「お前なんか、触られるだけありがたいと思えよ」
大学の時、酔った先輩にふざけてお尻を触られて、「やめてください!」と怒ったら、にやにやしながらそう言われた。
「お前、○○ちゃんとか○○ちゃんに比べて、優ってるところが何もないな」
「女性として魅力がないよね。○○さんは魅力的だよ」
会社に入社したての時、飲み会で、複数の先輩に笑いながら言われた。
幼稚園から高校まで女子校育ちだった私は、いわゆる「男性の目」を意識することを知らず、「女性らしさ」のようなものを主張する振る舞いを知らなかった。それができる女性は褒めそやされ、できない女性は足蹴にされて笑われることを、大学に入学して初めて知り、社会人になってからも突きつけられた。
彼らにとっては、「酔った勢い」で口から出た「ほんの冗談」。
私にとっては、自己評価を徹底的に下げ、自分の価値観をガチガチに縛り付ける、呪いの言葉たちだった。
それが、コンプレックスと私の、長い並走のはじまり。
*
「ああ、私って、ブスなんだ」
「女性的な魅力がないんだ」
そうして私は、何がいけないのかわからないまま、自分の容姿や、女性的に振る舞えないことにコンプレックスを持ち始めた。
その「女性としてほかの人より劣っている」という気持ちに蓋をして生きることは、決して精神的に強くない私にとっては、不可能だった。
「ブスなら、美人ができないことをすればいい」
美人とブスの定義なんてわからない。
なぜ「ブス」と言われるかもわからない。
人に言われるがまま、確証もないのに「ブス」という自己認識を持ち、それを長所にしようと必死になった。
「ブス」と揶揄されても落ち込んだり動じたりせずに爆笑し、「ブス」としてのコメントや芸を返す「ブスキャラ」。私が、コンプレックスと闘って足掻いた結果行きついた場所である。
「そうそうブスなんですよね~~○○先輩みたいに可愛くできなくて」と返し、
「○○さんの顔真似しましょうか?こんな感じ~」とモノマネし、
「やめろやめろ似てない!○○ちゃんが汚れる!」と笑われ、
「やばくないですかこの腹肉~?」と自分のぜい肉をつまんで見せ、時にはつままれ、
カラオケでは一発芸を披露しながら、唐揚げを口に突っ込まれた。
「美人にはできないヨゴレ役を買って出る芸人女」。
その肩書きは、いつしか自分にとって誇りになっていった。
ある日突然線路に飛び込もうとするくらい、その“誇り”が自分を傷つけているなんて、そのときが来るまで知らなかった。
*
ブスキャラがダメなら、正反対にしてみよう。
そうすれば、自信がつくかもしれない。
“誇り”でボロボロになった心に見て見ぬふりを続けていたある日、部署の異動が決まった。
新しい同僚と、新しい土地での仕事。
それをきっかけに、再びの足掻きを始めた。
今度はそのコンプレックスに徹底的にすり寄って、素直に「なんか評価されそうな気がする女性的なふるまい」をしてみようとした。
常にコンプレックスというフィルターを通して世界を見ていた私は、「女性として魅力がある」と言われてきた女性たちがどのように振る舞っていたかを、克明に記憶していた。 彼女たちの動作を、言葉を、姿勢を、態度を、必死に思い出し、新しい職場での自分にインストールした。
若い女性として純朴な様子でニコニコし、一定程度ふてぶてしく振る舞い、鼻にかけた声で甘ったれ、男性の肩を触った。
ダイエットし、スキンケアし、入念にメイクをし、花柄の服を着た。
カラオケでは、ビヨンセの「Crazy in Love」に合わせてお尻を振るのをやめ、 aikoやkiroroを歌った。
世界が、手のひらを返した。
人々が口をそろえて私のことを可愛いといった。
女性的な魅力があるといった。
そして、「嫉妬」を受ける感覚を、生まれてはじめて覚えた。
けれど、それらの手のひら返しは、私にとってまったく幸せなものではなかった。
私は、「ブスキャラ」から「かわいいキャラ」に着ぐるみを着替えただけだったから。
*
「コンプレックスを乗り越える」とは、ブスと笑われることもかわいいと評価されることもものともせず、「自分は自分」と胸を張って生きることなのかもしれない。
多くの人が、口をそろえて
「周りからの評価なんか気にしなければいい」
「自分の生きたいように生きればいい」と言う。
私だってそう思うし、同じようにコンプレックスを抱える方の多くが、それが理想だ、と理解していると思う。
けれど、その困難さも知っている。
過去に受けた傷や呪いは、癒えて無くなるのには時間がかかる。
(「かわいいキャラ」も脱ぎはじめて、そろそろ自然体で生きられるようになってきた私でも、今も、あるとき突然「お前は○○ちゃんに優っているところが何もない」という幻聴を聴き、胃の粘膜が破れそうになる)
コンプレックスと闘い、すり寄り、並走して、傷だらけになって疲弊している戦友たち。 まだ乗り越えられていない、他者が過去に規定した「美人/不美人」という評価軸の中に生きている私も。全員が、きっといつか、着ぐるみを脱ぎ捨てられるように。胸を張って生きられるように。
コンプレックスと距離をおいて、あるいは無視して、あるいはそれを踏み台にして強くなっていく、理想的なサクセスストーリーばかりではない、と、ここに明確に記しておきたい。