あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」には少女像など、過去に公的な美術館に展示されて撤去された作品を展示していた。今回も抗議が殺到し、あくまでも「安全上の問題」を考慮して3日で中止された。表現の自由については、アメリカでも様々な形で取り沙汰されている。私は日本の法律は専門外であるから、あくまで米国の弁護士として「表現の自由」についてこれを機会に2つの視点から考えてみたい。
「感情」と「権利」は別物である
様々な視点も意見もあるだろうから、今回は作品展示を中止したという行為に限って考える。まず一つ目の視点は、展示の中止に当たって「表現する側の自由を尊重したことを示せたかどうか」だ。
大きく飛躍した例かもしれないが、トランプ大統領のツイートについて、皆さんはどう感じているだろうか。私はアメリカ国民の一人として正直に言えば、気持ちのいいものではないし、国家の代表として品格を保ってほしいと思う。しかし、彼個人にも権利として表現の自由は認められている。どんなに彼の意見に異論があろうが、彼の権利は尊重しなければならない。今回のあいちトリエンナーレも権利と感情は別物であると痛感する例である。受け取り手の一部が好ましくないと感じても、表現の自由について権利を行使した側の権利も尊重しなくてはならないのだから。
繊細かつ複雑な問題だからこそ、争点は明確に
二つ目の視点の前提として、まずは「表現の不自由展」などの一連の展示を含むあいちトリエンナーレには、公的資金が投入されていたことを踏まえておきたい。
この前提を踏まえ、菅義偉官房長官が会見で、「補助金交付の決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と述べるなど行政が、「表現の不自由展」をめぐり様々な議論がされている中で「特定の思想」を支持したようにも解釈できる可能性を私は二つ目の視点として挙げたい。
今回の事例と問題の複雑さという意味では、重なるところがあるので、米国の憲法で保障されている「宗教の自由」を例に出して考えてみたい。法律の詳細は避け、できるだけわかりやすく書いてみる。
米国政府は「宗教の自由」という考えの下、特定の宗教を支持することが許されない。
例えば米国では、「公共施設におけるクリスマス時期の展示」が多く争われている。
1984年のロードアイランド州の訴訟では、「公的施設に他の宗教的な展示とともにキリスト教の展示をすることは国家が特定の宗教を過度に支持しているとは言えない」という判決を下した。
また、1989 年、連邦最高裁は「公的機関による宗教的展示について」の憲法判断を下している。郡庁舎内の特定の宗教的展示物と、市と郡の合同庁舎玄関口に設置した二つの宗教的展示物の合憲性が争われた事件である。最高裁の判断は、「行政側が特定の宗教を不適切に支持する行為である」とした。
さらに、2005年、最高裁は公共施設に展示された宗教的展示物について争われた2つの事件について判断を下している。各判決とも9人の判事の審査基準が一致せず意見が5対4と分かれた。しかも、ひとつは違憲、もうひとつは合憲と下されている。
このように、宗教の自由は非常に解釈が難しく、繊細な問題である。米国政府は特定の宗教を支持することなく、中立であるべきなのだが、永遠のテーマとも言えるかもしれない。
そして、あいちトリエンナーレで議論になっている表現の自由も、アメリカにおける宗教の自由と同様に複雑かつ繊細だ。判断が分かれる部分も大きいだろう。
繰り返しになるが、米国の法律に照らせばアーティストが表現することは自由であるし、認められなければならない。しかし、それが公金の援助を受けていると考えられるのであればそれはまた違う解釈を生むきっかけにもなる。公的資金を使うこと=政府(国)の意見を反映していると捉えられてしまう可能性がある問題と、表現の自由を守ることは分けて考えなくてはならない。
表現の自由を守りながら、平等を保つには
一方で、こんなことも考えた。
政府がアーティストの表現する場を提供することは、悪いこととは限らない。むしろ、優れた芸術活動は積極的に援助してほしい。
前述の見解とは相反するので、複雑な表現に聞こえてしまうかもしれないが、行政など公的機関主催のエキシビションにおいては、表現の自由を守ることにこだわりすぎるがあまり、かえって表現を規制することになりかねないケースも起こり得る。
そうすると、どんな結果を招くか。アーティストのみならず、解釈する側のことも鑑み全方位的に配慮することによって、テーマがあいまいになり、作品の面白みを欠く可能性が出てくるだろう。
表現の自由を守りつつ、平等を保つ。言葉にすると非常にシンプルではあるが、それを実現するための答えは、さまざな国においても、未だ定まらないのが現実である。グローバル化が加速し、多様性が重視される昨今。感情と権利などの様々な問題を丁寧に繊細に扱うことが重要だ。弁護士としてのバランス感覚もさらに鍛えていきたいと再認識した。
(編集:榊原すずみ @_suzumi_s)