トランスジェンダーの少女、ララはバレリーナになる夢を叶えるため、難関のバレエ学校に入学する。厳しいレッスン、他の少女たちからの嫌がらせにも耐え、夢の実現のために努力するララ。思春期の身体変化に戸惑いを覚え、ホルモン治療を決意するが、思い通りに変化がすすまないことへの苛立ちを隠せない…。
映画『Girl/ガール』は、そんなララの葛藤と勇気、家族との愛を描き、カンヌ国際映画祭で新人監督賞であるカメラドールを受賞。主演のララを演じたビクトール・ポスターは、ロイヤル・バレエ・スクールのトップダンサーだが、映画出演はこれがはじめて。しかし、その確かな表現力でカンヌ国際映画祭「ある視点部門」で最優秀演技賞を受賞した。
多くの称賛の一方、批判もあった。トランスジェンダーの女性の実話を基にした本作だが、シスジェンダー(注:生まれた時の性と、自認している性が一致している人のこと)の役者が主演を務めたことに、一部から指摘があがった。 また、作中の描写がトランスジェンダーの身体を露悪的に描いていると指摘する人もあった。
多様性を目指す社会における、表現のあり方の難しさを背負うことになった本作だが、作り手である監督と、モデルとなった本人は、そうした批判に対してどのように回答したか、来日したルーカス・ドン監督に話を聞いた。
トランスジェンダーの役はトランスジェンダーの役者だけが演じるべきなのか
「この映画は全てのトランスジェンダーを代表するものではありません。私が直面した体験について語ったものなのです」
映画のモデルとなったノラ・モンセクールさんは、映画への批判が高まるなか、自らの言葉で全面的に映画を擁護した。
ノラ・モンセクールさんは、1996年、双子の男の子として生まれた。同じ誕生日、同じ家庭、同じ両親に、同じ教育方針で育てられた双子の兄弟は、一人は男の子の心を、もう一人は女の子の心を持つように育った。
9歳の時にアントワープ王立バレエ学校のオーディションを受け、入学が認められたノラさん。2008年にバレリーナを目指すトランスジェンダーの少女として新聞記事に掲載され、この記事がドン監督の目に留まった。
ドン監督は何度も彼女と会い、信頼を深めていき、映画化を許可してもらったという。脚本や演技についても隅々まで助言し、2人のコラボレーションとも言える形での製作が実現した。実際に本作のエピソードの多くはノラさん自身が体験したことがほとんどだとドン監督は言う。
「この映画には、7年間に及ぶ彼女との対話で得られた様々なものが反映されています。脚本作りに関しても、ノラ本人が一番のソースでした。映画の主人公ララが体験することは、ノラの体験そのものです」
ノラさん本人も認めるほど緻密なリアリティをもって練り上げられた本作だが、上述のような批判にさらされた。ドン監督は、こうした批判をどのように考えているのだろうか。
主演俳優のオーディションにはトランスジェンダーの役者もいたそうだが、シスジェンダーで演技経験の少ないビクトール・ポルスターを主演に選んだのはなぜか。
「まず何よりも大切なのは、トランスジェンダーの方々が、映画業界においてカメラの前でも後ろでも、活躍できるようになるべきだということです。そのためには、彼ら/彼女らの声をもっと社会に届ける必要があります。だからこそ、私はノラの物語を届けたかった。
私は、『役者などのアーティストは自身のアイデンティティについてだけしか語ってはいけない』とは思いません。
ビクトールの演技は、すごく多層的で複雑な美しさを表現していますし、それがララというキャラクターであり、同時にノラもそういう人物なのです。
しかし、これまでトランスジェンダーの俳優たちに十分なチャンスが与えられなかったこともわかっています。トランスジェンダーの方々へのチャンスが、トランスジェンダーを題材にした作品に限定されず、より開かれたチャンスが彼ら/彼女らに与えられることが重要だと思います」
演技とは自分以外の何者かになる表現だ。そして、ノラさんは確かにトランスジェンダーであり、それは彼女という人間を構成する重要な要素であるが、それがすべてではない。
彼女はバレリーナであり、家族想いであり、困難に直面しても夢を諦めない努力家である。他にも様々な要素を持った一人の人間であり、この映画の主役にはそういう多層的な複雑さを表現する力が求められた。
ドン監督も、ノラさんと同じく「これはトランスジェンダーのコミュニティ全体の物語ではなく、一人の人間の物語」であることを強調する。
ノラさん本人は、批判に対して手記でこのように語っている。
「このような批判は、トランスジェンダーの物語を世の中に共有することへの妨げになるでしょう。さらに言えば私を黙らせようとしているかのようです。監督や主演俳優がシスジェンダーだからララの描写が不適切だ、という批判こそが私を傷つけています」
血だらけのトゥシューズが示すもの
劇中、主人公のララがトゥシューズを履いてレッスンに励むシーンが何度も描かれる。男性の身体を持って生まれたララには、バレリーナ用のトゥシューズは小さすぎるのだろうか、靴を脱ぐとララの足は血まみれになっていて痛ましい。これらのシーンの意図についてドン監督はこう語る。
「バレリーナを目指す人は、若い頃からトゥシューズを履いてポイントワークと呼ばれる練習をこなさねばなりません。それは男性の身体を持った人に限らずとても痛みを伴いますし、女性でも血だらけになることがあります。
ララは、バレエ学校へ途中入学しましたから、他の女の子たちに追いつくため、より多くの練習をせねばなりませんでした。サイズが合う、合わない以前に、この訓練は元々つらいもので、それがバレエの世界では当然のこととされているんです」
苦痛を伴うが、それがバレエの伝統的な「アートフォームであり、古典的な女性らしさ、あるいは最高峰のエレガンス」と見なされているのだとドン監督は言う。
「ララや他の少女も、その最高峰のエレガンスを目指して努力してしまうわけです。バレリーナの世界は競争が激しいですから、よりエレガントに、より女性らしくと努力を重ねなくてはなりません。
そうしたイメージは文化的なもので、社会が長い間かけて作り上げた伝統です。トゥシューズのような、苦痛を与えるものは現代の価値観にそぐわないから止めるべきかどうか、私にはわかりません。
私としては、そうしたものを美しく感じ、憧れてしまう我々自身の気持ちとどう向き合うかを考えたい」
若干、角度の違う事柄であるが、日本の伝統芸能である歌舞伎は男性だけが舞台に立てる。男性が演じる女形の妖艶さは女性が演じるそれとはまた異なる魅力がある。
あるいは、女性だけで構成される宝塚歌劇団のパフォーマンスも、女性だけで演じることで表現できるものがある。こうした伝統に根ざしたジェンダーの表現美に対してどのように向き合うべきなのかについても、本作は示唆に富んでいる。
善意によって阻害される主人公
新しい学校のクラスに迎えられたララ。すぐに馴染めるか不安げな彼女に、担任の教師が目を閉じさせ、このように告げる。
「君が女子更衣室を使うことに抵抗感がないか、挙手によって女子たちに確認したいんだ」
この時、カメラは目をつむったララだけを映し続け、何人の生徒が手を上げたのか観客にもわからない。一体何人が賛成し、何人が反対したのか観客も不安を覚えるシーンだ。
なぜ、このような撮り方をしたのか、ドン監督はこう語る。
「あのシーンは、教師がララのためを思ってやったことが、ララを阻害する結果になってしまっているということを表した場面です。手を挙げた人数が問題ではないのです。この映画には明確な悪役は登場しませんが、人々の『善意』がララのような人を阻害してしまうことがあると言いたかったんです」
ドン監督の言葉には、差別という問題を解決することの難しさが込められている。こうした善意による差別は、明確な悪意に根ざしたものよりも解決が困難な場合があり、実際に現実社会のあちこちに無造作に転がっている。
映画のモデルとなったノラさんは、この映画への批判に傷ついたが、批判した人たちは彼女を傷つける意図はなかったかもしれない。それどころか、トランスジェンダーの権利向上や理解促進のためを思って、批判した人も多いかもしれない。
ノラさんは、悪意だけではなく、こうした普通の人々の善意とも戦わねばならないのだ。それでも夢を諦めなかったノラさん、そしてララの姿は多くの観客に心を打つだろう。
この映画と、映画に対する議論には、私たちの善意の行動や発言に、誰かを傷つける「刃」が潜んでいるかもしれないという気づきを与えてくれる。実に多くの学びがある作品だ。
(文:杉本穂高 @Hotakasugi /編集:毛谷村真木 @sou0126)