デンマークでコンプレックスという言葉は聞かない
コペンハーゲンの自宅で家事をしながらラジオを聞いていると、ある臨床心理士が、自身が病気のために生活保護を受けることになった時に感じた“恥”の感覚について語っていた。
「自分がその立場になってみて初めて、仕事ができないことが“恥”だと強く感じたのです」と彼女は語った。
それから数日後、わたしはこの臨床心理士の書いた本を手に取った。『恥』というタイトルのこの本は、この不思議な感覚についてとても興味深いことを語っていた。今回、ハフポストの特集『コンプレックスと私の距離』というテーマを目にしたとき、この本で示されていた様々なことが頭をよぎった。
「コンプレックス」という日本語は難しい、と思う。普段の生活でこの言葉を使うことがないわたしは、この言葉の意味を瞬時に思い出すことができなかった。それはもちろん、わたしにコンプレックスがないからではない。外国生活は、自分への不満や失望に苛まれることの連続だ。でもなぜか、このカタカナ表記で外来語であるはずの言葉に、普段の生活で遭遇することがない。
デンマークでなぜコンプレックス(誰かと比べて劣っているという気持ち)という言葉と遭遇する機会がないのか。それはおそらく、宗教的、文化的な捉え方の違いだろうと思う。そそしてそれは、もしかすると恥という別の言葉で表現しているのかもしれない。人々が、他人に対しても、そしてもしかすると自分自身に対しても、はっきりと言語化せずとも(無意識に)感じている「こうであってはいけない自分」。それを恥としてデンマークでは捉えているように感じる。
理想と現実の乖離から“恥”は生まれる
では、恥はいつ感じるのか。ラジオで出会った臨床心理士、クリスタ・ボイエセンの著書『恥』によると、【理想の自分】と【現実の自分】の間の乖離が大きく、そのことを【現実の自分】が責めるときに、恥を感じるのだそうだ。
デンマークでよく例えられるのは、仕事を失った時や、失業期間が長期に及んだ時だ。労働はこの国の価値観の中で、歴史的、文化的に尊いものだと考えられてきた。また現代では仕事が人々のアイデンティティにもなっている。そんな社会の中で、仕事をしていないという状態は恥の感覚を呼び起こされる、とても辛い状態だ。
他にも、身体的なもの、社会的な立場などから恥を感じることもある。ボイエセンによると、女性の方が、男性よりも恥を感じる機会が多いらしい。それは、現代の女性が社会の中で理想とされる姿が複雑になり、あれもこれもできなければいけないというプレッシャーがあるからだという。誇りに思えるような仕事をし、パートナーがいて、子どもを育て、理想的な母親でもある。ジョギングやスポーツをして健康的な身体である、などなど、いくつでも理想の自分を描けば描くほど、現実の自分との距離を感じることも増えるだろう。ここでもし「まっいいか」と思えれば、恥の感覚に襲われることはないのだそうだ。でももし、現実の自分が今の自分を責めてきた場合、恥が自分を襲ってくる。
恥から身を守るための4つのパターン
恥の感覚が強くなってくると、人は自分自身が潰されないように、防衛反応を示すのだそうだ。それには4つのパターンがあるらしい。
一つ目は、他者を攻撃するパターン。
自分に厳しい人は他人にも厳しいと言うが、自己批判が過ぎると、防衛反応から他者にその批判が向くのだそうだ。そして他の人も自分と同じように批判に晒されれば良いという怒りへと転じるのだという。
二つ目は、自分をとことん責めるパターン。
他者からの批判は耐えがたいので、自分で自分をこれでもかと責める。そうすることで、自分を外からの批判から守る。
三つ目は、他者との交流を避けるパターン。
自分を今以上、批判に晒す可能性を減らすために、他者との接触を避ける。
四つ目は、完全回避。
これは自分で感じていることについて一切なかったことにしたり(でも心の中では感じている)、指摘されても無視する。完全に向き合わないという戦略だ。
ただ、どの防衛パターンを選んでも問題は解決しない。相変わらず理想の自分と現実の自分の距離は変わらない。それどころか、だめな自分を責める気持ちは続き、気持ちはずっと内向きになる。本来、理想の自分とは、社会の中での自分の位置づけであり、感覚としては社会に目を向けているのだけれど、実際は自分のことしか見えなくなり、他者との関係を築くことにも支障をきたす。
窓を開けることで、苦しさは軽減する
ではこの恥の感覚は、いったいどう扱えば良いのだろう。
ボイエセンからの提案は、「窓を開ける」ことだ。
どんどん内向きに、孤独に落ちていく感覚に押しつぶされず、わたしたちが心の窓を開け、他者に自分を開いていくこと。ここにも同じような人がいるよと、示していくこと。その行動によって、恥の感覚は溶けていく。恥の天敵は、傷つきやすい心を外に向かって開くことなのだそうだ。他者と、自分の気持ちを共有することを通して、自分を責める気持ちは小さくなっていく。
コンプレックスと恥は、厳密には違うものなのかもしれない。でも自分が誰かと比べて劣っていると自分を責める感覚、あるべき理想と現実の違いを受けいれることが難しいという感覚、それらは、この恥の感覚に近いと言えないだろうか。そしてまさにこの特集は、窓を開けるということともつながる。ここで開かれる一つひとつの窓が、わたしたちをつないで、温かく受け止め合えるように。自分やだれかを攻撃することなく、自分の殻に閉じこもってしまうことなく、わたしたちは、自分の窓を開けよう。ここにいるよと声をあげよう。それがきっと、これを読むだれかと、そしてわたしたち自身が、自分を肯定できることにつながるのだから。
“Skam” by Krista Korsholm Bojesen
Bibelselskabets forlag (2017)
(編集:榊原すずみ @_suzumi_s)