全盲にもかかわらず、年に何十回も美術館に通う人がいる。白鳥建二さん、50歳。
「生まれつき弱視で、10歳になる頃には完全に視力を失いました。小さい頃もほとんど見えていなかったので、絵本や漫画を見た記憶はありません。『色』は、概念的に理解しているだけ」
そう語る白鳥さんが美術館を訪れる理由は、「楽しいから」。好んでよく見るジャンルは、「難しい」とも評される現代美術である。
対話によって作品を「見る」
私が白鳥さんの存在を知ったのは、半年ほど前のことだ。美術館に勤める友人が発した、「白鳥さんと展示を見ると楽しいよ」という言葉につられ、一緒にフィリップス・コレクション展(三菱一号館美術館)に出かけた。
目が見えない人が、どうやって作品を見るのだろう?
そんな疑問の答えとして最初に思いつくことは、もちろん作品に触ることだが、多くの美術作品には触ることはできないはずだ。
蓋を開けてみると、白鳥さんは、晴眼者、つまり「見える人」との対話を通じて、作品を見るのだという。
こう聞くと、なるほど、晴眼者に助けてもらうのか、と感じる人もいるかもしれない(私もそのひとりだった)。しかし、そこには「助ける」「助けられる」という関係で完結しない面白みがあるのだ。
というわけで、美術鑑賞と出会って「人生が変わった」という白鳥建二さんの半生を追いながら、アートから生まれる豊かなコミュニケーションについて考えてみたい。
見えない人は苦労する?
白鳥さんのご両親はふたりとも晴眼者で、親類一円を見回しても視覚障害者はいなかった。そのため、家族には「障害者は苦労するに違いない」という漠然としたイメージがあり、特に祖母は繰り返しこう白鳥さんを諭した。
「ケンちゃんは目が見えないんだから、人の何倍も努力しないといけないんだよ。助けてもらったらありがとうと言うんだよ」
それを聞いた白鳥少年は、じゃあ、目が見える人は努力しなくていいの? そんなのずるい! と感じた。
「そもそも自分には、“見えない”という状態こそが普通で、“見える”という状態がなんなのかが分からない。だから『見えない人は苦労する』と言われても、その意味が分からなかった」
白鳥さんは、歩く、食べる、お風呂に入る、などの日常生活にほとんど不自由を感じていなかった。しかし周囲の大人からは、「そんなことをしては危ないよ」「見えなくて大変だね」と言われ続ける。そこにはただ違和感があったという。
幼少の頃はいくらかあった視力は時とともに弱まり、小学校3年生で県立盲学校に転校した。
「いずれそうなるだろうと分かっていたので、ああ、やっぱりなあという感じで、特にがっかりもしなかった」
自宅から盲学校は距離があったため、寮に入ることになり、家族と離れての暮らしが始まった。学校や寮では、通常カリキュラムのほか、点字学習などもあり、また白杖を使った歩行訓練、そして掃除や洗濯などの日常生活の動作など、視覚障害者が独り立ちするためのスキルも習得した。
特に好きだったのは図工の授業で、先生は陶芸技法で多様な美術作品を生み出す西村陽平さんだった。
「授業では、テーマだけが与えられて、なにを作ろうと自由でした。手さえ動かしていればおしゃべりをするのも自由でした」
どこか窮屈な集団生活のなかで、自由なものづくりの楽しさを味わっていた。
盲人らしさってなんだろう?
小学校高学年になると、白杖を使って街なかを歩けるようになり、中学生になると商店で買い物ができるようにになった。高校生になると、各駅停車の電車に乗り、人々の声に耳をすませた。
「各駅停車だと乗客がどんどん入れ替わって、いろんな話が聞けて楽しいんです。見える人たちがカフェとかで人間ウォッチングするのに似てるかな」
そうして世界が少し広がるたびに、小さい頃から感じてきた“障害者のあるべき姿”に対する疑問は大きくなった。
「学校で教わったのは、障害があるからこそまじめに努力しないといけない、ということでした。たぶん先生たちの中でも『障害者は弱者、健常者は強者』で、欠如部分があるならばそれを補って、できるだけ健常者に近づくべき、という先入観があったのだと思います」
ただ、当時の白鳥さんには、その違和感を表現する術がなかった。
「いろんな思いがあったんだけど、人前で話すのは苦手で、自分の中で思いを溜めこんでいました。いま振り返ると、小さい頃からいろんな形で『お前はダメだ』と言われ続けて、自分に自信がなくなってしまったんですね」
転機となった「ダビンチ展」
高等部を卒業したあとは、盲学校の職業過程(3年間)に進学、マッサージ師の国家資格を取得した。
「特にマッサージ師になりたかったわけではないんだけど、あの頃は、盲人はマッサージ師が鍼灸師になるのが当たり前。周囲にも、少なくとも資格はとっておいた方がいいと勧められて、取りました」
しかし、卒業を前に白鳥さんは悩んでいた。
このまま、盲学校以外の社会をほとんど知らないままマッサージ師になってよいのだろうか?
そして、日本福祉大学(愛知県)への進学を決意。大学に合格すると、住みなれた故郷を離れ、名古屋で一人暮らしを始めた。
そんな白鳥さんに、気になる女性が現れた。大学で一つ上の学年に在籍するSさん、彼女は“見える人”だった。
「彼女は感覚がいいというか、一緒にいてもとても自然で。例えば一緒に喫茶店行ったりするとするでしょ。そのとき、メニューを読み上げるんじゃなくて、さらっと『これがおすすめみたいだよ』言ってくれたり、それがよかった」
そんな彼女が、ある日美術館に行きたいと言い出した。
美術館? デートにいいじゃないか!
それまで美術館には行ったことがなかった白鳥さんだが、「じゃあ、俺も行くよ」と提案。すると、彼女も「そうしよう」と喜んだ。
これが人生の大きな転機になるなど知る由もなく、二人は美術館に向かった。見たのは、レオナルド・ダ・ビンチの解剖図展。Sさんは「こんなものが見えて、面白いよ」と作品やその印象を説明。マッサージ師の資格を持つ白鳥さんにも興味深く、二人は作品を通じて様々な会話を楽しんだ。
「展示内容というよりも、美術館の静かな雰囲気も含めて、なにもかもにワクワクしちゃって。いま思うとデートの楽しさと美術館の楽しさが一緒になって、勘違いしちゃったのかもしれないけど!」
自分には縁がないと思い込んでいた美術館。しかし、もしかしたら自分にも楽しめる場所なのかもしれないという予感を覚えた。
「全盲の自分が美術鑑賞をする意味とかは分からなかった。ただ、なんか盲人っぽくないことをするのは面白いな! と感じました。でも、せっかくトライするなら、友人に頼るのではなく、自分一人でやらないと思いました」
一人で美術館に電話をかけ続けた
それからは、自ら電話を手に取り、美術館に電話をかけ続けた。
「自分は全盲だけど、展覧会を鑑賞したい。誰かにアテンドしてもらいながら、作品の印象などを言葉で教えて欲しい」と頼んだ。それは、美術館という“見える人々”が中心となる世界のドアを、一人の盲人がトントンとノックした瞬間だった。
しかし、電話の相手は戸惑った様子で、「そういったサービスはしていないんです」と答えるばかり。あっという間に閉まりかけたドアを前に、白鳥さんはめげなかった。
「長年“障害者”をやっている自分には、そんな対応は折り込み済みでした。だから、『そこをなんとかお願いします』と頼むわけ。すると、『電話を折り返します』という展開になって、最後には『じゃあどうぞ』ということになりました」
最初に門戸を開いたのは名古屋市美術館。美術館スタッフのアテンドにより、「ゴッホ展」の作品を三時間かけて巡った。
鑑賞が終わったとき、予想外のできごとが起こった。アテンドした人が、「ありがとうございました」と白鳥さんにお礼を言ったのだ。
「びっくりしたよね。どうしてお礼を言われるんだろう? お礼を言うのはこっちなのに」
その人は、こう続けた。
「いままでこんなにじっくり作品を見る機会はなかったから、とても楽しかったです、ありがとうございました」
そのとき実は相手も一緒に楽しんでいたんだと気がついた。
見えている人も実は見えてない?
こうして、白鳥さんはいくつもの美術館を訪ね歩くようになった。大半の美術館にとって、白鳥さんのような視覚障害者の出現は想定外だったため、その都度、趣旨や希望を説明し、理解してもらう必要があった。そんな美術館の対応も含めて、白鳥さんにとっては新鮮な経験だった。
「今までで二十ほどの美術館に電話をかけましたが、完全に断られたのは1館だけ」というので、確率としては全く悪くない。
そして、「見える人と作品を見る」という行為を通じて、「見える」と「見えない」の間にある壁も少しずつ取りはらわれていった。そのきっかけになったのは、名古屋の松坂屋美術館で経験したあるできごとだった。
その日の展示は印象派の作品で、アテンドしてくれたのは美術館スタッフ。一枚の絵を前に、「湖があります」と説明を始めた。しかし、そのあとに「あれっ!」と声をあげ、「すみません、黄色い点々があるので、湖ではなく原っぱでした」と訂正した。その男性は何度となくその作品を見ていたはずなのに、ずっと湖だと思いこんでいた、と驚いた様子だった。
当の白鳥さんは、仰天した。
「ええ!? 湖と原っぱって全く違うものじゃないのって。それまで“見える人”はなんでも全てがちゃんと見えているって思っていたんだけど、“見える人”も実はそんなにちゃんと見えてはいないんだ! と気がつきました。そうしたら、色々なことが、とても気楽になりました」
実際に、私たち晴眼者が視覚障害者と一緒に作品鑑賞をすると、上記のような勘違いにたびたび気づかされる。普段私たちは、膨大な視覚情報にさらされているなかで、必要なものだけを無意識に取捨選択している。美術鑑賞においても同様で、作品を見ているつもりでも、実は見えていないものの方が圧倒的に多いのだ。
しかし、見えない人が隣にいるとき、普段の取捨選択のセンサーがオフになり、丁寧に作品を観察し、咀嚼し、言葉で再構築しようと試みる。そのなかで、「今まで見えなかったものが急に見えた」というユニークな体験が起こる。それこそが、見える人と見えない人が一緒に鑑賞するひとつの醍醐味だ。その瞬間に私たちは、「見える」「見えない」、「助けてあげる」「助けてもらう」、という固定された二項関係を超えていくのだ。
視覚障害者との鑑賞の全国的な広がり
誤解のないように付記するならば、それまでも一部の美術館やギャラリーでは、視覚障害者のための鑑賞ツール(作品の立体コピーや触察ツール)を開発し、作品に触れることができる展覧会を企画するなどして、視覚障害者とアートを繋げる試みが行われてきた。
しかし、ここにきて白鳥さんの体験が明らかにしたのは、(一部の)視覚障害者は“言葉”を通じてもアートを楽しめる、という点だった。さらに、見える人にとっても、それは楽しく有意義な時間であることも。
こうして、もともとは白鳥さんが小さく始めたアクションは、障害がある人もない人も一緒に鑑賞するワークショップやツアーに繋がっていくことになる。
1999年、障害者の芸術文化活動を促進するNPO「エイブル・アート・ジャパン」が、ある展示の関連企画として視覚障害者のための作品鑑賞ワークショップを開催。そのなかで白鳥さんは、勇気を出して人前に立ち、自身の体験や思いを言葉にした。
「人前で話すのは苦手だったから気がすすまなかったんだけど、周囲の勧めもあり、勇気を出して話しました。でも、その日の様子に関してはあまり覚えてないんです。俺もかなり緊張していて!」
記録によれば、その日は多数の視覚障害者が鑑賞に参加。中途失明者からは、「美術館に来ることを諦めていたけど、久しぶりに来れてよかった」というという声もあがった。
その後、その展覧会の参加者やスタッフを中心に、Museum Approach and Releasing (MAR)という団体が発足し、障害がある人もない人も一緒に作品を見る「視覚障害者との鑑賞ツアー」が全国の美術館に広がっていった。
筋書き無用のライブ感とは
こうして、「視覚障害者との鑑賞ツアー」が社会的なアクションとして広がる一方で、白鳥さんは個人的な美術館訪問も続けた。
なかでも足繁く通ったのは、水戸芸術館現代美術ギャラリー(以下、水戸芸術館)である。そこでも「視覚に障害がある人との鑑賞ツアー『セッション!』」が立ち上がり、人気ツアーとなる。毎回ナビゲーターをつとめるのは2008年から水戸に居を移した白鳥さんである。
この『セッション!』の様子は、伊藤亜紗さんのロングセラー『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)にも描かれ、「筋書き無用のライブ感に満ちた」「見える人にも新しい美術鑑賞」と評価されている。
また、こういった動きと並行するように、2012年には、「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」(任意団体)も誕生し、現在までに全国の美術館で200回近いワークショップが行われている。
代表の林建太さんいわく、ワークショップから生まれるのは「視覚覚障害者のサポートが主体になるような上下関係ではない。生まれるのは、小さな規模で個人的な経験を語る場」だと話す。
そんな「筋書き無用のライブ感」「個人的な経験を語る場」とは、いかなるものなのか。気になる方はぜひ自身でも体験してみてもらえればと思う。
(編集:榊原すずみ @_suzumi_s)
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