。
手話だったら、もっとストレートに想いをぶつけられるのに……。
ぼくはやはり、CODAであることを実感する。
このように、ぼくは「聴こえる世界」と「聴こえない世界」を行ったり来たりしながら生きてきた。境界線は曖昧で、ふたつの世界は混ざり合っているのだ。
だからこそ、身近に聴覚障害者がいない(あるいは気づかない)環境で育った人にとって、「聴こえない世界」がどう感じられるのかが知りたいと思うようになった。
彼らが初めて「聴こえない世界」と直面したとき、一体どのような感情を覚えるのだろう、と。
そんなとき、ひとつのnoteに出会った――。
難聴の息子が生まれて見えた“世界”
それは、cakes編集長を務める大熊信さんの『愛をあるだけ、すべて』というエントリだ。
2018年10月29日に生まれた、次男のことが綴られていた。次男は、難聴という診断を受けたという。以下、「愛をあるだけ、すべて」からの一節を引用する。
“次男が先日、難聴という診断を受けた。新生児スクリーニング検査で引っかかり、大学病院で脳波を使った精密検査を受けてわかった。右耳が中等度難聴、左が高度難聴。「今後改善される可能性はありますか?」と医師に尋ねると、「まず考えられない」と答えた。眼の前が急に暗くなった。今まで、のらりくらり付き合ってきた社会という大きな塊が、急に僕たちの前に立ちふさがる。どうしたら、社会はこの子を受け入れてくれるのか?”
“その問いは、すぐに自分に跳ね返ってくる。「お前が今まで聾者にしてきたことが、この子がこれから立ち向かう社会だ」。自分の人生を振り返る。そういえば、街で聴覚障害の人を見た記憶がない。視覚障害者や、車椅子の人は見かけるのに。あ、見た目では分かりづらいのか。そんな言い訳にほっとした自分に愕然とする。つまり、ほとんど意識していなかった。”
綴られていたのは、これまでろう者のことを“意識していなかった”という大熊さんの、率直な気持ちだった。
ぼくは大熊さんの想いを読んで、涙が止まらなかった。これまで、聴こえない世界と触れ合う機会がなかったひとりの男性が、初めてその世界に直面し、親としてなにをしていくべきなのか。その感情の揺らぎが丁寧に紡がれていたからだ。
ぼくは、大熊さんに会わなければいけないと思った。ぼくには一生知ることのできない感覚を体感した大熊さんの話を聞くことで、聴者と聴覚障害者との関係が理解できるのではないかと思ったのだ。
落語やラジオが「聴こえない世界」を生きる
大熊さんに初めて会った日。ぼくは開口一番、どうしてあのエントリを書いたのかを訊いてみた。すると大熊さんは、当時を思い出すようにして、ゆっくりと話し出した。
「あの記事は、妻にも確認してもらいつつ、一気に書き上げたんです。次男が生まれて一カ月半くらいして、どうやら難聴であることがわかった。しかも、いわゆる回復はしない、現在の医療では彼が聴者のように聴こえるようにならないことが判明したんです。その瞬間の気持ちを書き留めておかなければいけないと思いました」
ただし、勢いで書いたこともあるのだろう。
“あとで調べれば調べるほど、難聴の人が音を聞き取ることの難しさがわかってくる。おそらく、「Let’s Get It On」のイントロのきらめきも、「あなたと握手」の美しいアンサンブルも、談志や志ん朝の落語も、深夜ラジオも、彼には伝えられないのだろう。”
大熊さんは聴者の目線で書いてしまったことを後悔もしていた。
音楽の素晴らしさも、落語や深夜ラジオの面白さも、難聴の次男には伝えられない。これまで聴者として生きてきた大熊さんからすれば、とても大きな哀しみだったのかもしれない。
もちろん、聴覚障害者が「音で作られるコンテンツ」を楽しむことは難しい。ぼく自身、テレビや音楽、ラジオの面白さを100%の形で知ることができない両親を見てきて、可哀想だなと思ってしまう瞬間はあった。
芸人さんのテンポのいい漫才も、心揺さぶるアーティストの歌唱も聴くことができない。それだけで、人生を損しているのではないかと、彼らを哀れんでしまうこともあった。
そんな風に聴覚障害者にある種の同情心を抱くことが、なによりも差別なのだと理解できたのは、ぼくが大人になってからだった。
けれど、大熊さんはすぐにその考えを改めた。
「音楽や落語が楽しめないことを哀しいと捉えてしまうのは、聴こえる側の思い込みですよね。その姿勢は、あまりにも聴覚障害者への想像力がなさすぎる。ぼくはこれまでの思い込みを捨てないといけないと思いました」
その柔軟な切り替えの速さは、きっと次男にとっての救いになるのではないだろうか。
「耳が聞こえない」ことは、“気づかれにくい障害”
初めて「聴こえない世界」と対峙したことで、大熊さんの視点がどう変わったのか。大熊さんは、とても冷静だった。
「最初に思ったのは、聴覚障害は非常に“気づかれにくい障害である”ということです。現実問題として、耳が聴こえないという事実は目に見えないですよね。そして、人間の感覚として、目に見えないものって、あまり認知が及ばないものだと思うんです」
「ぼく自身もそうでしたが、聴こえないってことが、あまり大したことではないとすら思っていた。どちらかというと、目が見えないことの方が大変というか」
「でも、聴こえないって、本当はとても不便なことですよね。盲ろう者だったヘレン・ケラーは、目が見えないことよりも耳が聴こえないことの方が、より『痛切』で『複雑』だと恩師への手紙に書いていたそうなんです」
「彼女が講演で人前で話す機会が多かったこともあると思いますが、視覚障害には人と物との間に壁があり、聴覚障害には人と人との間に壁ができてしまう、というニュアンスの発言だったみたいなんです。つまりコミュニケーションにおいては、聴こえないことの方が、不利が生じてしまうと」
それは幼少期のぼく自身もそうだった。聴こえない両親に対し、音声言語で想いを伝え、それが理解されないと、「なんでわかんないんだよ!」と怒りをぶつけた。そうしてコミュニケーション不全に陥り、徐々に距離が開いていった。
そう、「聴覚障害者にとって、手話が第一言語である」という事実を理解しない限り、聴者との間でコミュニケーションに難が生じてしまうのだ。
けれど、ぼくたちが生きるこの社会で、その理解はなかなか進んでいない。そんな現実に、大熊さんは聴者にできることを語ってくれた。
「聴覚障害者にとってなにが必要で、なにが必要ではないのか。大事なのは、理解をすることなんだと思うんです。相手を知ることで、コミュニケーション面での問題もカバーできるし、距離だって縮まるはず」
「だから、まずは我々が、聴覚障害のことを知らなければいけない。これはきっと聴覚障害だけに限る話ではないと思います」
福祉ツールではなく、言語として手話を学ぶ
難聴の子どもが生まれたことで、大熊さんはいま手話を習っている。
「日本の聴覚障害者の人口って、ヨーロッパの小国くらいいるんです。忘れがちだけど、年を取ると誰でもなる可能性もあって、日本はこの先過去に例のない高齢化社会が待っている」
「世界に目を向けても、聴覚障害者の人口が2050年までに9億人に達する可能性があるという発表(WHO)もある。それくらいの規模の人たちが手話を使って、言語として成立しているのであれば、もっと学術的な研究が進めばいいのに、とも思います」
「慶應義塾大学や東京大学などでは、手話を語学科目として扱っています。2020年度は早稲田大学にも新設されるそうですが、まだそういった大学は少ない。手話がもっと広まって、第二外国語、第三外国語のように学べる状況になれば、それを履修して基礎的な手話を使える聴者が増えるのに、と思います」
手話教室に通い始めたことで、手話を学ぶアプローチにも疑問を感じているという。
「いまは(手話は)福祉ツールとしての側面がどうしても強い。ぼくは自治体が主宰する手話講習会に通っているんですが、無料なんです。だから、一緒に授業を受けている人はライトな気持ちではじめた人が多い。それは素晴らしいことなんだけど、やっぱり手話通訳士育成目的の講座なので、配られたテキストの三分の一くらいは『聴覚障害とは』にページが割かれているんです」
「理解は重要です。むしろぼくは、子どものことをきっかけに聴者では知り得なかった難聴の世界を知って、とても興味深かった。でも、ライトな気持ちで来た人たちにとっては、手話を学ぶ敷居が高くなってしまうんじゃないかなぁと思うんです。『あぁ、私の考えは甘かったな……』って。そうじゃなくて、もっと手話や聴覚障害の世界を、『面白いもの』として受け止めてもらってもいいんじゃないかな、と。だって言語ってそういうものだから」
外国人と話してみたいから、といったカジュアルな理由から英語を学ぶ人は多い。手話を学ぶのも、そんな些細なきっかけでいいのかもしれない。
現状では、どうしても「聴覚障害者のために」といった福祉的な前提条件が求められてしまうように感じる。それが、手話が広がらない一因なのかもしれない。
聴こえない子どもが生まれて親が感じたこと
インタビューの後半、ぼくはどうしても訊いてみたかった質問を口にした。「難聴の子どもが生まれて、どう思ったのか」。率直に、どう思ったのだろう。
「ショックを受けなかった、とは言えないですね。遺伝性なので、ぼくたちのせいで彼に不便をかけてしまうのは申し訳ないとも思いましたし。でも……非常に言い方が難しいんですけど、ちょっと楽しいかも、とも思って。新しい経験ができるんじゃないかなって」
「それと、自分の人生において、やれることが増えたと感じたんです。年齢を重ねれば重ねるほど、できることは少なくなっていきますよね。もうプロ野球選手にもミュージシャンにもなれないし、多分総理大臣にもなれない。四十近くまで編集者なんてしていたら、もう取り返しはつきません(笑)」
「でも、そんなときに息子が生まれて、難聴がわかった。彼のためにやるべきことはたくさんある。そう、息子の難聴がわかって、自分のなかに新たな使命が生まれたような気がします」
聴こえない家族のために、自分にはやるべきことがある。大熊さんとぼくとでは立ち位置こそ違うものの、根底にある想いは同じだ。
そして、大熊さんは、聴こえない息子の第一言語を手話にすることも考えている。
「妻も手話を学んでいて、ふたりで話したんですが、息子の第一言語を手話で困らないようにしてあげたいと思っているんです。聴こえないことで傷ついたり、劣等感を抱いたりしないようにしてあげたい」
「耳が聴こえないことで苦しんで、自尊感情を失わないでほしい。ただし、起こりうる失敗や挫折は味わってもらいたい。そうすることで、きっとやさしい人間になるじゃないですか。障害があったからこそ、人にやさしくなれた。そんな風に育ってくれたらいいですね」
………
取材後、大熊さんは『「生まれつき耳が聞こえない赤ちゃんが初めてお母さんの声を聞いた瞬間が感動的」を体験してみた』というタイトルのエントリを投稿した。
そこで綴られていたのは、「聴こえることが幸せ、というのは聴者の思い込みである」という内容だった。
“今これを読んでいる聴覚障害に関わったことがないほとんどの人、1年前の僕を含む多くの人たちは、「聞こえることが幸せ」と思い込んでいないだろうか? 声が聞こえて良かったね、という誤解は、聞こえることが優位でないと出てこない。だから「声が聞こえて良かったね」は「声が聞こえないと悪いこと」となる。ここに無意識の差別性があるのではないか。聞こえないうちの次男は不幸せな子? そんなわけあるか、と思う。
聴こえることが幸せという価値観の奥底には、「聴こえないことは不幸である」という無自覚の偏見が潜んでいる。それは違う。大熊さんは、聴こえない子を持つ親として、それを痛烈に否定した。
大熊さんと話して、ぼくはひとつの希望を持つことができた。それは、「人は知ることで変われる」ということだ。聴こえない子どもが生まれ、初めてその世界と向き合った大熊さんのように、社会にはまだまだ聴こえない世界を知らない人たちが大勢いる。
けれど、その一人ひとりに、聴こえない世界を知るきっかけがあれば、きっと社会は変わっていくのではないか。「聴こえない世界」と「聴こえる世界」がつながる。それが叶ったとき、社会はより生きやすくなっていくはずだ。ぼくらCODAは、その架け橋になれるかもしれない。そう思うと、ぼくは自分が生きる意味を強く感じた。
五十嵐 大
フリーランスのライター・編集者。両親がろう者である、CODA(Children of Deaf Adults)として生まれた。
(編集:笹川かおり)
【五十嵐大さんCODA連載】