コンプレックスは誰にでもあるはず。体型、声、性体験、学歴、職歴などなど。しかし、みんながどうやってそれと向き合っているかを知る機会は少ないかもしれない。
コンプレックスは、ある意味、心の傷跡。誰だって、自分の心の傷口を切開するような真似はしたくない。それに、自分では深刻な悩みであっても、他人からすれば大したことはないかもしれない(コンプレックスとは大抵そういうものかもしれない)。
「へえ、そんなことで悩んでたんだ?」というレスポンスは、正直おっかない。
そんな時こそ映画は役に立つ、と思っている。人知れずみんなが悩んでいるコンプレックスについて教えてくれ、時には勇気づけ、向き合い方を教えてくれる映画がきっとあるのではないか。
ここでは、コンプレックスとの向き合い方を学べる3つの映画を紹介したい。悩みの種類は違っても、きっと、私たちの心の奥底に秘めている気持ちを代弁してくれるはずだ。
吃音と音痴の女の子たち。『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』
<あらすじ>
高校一年生の大島志乃は、母音で始まる言葉が言えない(いわゆる吃音症なのだが、作中では吃音という言葉を出さずに描かれる)。自分の名字を言おうとすると、どもってしまうので、自己紹介が上手くできず、クラスメイトにそのことを笑われ、自分に自信が持てないでいる。そんな中、志乃は、音楽が好きだけど音痴で悩む同級生の岡崎加代と友達になる。吃音で喋れなくても歌うことはできる志乃は、加代とデュオを組み、2人は文化祭のステージに出ることを決める。(DVD/Bru-ray発売中)
原作は、『血の轍』や『惡の華』で知られる押見修造さの漫画。押見さん自身、吃音で悩んだ経験があるそうで、その時の気持ちを基に描いたそうだ。母音で始まる単語を上手く発音できず、自分の名前も姓名の順番を入れ替えないと上手く言えないし、「ありがとう」も「サンキュー」と言い換えたりしている。
本作は、そんな吃音の女の子と対になるように、音痴で悩む女の子が登場する。音楽が好きで自身で作曲もしている加代は、音痴のせいで人前で自分の曲を披露できずにいる。一人は歌えないけど喋れる、もう一人は喋れないけど歌える。映画は、そんな二人の友情を爽やかに映し出す。
誰にでも、できることと、できないことがある。ならば、互いに補いあえばいい。そして、一人では克服できなくとも、二人でなら乗り越えられる。お互いが、自分がコンプレックスだと感じていることに向き合う姿を見て勇気づけられるラストは、とても感動的だ。
原作者の押見さんは、吃音という単語を作中で一切出さなかったことについて、漫画の後書きで、「ただの吃音漫画にしたくなかった」からだと語っている。それは、吃音以外の悩みを抱えた人にも届けたいという想いがあったのだろう。
この映画の二人のように、悩みが違っても、共鳴できることがあるかもしれない。そういう存在を、悩みの種類を超えて見つけてほしいという願いが、この作品を「ただの吃音映画」ではない普遍的な青春映画にしているのだと思う。
童貞を嘲笑うのは女か、男か。『40歳の童貞男』
<あらすじ>
家電量販店に勤めるアンディは40歳で独身、趣味はフィギュア集め。彼は女性との交際経験がなく、童貞であることを隠して生きている。ある日、同僚の男3人とポーカーをしているうちにセックス体験談の話題になり、今までどんな変わったセックスを経験してきたかの自慢合戦になる。適当に嘘をついてごまかそうとするアンディだが、すぐにバレてしまい恥をかく。ある日、アンディはトリシュという素敵な女性と出会い、惹かれていくが、デートへの誘い方がわからず、煩悶する。そんなアンディを「男」にしてやろうと、同僚たちは様々な指南をアンディにするのだが…。(DVD発売中)
童貞であることは男にとってキツいことである。肉体的には何もキツくはないのだが、社会的にキツい。そのキツさはどこから生まれるのか、本作を観るとよくわかる。とにかく、男性コミュニティの中でバカにされ、憐れまれるのだ。本作はそれを下品な笑いのネタにしているのだが、この映画で描かれるようなコミュニケーションは男性コミュニティにはありがちだ。早ければ、中学生時代からそういうコミュニケーションは始まるし、高校、大学とセックス体験の圧力はどんどん高まっていく。そうしてホモソーシャル社会が出来上がっていく。
本作の主人公は、40歳で童貞という設定だが、性交渉のない成人男性は統計的には決して珍しい存在ではない。しかし、映画でそれが題材になるのは極めて珍しい。本作での童貞男性の描かれ方はカリカチュアされすぎて、眉をひそめる描写もあるのだが、メジャー映画の題材として選ばれたこと自体は極めて貴重だ。
実際に女性が童貞であるかどうかを気にするとは限らない。気にしているのはどちらかという男側なのだ。この映画のヒロイン、トリシュは3人の子持ちの経験豊富な女性だが、彼女も童貞であるかどうかなど気にしていない。しかし、アンディは必死にそのことを隠そうとしてしまうのだ。
実際、セックスの体験の豊富さで人間の成熟度を測ろうとするコミュニケーションは、男女問わず存在する。セックス体験は確かに色々なことを学べるが、それが人生の全てではない。時間はみな平等であり、セックスしなかった代わりに、その人は別の何かを体験しているはず。人生の年輪の刻み方は人それぞれのはずだ。
人生を変えるのは外見か内面か。『アイ・フィール・プリティ!』
<あらすじ>
レネー・ベネットは太めの体型で、自分の容姿を好きになれず、そのせいで、性格までも卑屈な性格になってしまっている。レネーはそんな自分を変えるため、ジムに通うことにするが、エクササイズの最中に頭を強打してしまう。すると、レネーは、その後遺症で自分の容姿がスリムに見えるようになってしまう。ダイエットが成功したと思いこむレネーだが、実はスリムに見えているのは自分だけで実際には彼女の体型は全く変わっていない。にもかかわらず、その日からレネーは、自信満々の性格に変貌する。どうせ受からないと諦めていた憧れの仕事に応募し見事合格、恋人も手に入れ、順風満帆の人生を手に入れる。しかし、レネーは再度頭を打ってしまい、元の体型が見えるように戻ってしまう。(DVD/Bru-ray発売中)
本作のアイデアは、コンプレックスがどういうものかを描く上で大変見事なものだと思う。本人は体型が変わって人生が好転したと思っている。だが、実際に変わったのは外見ではなく内面だ。コンプレックスとは、自分が自分にかけてしまう呪いのようなものだということが、本作を観るとよくわかる。
痩せた(と思い込んでいる)レネーは、一流モデルのような容姿の女性ばかりが勤務する高級化粧品メーカーの受付担当に応募する。その自信に溢れた言動をかわれて採用されると、そのメーカーが新たに発表する一般女性向けの「セカンドライン」の戦略担当まで任せられるようになる。男性にも積極的に声をかけるようになり、クリーニング店で出会ったイーサンと恋仲になる。はじめは過剰と思えるほどに自信に満ち溢れたレネーを怖がっていたイーサンも、次第に彼女の魅力に惹かれていく。
本作の主演は、エイミー・シューマーというアメリカの人気コメディアンだ。彼女は、日本で例えると渡辺直美のような存在と言えばわかりやすいだろうか。自身の体型を卑下することもなく、ファッション雑誌の表紙を飾り、時にはヌード写真を披露することもある。下の写真は、「強くて美しい女性」をテーマにしたイタリアのタイヤメーカー「ピレリ」の2016年度のカレンダーの写真だ。
映画のクライマックスのスピーチは、そんな彼女の生き様そのものを反映しているかのような力強さに溢れており、男女問わず多くの人を勇気づけるはずだ。
「子供の頃は誰だって自信に溢れてた。お腹が出ていようと思いっきりパンツを食い込ませて踊っていた。
でも、砂場で意地悪を言われたりとか、ふとしたきっかけで自分に疑問を抱き始める。そうして、何度も自分を疑ううちに全ての自信を失ってしまう。
でも、それに打ち勝つ強さを手に入れたとしたら?
誰かに“能力がない”とか“美しくない”だとか言われようと気にしない。
だって、私は私であることを誇りに思うから!」
彼女の言うとおり、子供の頃は誰だって自分を疑ったりしなかったはずだ。でも、生きていく中で、デブと言われたり、童貞をバカにされたり、自分の名前を言えないことをからかわれていくうちに、自分で自分を否定するようになってしまう。
自分でかけた呪いを解けるのは、自分だけだ。これらの映画は、そのために必要な勇気をきっと与えてくれるはずだ。