高齢者にとって心身の衰えは“失敗”なのか? 「介護予防」の予算倍増案に感じるモヤモヤ

高齢者は「元気で生きなくてはならない」というプレッシャーと戦わされている。
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政府の来年度予算案で、介護予防や自立支援に成果を上げた自治体に対する交付金が現在の2倍の400億円程度へと引き上げられることになるようです。高齢者の身体機能、認知機能の維持に向けて自治体間で競わせ、介護費の膨張を抑える狙いがあるとのこと。しかし、これは解決になっているのでしょうか? 疑問を感じずにはいられません。

どんなに機能維持のために高齢者が頑張ったとしても、いずれは介護が必要な状態になっていくものです。介護予防は充実した老後に向けて意義あることですが、それで介護ニーズが減らせるわけではないのです。結局のところ、皆さん要介護になっていきますから。 

私は、沖縄県が設置する地域包括ケアシステム推進会議において、在宅医療介護連携の部会長を担当しています。その関係で、市町村担当者の方々とお話をする機会があるのですが、「いまだ医療側との隙間が大きいなぁ」という実感があります。老衰と死は“挫折”であって、元気でなければ生きられない・・・ そんなスティグマから抜け出せてない市町村が多すぎるように感じます。

たとえば、市町村が掲げる高齢者福祉の目標を拝見していると、「高齢者が外出できる」とか、「生活の水準を維持することができる」とか、高齢者が衰えることを許さないプレッシャーのようなものを感じざるを得ません。そして、今回の政府予算案によって、さらに、その隙間を広げるかのような不安を感じてしまうのです。

そもそも、政策サイドにおいて「暮らし」という言葉が漠然と使われていることも問題です。市町村にとって「暮らし」とは何でしょうか? 「普通の生活」とは何でしょうか? 「自分らしい暮らし」とは何でしょうか? それは、歩けなくなったり、食べられなくなったりすると、続けられないものなのでしょうか?

高齢者に現状維持を期待する介護事業って、実のところ介入としては楽なんだと思います。とりあえず動ける高齢者を集めて、「これ以上、衰えたらダメですよ。暮らせなくなりますよ」って運動させる。そのことの繰り返しになってはいないでしょうか?

老人会、婦人会、自治会・・・ そこに集まる元気なお年寄りから話を聞いていると、維持することの大切さに目が行きがちです。そして、オムツを着けること、寝たきりになること、老衰で死ぬことが失敗であると考えてしまう。

でも、高齢者の暮らしを考える上で、本当にそこに照準を合わせていていいんでしょうか? 繰り返しますが、高齢者の身体機能、認知機能とは徐々に低下していくものです。ある程度、遅らせることはできるかもしれませんが、衰えゆくことは避けられません。そのことを前提として、認知症でも、寝たきりでも、経管栄養でも、自分らしく暮らせる街づくりを考えていくべきです。そのためにも、市町村の担当者は、病院や介護施設にいる高齢者の声なき声にも耳を傾けていただければと思います。

私の病院では、退院が近づくにつれて、必死で「普通の生活」に照準を合わせて頑張らされている高齢者が少なくありません。病気をすれば、入院すれば、身体機能が衰えるのは当たり前なのに、「歩けるようにならないと、家に帰ってきてもらっては困ります」、「普通食を自力で摂れないなら、自宅では無理なんです」などと家族が求めてきます。もちろん、本当に家族として困っておられるのでしょう。「普通」であることを前提とした社会だからです。

回復できる見通しがあるなら、それは必要な支援だと思います。ところが、家族から「オジイ、歩けるようにならないと家に帰れないよ〜」と明るい声で脅迫され・・・、決死の形相で歩行訓練をさせられ・・・、そして挫折感とともに行き場を失ってしまう・・・ そんな高齢者も少なくないのです。

既製品としての「暮らし」に高齢者を適応させるのではなく、高齢者の機能に応じた「暮らし」があってしかるべきです。とはいえ、自宅での暮らしに多様性を与えるには限界がありますね。家族にできることにだって限界があります。高齢者も自宅や家族にしがみつかないこと。それは理解してください。 

これから市町村が取り組むべきは、高齢者施設を含めた暮らしの選択肢を幅広くもたせ、それぞれを豊かにするような地域包括ケアを構築することです。介護を要する高齢者に合わせた街づくりを実現することこそが、結果的には個別の介護費を軽減させることにも繋がっていくはずですから。

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