人間は、群れのなかでの些末な違いをクローズアップさせたがる動物なのかもしれない。大きな価値観からこぼれてしまったコンプレックスを抱える者同士のはずなのに、さらにそこから違いを際立たせ、相手をマウンティングしたがる。
11歳から悩み続けた白髪というコンプレックス
18歳から45歳まで27年間、約380回、約300万円。
人生最大のコンプレックスだった白髪を隠すため、白髪染めにいそしんできた期間と回数、そして金額だ。
私が初めて自分の髪に白髪を見つけたのは11歳のとき。教室の後ろの席に座っていた男子に「うわぁ、ババア! 白髪が生えてる!」と指摘されたのが最初だった。
それからというもの、白髪は私のコンプレックスであり、敵だった。
20歳の成人式のときも32歳の結婚式のときも、事前に白髪染めをしたにも関わらず顔を出してくる白いヤツらに、ヘアメイクさんがそっとスプレー式のカラー剤を吹きかけてくれたことを覚えている。
あまりにも白髪にコンプレックスを抱きすぎて、いつのころからか「なぜ白髪は忌み嫌われるのだろう」「世界の白髪事情はどうなっているんだろう」と調べることがライフワーク化していった。
アメリカで「going gray」というムーブメントが起こりはじめたことを知ったのは、2000年の初めごろだ。グレイ、あるいはグレイヘアという言葉は、英語で白髪という意味とともに、「円熟した」という意味も持つ。
そして、そのムーブメントの中心となっていたサイトがまとめられる形で、2004年に『Going Gray, Looking Great!(白髪になると素敵に見える!)』という書籍が出版された。
このとき、私は思った。
「この流れは、きっと日本にも来るだろうな」
グレイヘアの自分を受け入れるまで
当時の日本は、さまざまなQ&Aが投げかけられる掲示板サイトで、「白髪を染めない女性をどう思う?」というお題に対し、「あり得ない」「不潔」「女を捨てている」というアンサーばかりが付いていた時代だ。
その後、東日本大震災を経て、日本人の考え方は少しずつ変化していった。
震災の前年、2010年には「断捨離」が新語流行語大賞にノミネートされ、2011年1月には近藤麻理恵さんの『人生がときめく片付けの魔法』が出版された。
自分にとって大切な物だけに囲まれたシンプルな生活が尊ばれ、それはやがて、自分にとって本当に必要な習慣や行動とはなにか、どのような生き方を良しとするのかを自分で決めようといった考え方にもつながっていった。
掲示板サイトの白髪女性に関するお題に対し、「白髪のままでもいいのでは?」「かえって潔いと思う」といった前向きなコメントが付くようになったのも震災以降だ。
そして2016年、45歳の誕生日を機に、私は白髪染めを止めた。
27年間の白髪染めで、頭皮のかぶれも限界に達していた。
白髪交じりの髪が伸びていく途中にはさまざまな葛藤があり、いろんな人にいろいろな意見をもらった。そのことを書いていたら、この記事に収まりきれない。
それでも、1年後にはほぼすべての染めていた髪が切り落とされ、人工的な色を入れていないグレイヘアの私に生まれ変わることができた。
自分自身の髪色に戻った私は、自分の姿に満足していた。
色を入れた髪よりも、自然で私に似合っていると感じた。
同じ立場の人からの批判
髪を染めない私に対し、いろいろな意見があることは知っている。
メディアに出たあとは特に、ネット上には批判の言葉が飛び交う。
「白髪は汚らしい」「染めないのはマナー違反」「ブスのクセに粋がっている」……などなど。
その逆に、「なんで白髪染めを義務だと思いこんでいたんだろう?」「染めなくてもいいんだと初めて気づいた」「染めない勇気をもらった」という意見をいただくこともある。
批判的な意見には、いい加減慣れてきた。「染めたほうが良い」という価値観が根強いなか、「染めない」というレアな選択をしたからには仕方がないことだと思っている。
けれど……。
何よりも辛いと感じるのは、同じように「白髪を染めない」と決めた女性からの批判の言葉だ。
「あなたと私たちとは世代が違う」
「あなたには、白髪の悩みが深刻になる60代の気持ちは分からない」
私よりも年上のグレイヘアの女性からこのようなことを言われたとき、私は言葉を返すことができなかった。
たしかに、私はまだ60代ではない。けれど、私も長く白髪に悩まされてきた。
同じ悩みを前に、世代差って、そんなに大事なことなのだろうか?
美しく染めている人からの批判の言葉は慣れっこになってきたし、価値観の違いだから仕方がないと割り切ることもできる。
しかし、同じ「白髪が多い」とか「白髪染めが辛い」という悩みを共有し、世間の常識と闘ってきたはずのグレイヘアの女性から批判を投げかけられると、気持ちが凍り付く。
世代差だけではない。
会社員か否か、家族がいるか否か。
属性による小さな違いを気にする人は、けっこう多い。
コンプレックスの再生産をしていないか?
結局人間は、群れのなかでの些末な違いをクローズアップさせたがる動物なのかもしれない。
大きな価値観からこぼれてしまったコンプレックスを抱える者同士のはずなのに、さらにそこから違いを際立たせ、相手をマウンティングしたがる本能があるように思う。
「#コンプレックスと私の距離」特集の最初の記事「42歳で独身、子どもはいない。隠しきれなくなったコンプレックスと向き合った」を読み、そういえば私も子どもがいないと思ったとき、私の心によぎったのは“コンプレックスを再生産し続けてしまう人間の愚かさ”だ。
グレイヘアに関して「あの人と自分たちは○○が違う」と線を引きたがる人がいるように、子どもに関しても、独身なのか既婚なのか、「持たない」のか「持てない」のかを執拗に問うてくる人たちがいる。
そしてまた、私自身の心の奥底にも、「同じ子どもがいないという状況だけど、あの人と私は違う」というマウンティング心が無かったと言えば、ウソになる。
そういった属性を明らかにしたところで、どちらが上でどちらが下という意味付けなどできるはずもないのに。
悩み多き日々を忘れないために
コンプレックスそのものは、他人と比べることではじめて生まれる感情だ。
みんなの髪は黒いのに、私の髪は白い。
みんなには子どもがいるけれど、私にはいない。
世間にはたくさんの人がいて、毎日いろいろな人と触れ合いながら生きていかなければならない以上、私たちはコンプレックスという感情と無縁ではいられない。
たいして気にならなかったことなのに、他人と比べたとたん、大きなコンプレックスに変わってしまうこともあるだろう。
でも、コンプレックスを個性や多様性のひとつの形として受け入れ、自分を好きになることができたら、生きていく日々はとても楽しく、自信にあふれたものになる。
そんな幸せを、他の誰かによって、あるいは自分の醜い心によって再生産された新たなコンプレックスの火種に壊されたくはない。
私は、長いあいだ白髪というコンプレックスに悩まされてきたからこそ、そして、そのコンプレックスをやっと受け入れることができたからこそ、コンプレックスの再生産には手を染めるまいと誓う。
コンプレックスに悩む人、悩んでいた人の気持ちを忘れずに、そっと寄り添っていく。
私が白髪染めを止めてグレイヘアに変身していく過程をブログに綴っていったのは、悩む誰かの参考にして欲しかったから。
そして、きっといつか悩み多き日々を送ったことを忘れてしまうかもしれない自分に向けて書き留めておきたいと思ったからだ。
コンプレックスにまみれながら過ごした日々。
そのコンプレックスを受け入れ、好きになろうともがいた日々。
決して忘れずに、何らかの悩みを抱えながら生きていこうとしている誰かのお役に立っていきたい。
(編集:榊原すずみ @_suzumi_s)