色黒な肌が嫌だった。コンプレックスがない社会で生きたいと思ったから、私は「ミス・ワールド」に出た

誰もあなたをジャッジする権利は持っていないし、もしジャッジしてくる人がいたとしても「かぼちゃが何か言ってる」ってみんなが思える。世界中が、そんな社会になったらいい。
肌の色が気になりはじめた頃の鈴木七海さん
肌の色が気になりはじめた頃の鈴木七海さん
筆者提供

ずっと夏が楽しめなかった

夏がやってくる。

今年はどこに行こうか、新しい水着を買って海に行こうか、浴衣を着て夏祭りに行こうか。

それとも友達とバーベキューに行こうか、何なら1人でどこか涼しいところに行ってしまおうか。

実は、私が純粋に夏を楽しめるようになるまでになるには、随分長い時間がかかった。

長らく夏が来るたびにこう思っていた。

 「日焼け止めの季節がやってきた」。

 小さい頃からずっともともとの肌の色が黄色っぽく、吸収した紫外線が夏になるとすぐにメラニンとして蓄積されることが嫌だった。

日焼け止めを塗っても塗っても、日に日に黒くなっていく自分の肌の色が嫌いだった。

 夏になると頭の中で反芻する「なんでそんなに黒いの?」「ななみん、日焼けしたね」などなど、これまで私の友人たちが悪気なく投げかけてきた言葉たち。

肌が日焼けしやすいことを気にしない時期もあるには、あった。
幼稚園の頃なんて絶対に何とも思っていなかったはずだ。

いつからだろう。誰かから自分の外見をジャッジされるようになったのは。

いつの間にか、誰かに外見を判断されることに慣れてしまった。

そんな中、思い出してみると、ある一人の男の子の言葉が私に強烈なコンプレックスを植えつけた。小学生の頃、私に「まっくろくろすけ」と毎日伝えてきたのである。負けん気の強い子どもだった私は、何か言い返した記憶があるが、だからといって全く気にしない訳ではなかったし、家に帰って一度だけ母の前で泣いた。それからずっと、他の人から私の日焼けした肌について言及される時も、悪い意味で言っているのではないかと思うようになってしまった。

「日に焼けた?」という友達の言葉が気になって仕方なかった
「日に焼けた?」という友達の言葉が気になって仕方なかった
筆者提供

 日焼けした自分の体を、色々な人に否定されているよう

コンプレックスの原因は誰かから、直接外見について言及されることだけではない。

いつのころだったか、この日本社会は「肌が白い方がいい」という価値観の押し付けが、至る所で行われているのに私は気づいた。

日サロが流行った時期もあったと聞く。でも、私はその時代に思春期を体験していない。

化粧品売り場に行けば、そこには「美白化粧水」や「美白パック」ばかり並んでいる。

夏になればドラッグストアの最前列に並ぶ、日焼け止めの数々。

 まわりの子たちと比べて日焼けした自分の体を、色々な人に否定されているようで、自分に自信が持てなかった。

こんな私の考え方に変化があったのは、大学3回生の時にスイスとベルギーに交換留学に行った。

そこには、日本では溢れる「美白化粧水」がほとんど見当たらなかった。

むしろ、留学先の友人に、「夏にバカンスにたくさんいける豊かな暮らしをしているってことだから、ヨーロッパでは、日焼けしてる方がモテるよ」と言われた。ヨーロッパでは、あまり肌の色が白すぎると、病気みたいだと思われてしまうらしい。

ところ変わればこんなにも解釈の仕方が変わるのだなぁと驚いた。

とは言え、逆に、「日焼けした肌がいいね」と私を褒めてくる人がいる訳でもなかった。

自分の外見について誰からもなにも触れられない社会が、私には合っているようだ。


そんな経験をしてみると、今まで自分の肌の色を気にしすぎていたことがなんだか馬鹿らしくなった。

だって、世界には色々な価値観があるのに、自分が今まで生きてきた社会の中の価値観が絶対的なものだと信じて、自分を好きになれなかっただけだったのだから。

誰がなんと言おうと、私の体は私のものだ。私の肌が「美白化粧水」をつけてもその恩恵を受けることができない肌質だろうが、誰に関係があるというのだろう? 全くない。

また、ルワンダで「肌をブリーチ」していることが流行っていたけれど、それが健康に与える悪影響のため、ブリーチ剤の使用が禁止になったニュースを以前見た。

健康に害を与えてしまうほど、自分の外見にコンプレックスを持たなければいけないのだろうか? と悲しくなったのを覚えている。

そして、自分もコンプレックスを気にしすぎてしまったら、このように健康被害にも苛まれる事態になってしまうのではないかと不安になった。

肌の色で自分を好きになれないのはとても悲しい

この地球には、様々な美の基準がある。日本のように肌が白い方がいいと思っている人が多い場所もあれば、日焼けしている肌の方が良いという場所もある。

いや、誰もがわかっているはずなのだ。そもそもこの地球には、十人十色の肌の色があるということを。

それなのに、自分の肌の色を気にしてしまうのは、少しおかしいのではないだろうか。肌の色で自分を好きになれないのはとても悲しい。

 もし今、あなたがなにかのコンプレックスが原因で苦しい思いをしているのなら、少しだけ、視点をずらして見て欲しい。きっとそこにはまた違う世界が存在するはずだと思う。

多分私たちが抱いているコンプレックスには、そこまで気にする必要はないことが実はたくさんあるのかもしれない。

だから、私の考えるコンプレックスとの距離の取り方の1つは「視野を広げること」

 とは言っても、視野を広げるだけでは、コンプレックスと上手に距離を取れないこともある。

たとえば、これも夏になると気にしなければならない、「ムダ毛の処理」。

半袖やノースリーブ、腕をあげると見える脇毛。脇毛を剃ったり抜いたりを繰り返してブツブツになってしまった私の脇を、綺麗だと思う人はあまりいないと思う。

 でも視野を広げてちょっと周りを見てみれば、脇毛を剃っていない人だっているし、気にしなければいいだけだと思う。なのに、なぜかやめれない。おかしい。不思議だ。

 そこで私は、少しこじつけて考えてみた。

「脇毛を剃りたいのは、私の意思であって、コンプレックスがあるからではない!」

 いや、本当は違うのはわかっている。社会から外見についてあれこれ求められすぎて、いつの間にか、私の意思でしていることなのか、社会からのプレッシャーで「しなくてはいけない」と思いこんでいるものなのかわからないほど、「脇毛はないほうがいい」という価値観を刷り込まれてしまっているのだ。

 だからと言って、脇毛を剃ることを全面的に否定されるのも、なんだか息苦しいけれど。

そして、私がたどり着いたもう1つの答えは「気にしないこと」

 本当に私は脇毛が剃りたいのか、脇毛は剃らなければいけないものという社会通念が強すぎるのか、もうどうでもいい。一旦考えるのをやめて、脇毛をいつも通りの習慣で剃り続けてみる。

「考えない」という行為はあまり好きではないが、考えすぎて苦しくなってしまうくらいなら、考えないで、無思考で行動してしまうのもありなのではないかなと思う。

これが私の考えた、コンプレックスとの距離、折り合いをつける方法だ。

ミス・ワールド・ジャパン京都大会の壇上に立つ鈴木七海さん
ミス・ワールド・ジャパン京都大会の壇上に立つ鈴木七海さん
筆者提供

 ミス・ワールドコンテストで訴えた。「美の価値観を、一度疑ってみてください」

欲を言えば、より多くの人がコンプレックスに悩まされない社会で私は生きたい。

 実はそんなことを伝えるために、ミス・ワールド・ジャパン京都大会というミスコンテストに出た。

外見をジャッジすることで成り立つ世界のステージで、私は「みなさんが持っている美の価値観を、一度疑ってみてください」「人のことを外見でジャッジしないでください」そう伝えたのだ。

みんながみんな、視野を広げたり、気にしなかったり、コンプレックスと上手に付き合える訳ではない。だったら、コンプレックスを植え付ける社会が変わればいい。

どれだけの人に私のメッセージが伝わったのかわからない。

日本の多くの大学でも行われる、外見に“優劣”をつけるミスコン自体を楽しんでいる人もいる。私の周りでは、外見で人を判断する社会の是非について議論をしている人を見たことがあまりない。少なくとも、外見で人を判断して良い、もしくはそれが自然だと思っている人が一定数存在するからこんなにたくさんコンテストが開催されているのだと思う。だからそんなコンテストで、「外見で人を判断しないでください。」と伝えるのは変だったかもしれない。

でも、やっぱり、誰かの体のことにうるさく口出してくる人なんて、いない方がいいと思ってしまうのだ。

どうか、私にコンプレックスをこれ以上植え付けないでほしい。

「美白」ばかりが強調されるドラッグストアの化粧品棚や、電車の社内やInstagramのストーリーで出てくる「脱毛しないと、彼氏に嫌われるかも!」と不安を煽る広告なんてない方がいい。

そう、伝えている人が少ないならば、私が伝えたい。

ミス・ワールド・ジャパン京都大会の壇上に立つ鈴木七海さん
ミス・ワールド・ジャパン京都大会の壇上に立つ鈴木七海さん
筆者提供

 日本にいるから、日焼け止めや美白化粧水を使わなくてはいけないわけではない。だからといって、使いたい人はその自由を奪われず、楽しんで使えるようになってほしい。脇毛を剃っていようが、剃らまいが、人の目を気にしなくていい世の中で生きていきたい。

だって誰もあなたをジャッジする権利は持っていないし、もしジャッジしてくる人がいたとしても「かぼちゃが何か言ってる」ってみんなが思える。世界中が、そんな社会になったらいい。

この社会に存在するコンプレックスを植え付ける全てのものたちに、さようなら。

 (編集:榊原すずみ @_suzumi_s

コンプレックスとの向き合い方は人それぞれ。
乗り越えようとする人。
コンプレックスを突きつけられるような場所、人から逃げる人。
自分の一部として「愛そう」と努力する人。
お金を使って「解決」する人…。

それぞれの人がコンプレックスとちょうどいい距離感を築けたなら…。そんな願いを込めて、「コンプレックスと私の距離」という企画をはじめます。

ぜひ、皆さんの「コンプレックスとの距離」を教えてください。

現在、ハフポスト日本版では「コンプレックス」にまつわるアンケートを実施中です。ご協力お願いします。

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