『表現の不自由展』アートの専門家は?「政治家による批判、職責超えている」。一方で「議論に接続する仕掛け必要だった」

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展の一つ「表現の不自由展・その後」に抗議が殺到し、3日目で中止になる事態に。アート界の専門家はどう見たのか。
時事通信社

愛知県で開催されている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展の一つ「表現の不自由展・その後」に抗議が殺到、脅迫も受けて開催からわずか3日目となる8月3日で展示が中止されることになった。

この騒動を、アートの専門家はどう見たのか。芸術学が専門で、現代アートと表現の自由の問題についても造詣が深い千葉大学・神野真吾准教授は政治家による作品批判は職責を超えているとし「展示は継続されるべきだった」とした。

一方で、芸術監督を務めたジャーナリスト・津田大介さんらの対応については、議論へと接続する仕掛けがなかった点などが「あまりにも軽率だったのでは」とも批判する。

殺到した抗議は慰安婦をテーマにした「平和の少女像」などの展示に対して行われ、脅迫行為もあったという。津田さんは同日夕方に記者会見を開き、「物議をあえて醸すことに意味がある」と考えて展示を行ったが、抗議が想定以上の規模になったことで安全な運営ができなくなったことなどが理由だと話した。

主催者側は、「現場で鑑賞した人に判断してほしい」との意図で来場者のSNS投稿を禁止にするなどの措置をしてはいたが、内覧会に参加したメディアが発信した情報がネット上には掲載されており、そこからリアルな抗議行動へとつながった。

津田さんは、「『電凸』(電話による集団での抗議)で文化事業を潰すことができる成功体験、悪しき事例を作ってしまった」と、後悔と反省を述べた。

 

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――「表現の自由」について考えようとした企画でした。しかし、会期が始まると批判が殺到。さらに菅義偉官房長官や、河村たかし・名古屋市長らも、この展示について批判し、抗議が加速することになりました。

(企画を実施することを決断した主催者側の)大村秀章・愛知知事を始め、ある程度は機能していたのだろうとは想像します。

ただし、名古屋市長などの政治家が一意見としてならともかく、その是非について影響力を行使するのは許されないと思います。

バンクシーがニューヨークに行くことが明かされた時、当時のブルームバーグ市長が、その質的な面に言及しつつ、彼の行為を阻止するというようなことを発言しました。その際、メディアも含め、政治家が政治家として作品の質的評価をすることについて多くの市民から猛烈に批判がされました。

行政の責任者としてという範囲に限定されるならともかく、それを超えて作品の是非に言及するのは政治家の職責を超えていると思います。

その点でも、展示の撤去は大きな禍根を残します。その議論がなされないと、表現の不自由を問う展覧会が、却って不自由を常態化させてしまいかねません。

ーー結果的に行政の介入を招き「言論の不自由」が加速してしまった。主催者側は謝罪しましたが、その実施方法などについてはどう考えますか?

私自身はまだ展示を見ていなかったのですが、展示は継続されるべきという立場です。
ただし、津田さんらの「物議を醸す」という言葉の意味が問われるのだと思います。現今の朝鮮半島と日本との関係を考えれば、「少女像」がアートの文脈ではなく政治の文脈で取り扱われることは誰でも想像できることです。それを踏まえた上での「物議の醸し方」でないのなら、主催者側はあまりにも浅はかではなかったか。

――日本の政府や社会に批判や疑問を投げかける展示を「税金で行うべきではない」という抗議もあります。

私は公的な資金で行われるのにふさわしくないとは思いません。現政権に批判的な人たちに対して「反日め!」と非難する人たちには、自分たちの考えることだけが正義という態度が見えますが、国を憂いて批判する者もまた国を愛する者であり、その立場の違いの中から現実社会のあり方を論じていくしかないはずです。

反日を叫ぶ人たちには、他者の価値を認めない不寛容さがあると言えますが、現代のアートにおいて、その社会的価値は寛容性を醸成することに重きが置かれています。

東京オリンピックが範としたロンドンオリンピックのカルチュラル・オリンピアードはまさにその寛容性をアートを通じて育み、多様性を尊重し多文化共生に向き合うというものだったと思います。東京オリンピックでも、東京大会を契機に人権尊重都市・東京を目指し、基本理念の一つに「多様性を尊重し、そこから生じる様々な違いに寛容な東京」を挙げています。

ロンドン五輪前のカルチュラル・オリンピアードの一幕
ロンドン五輪前のカルチュラル・オリンピアードの一幕
Jenny Matthews via Getty Images

アメリカの美術館「Crystal Bridges Museum of American Art」で行われた調査では、子供たちが美術館のアートに触れることで「寛容性」を伸ばすことができるとされています。


その能力を評価する指標としては、
(1)自分の見方に同意しない人にイライラするか。
(2)アメリカに批判的な作品を制作するアーティストの作品を美術館に展示すべきでないと思うか。
(3)自分の考え方と違う考えを聞くことをありがたいことと思うか。
(4)人は、同じものについて違う意見を持つべきだと思うか。
といったことが判断基準にされています。

作品鑑賞を通して、同じものを見ていたとしても意見が異なる他者の意見があることを知り、そのことで自分の捉え方が変化する、他者を受け入れるということが起こるわけです。

――主催者側も、こうした様々な意見があるテーマを提示することによって、「表現の自由」について考えてもらう、議論を深めるというのが本来の狙いだったようですが。

立場の違いを包含する物議をかもす作品には、価値があるはずなのです。ただし、それにはその作品をめぐる議論が、対話が必須なはずです。

今回の対応は不寛容な態度に完全に屈したことになるわけです。それはいちディレクターの敗北に留まらず、日本におけるアートの社会的価値に蓋をすることに加担したことにもなります。

そんな状況で、アートを観光や経済発展に活用する議論が政府を中心に行われ、リーディング・ミュージアムなるものが構想されている実情が、全く根拠を欠いた虚しいものになることは目に見えています。そこからは新しいものなんて何も生まれないでしょう。

そうした議論へと接続するための戦略的な仕掛けがなかったことに、正直がっかりしており、また、驚いてもいます。開催に向けた細やかな対応に比して、その思いは一層募ります。

――最終的に中止の決め手となったのは「安全な鑑賞環境を守れるかどうか」だったようです。警備などの安全対策が不十分だったといえるでしょうか?また、安全を理由に中止した判断は妥当でしょうか?

安全対策が必要ないことが最も好ましいことではありますが、そのために、無難な何の問いかけもない作品ばかりになったら、それこそ公益性がどこにあるのかがわからなくなると思います。

芸術祭が感覚的な快のためだけにあるのなら、それは現代アートである必要はないし、それこそ民間が提供できることではないでしょうか。行政がやるべきことは、放っておいたら民間では誰もしないが、社会的には必要だということのはず。

そうした意味で、「物議をかもす作品」が、その物議の後に、より高次の視点を共有できるように持っていくことがだいじなはずです。

そのために必要なのは、専門的な領域に自律性を与え、外部が口を出すことを基本封じることだと思います。もちろん何らかのチェック機能は必要で、開催を決断したという大村知事を始めとして、ある程度は機能していたのだろうことは想像します。

そもそも、ガソリンを撒くことをほのめかすような脅迫に屈することは社会的に正しいことではないはずです。暴力で物事に影響を与えようとするのは、テロであり、それは警察行政によって対処されるべきもののはず。テロリストを基準に社会を構想すべきではないのはいうまでもないはずです。

――津田大介さんには、作家側からの批判も寄せられているようです。「作家を守るのが監督の役割だったのでは」と。

蛮勇は、陣地を後退させるというのが私の持論です。見え方として華々しく散るということは、ナルシスティックな美と言えるかもしれませんが、それが故に規制が強化していくことがあるとするなら、強く諌められるべきものだと思います。

我々がやるべきなのは、多様な立場の人たちが、多様な意見を開陳しつつ、それに触れ、我々が立つ地点を更新していくことだと思います。

津田さんは、作家のジェンダーバランスを均等にするという良い取り組みを今回の展示で実践しました。津田さんたちの取り組みも、愛知県でも進めている人権政策へのアプローチの一つであり、県の立場と何ら齟齬をきたすものでもないはずです。

そう考えるなら、撤去はすべきではないし、その後の議論までちゃんと構想しておくべきことだったと強く思います。

このままで終われば、まさに蛮勇で、陣地が大幅に後退してしまうはずです。表現の自由をめぐる昨今の状況を鑑みるなら、それは大変に残念であり恐ろしいことでもあります。 そしてそれは結局のところ、芸術祭の中核であるアーティストたちへの裏切りにもなってしまいます。

――展示しているアーティストへの「裏切り」ですか。

あるアーティストとこういう話をしました。「あれ引っ込めちゃったら、残りの展示が許されてるアーティストって無難な人たちですよ、と言われてることにもなるよね」と。

そうなれば、この作品群はいったい何なのか?というところまで行ってしまうかもしれない。一作品の問題ではなく、全体の問題までも含んでいるはずです。

見通しの甘さとして挙げるべきは、作品の選択についてもあります。私は展示することは支持しますが、「少女像」の作品を優れているとは思いません。つまり、造形的な点での優れた点は見いだすことが私にはできない。

ただし、あの作品が帯びている意味はとても強い。つまり、あの作品を展示する選択をした時点で、政治的イシューとして扱われるのは不可避だったはずです。意図と異なる捉えられ方をしたというふうに説明したとしても、あまり共感をすることができません。

また問題の一つに、過去に行われた展示を持ってくるというやり方もあったかもしれません。2015年の「表現の不自由」展が開催された際、その展示の置かれた文脈や社会的影響力をあいちトリエンナーレと比した時に、どのような議論があったのか?キュレーションがどのようになされたのか?そうしたことも問われるべきかと思います。

まさに、扇情的な内容で関心を引くような日本的なジャーナリスティックの文脈で遂行されてしまったのか?という忸怩たる思いが拭えません。

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