“まんが映画”として子どもの娯楽と呼ばれたアニメに哲学を見いだし、その芸術性を世界に広げた高畑勲監督。
2018年4月にこの世を去ってから、1年余り。彼が日本のアニメーションに遺したものは何だったのか。
社会に対しアイロニーな目線を投げかけることもあれば、徹底したリアリズムを求め、日常の些細な出来事や心情を細く細く拾い上げるような繊細な物語の語り手でもあった。
高畑監督の遺品や膨大な量の未公開資料をもとに、その「演出術」に迫る初めての回顧展「高畑勲展━━日本のアニメーションに遺したもの」が、東京国立近代美術館で開かれている。
“高畑勲”とは何者だったのか
1000点を超える作品資料が並び、時折、高畑監督の声も響く会場内。展示の主軸は、残された多くの資料と、彼の言葉だ。
高畑監督の演出術を4つの章に分け、踏み入っていくたびに制作現場の息遣いと集中力を肌で感じるような仕掛けになっている。
マンガ・アニメの展覧会が行われるのは、東京国立近代美術館が現在の場所に移転してからは1990年に開かれた手塚治虫展以来、2回目。
企画は高畑監督の生前から準備されていた。だが、高畑監督が2018年に亡くなったことで、その意味合いが大きく変わった。これは追悼展であり、回顧展でもある。
同時代に隆盛した派手なアクションやファンタジー作品とは一線を画し、日常や人物に寄り添い、心理描写を丁寧に描き出す高畑作品は、ともすれば地味に映るかもしれない。
だが、アニメの世界でリアリズムを確立し、近代美術や映画、音楽、詩にも造詣が深い彼の創り出した表現手法は、“アニメーション”の枠を次々と変化させた。モダンアートとは異なる「絵の力」によって、思想を映し出す芸術としてアニメを昇華させたのだ。
展覧会の企画を務めた鈴木勝雄・主任研究員は「戦後日本のアニメーション表現の可能性を切り拓いた。その形式、文法を作り変えてきたイノベーターである」と語っている。
「アニメーション映画で『思想』が語れるんだ」高畑監督の映像への挑戦
会場に入ると、壁一面を覆う年譜が目に入る。2018年から順に過去をさかのぼり、ゲートをくぐると時代は1960年前後に至る。
イントロダクションでは、高畑監督に多大な影響を与えたフランスのアニメーション映画「やぶにらみの暴君」の紹介が始まる。
この映画を見た高畑監督は、次のように語る。
「アニメーション映画で『思想』が語れるんだ。『思想』を『思想』として語るというより、物に託して語れる」
そこには、彼のアニメーションに対するスタンスが、強くにじみ出ていた。
第1章「出発点─アニメーション映画への情熱」では、東映動画に入社したての高畑監督が演出助手として携わった「安寿と厨子王丸」の絵コンテやセル画のほか、忠実に再現された作業机も展示されている。
後半部分では劇場用の長編では初めて演出を担当した「太陽の王子 ホルスの大冒険」(1968年)のアニメーションも流れる。盟友である宮崎駿とタッグを組み、後にスタジオジブリの名プロデューサーとなる鈴木敏夫と出会うきっかけともなった記念すべき作品だ。
アイヌ民族の叙事詩をモチーフとした人形劇脚本「春楡の上に太陽」をベースに、主人公ホルスが村人たちと団結して悪魔を倒すまでを描く壮大なストーリーは、その緻密さゆえにスケジュール遅延や制作の一時中断をしながら、3年半の月日をかけて完成した。
展覧会では、もう一人の主人公でもある悪魔と人間の間に生まれたヒルダの描き方について、高畑監督が試行錯誤し苦悩した様子を知ることもできる。
アルプスの少女ハイジ、赤毛のアンーー日常を描き出す1970年代。そして日本の情景に根差した80年代。
続く第2章、3章のテーマは「日常生活のよろこび─アニメーションの新たな表現領域を開拓」と「日本文化への眼差し─過去と現在との対話」。
1970年代、高畑監督は「アルプスの少女ハイジ」や「赤毛のアン」、「パンダコパンダ」などの子ども向けのテレビアニメーションのなかで「子どもの心の解放」を考えた。
「心の解放」とは何か。高畑監督は、子どもの日常に寄り添い、子どもが親によって支配される存在ではなく、自身の中にある創造性や想像力を駆使し、生活を作り上げていくプロセスがあると捉えた。
その心理描写から、アニメーションで人間ドラマを魅せる手法を確立した。
回顧展では、図録の校了直前に出されたという宮崎駿が手掛ける「パンダコパンダ」のレイアウトや、「アルプスの少女ハイジ」のオリジナル絵コンテも初公開されており、当時の現場の空気感をうかがい知ることができる。
児童文学をベースにした70年代を経て、80年代になると高畑監督は舞台を日本に移す。
「じゃりン子チエ」では、背景画家で美術監督だった山本二三とともにドヤ街の木賃宿に泊まり、下町の湿った空気感までもを再現した。
椋尾篁の描く水墨画風の背景が、東北地方の風土を表現した「セロ弾きのゴーシュ」、高畑監督が原作を切り貼りして構成ノートを作った「火垂るの墓」━━。
時代を平成に移した「おもひでぽろぽろ」「平成狸合戦ぽんぽこ」では、その現代風景を切り取った。
一貫して土地の風土や生活に根差すアクチュアリティーを活写しながら、昭和から平成にかけて日本が経験した「戦後」を、批評的に見つめた。
また、そこには高畑監督のモチーフとなった「里山」を発展させていった内容も盛り込まれていた。
半世紀を経てよみがえった「ぼくらのかぐや姫」の物語
回顧展を開くにあたり、東京国立近代美術館は遺族やスタジオジブリなどの協力のもと、段ボール18箱分に及ぶ資料を集めた。
遺作「かぐや姫の物語」(2013年)が制作される約半世紀前、1960年前後の資料からは、あるノートとメモが見つかった。
「東映」と印字された色褪せた6枚のノートと、茶色く変色した4枚の紙。
題名は「ぼくらのかぐや姫」だ。
1959年に東京大学仏文科を卒業し、同年東映動画(現・東映アニメーション)に入社した高畑監督。
まだ20代半ばだった新人時代、当時の大監督である内田吐夢による「竹取物語」のマンガ映画化が計画されていた。企画は実現されなかったが、監督の意向から、社員全員からプロット案を募る、という画期的な試みがなされた。
命に従い、高畑監督は「竹取物語」の原典を読み返し、映像化についていくつかの構想を持った。
制作メモの考察には「Drôle de drame(風刺劇)を音楽劇にしたてる」「こうして作ったものがcomique(喜劇、コミック)ではなくdrôle(風刺劇)な感じがして不思議な虚無感が漂えば成功」とあり、20代にしてすでに突出した鋭い感性と切り口が内在していたことが分かる。
その中でも特に「絵巻物をよく研究して、その描法を生かすこと、特にトレス線を活用する」という文言は、のちの「かぐや姫の物語」で披露された素描の躍動感につながるものが垣間見える。
いままではインタビューなどでしか語られなかった漠然とした当時の状況が、20代の彼自身の肉筆でよみがえる貴重な資料だ。その一部にはこう書かれていた。
「竹取物語」において、話しの進むにつれて次第に濃くなるかぐや姫の人間的感情に注目してみた。そして、この物語を「真の愛」を探し求め、男達に課した試練を通して、自らも次第に人間性に目覚めてゆくが、遂に真の愛をあかす男が現れなかったために、完全な人間性をカクトクするに至らず、すなわちこの世の住人になりきれずに、泣く泣く月へ帰ってゆく。この世に憧れてやってきた月の娘の話にする。
また、ノートには「翁を主人公にする」というパターンについて、愛情と憎しみの間に揺れ、次第に狂気を増す翁の心情の変遷を描きながら、次のように語りを入れている。
かぐや姫は翁に云う。「ああ、これで私は月に帰ることが出来ます。私は月の住人ですが、一族の罪によって私はこの地上に降ろされていたのです。あなたの苦しみが、あなたの業が、憎しみが私を月にかえしてくれました。私のために燃やしつくして下さった生命(いのち)の火が、私にのり移ったのです」
「竹取物語」に対する当時からの考察は、彼の頭の中で幾度となく反芻され、数十年の時を経て「かぐや姫の物語」として実を結ぶ。
制作を終えた2013年、雑誌「ユリイカ」のインタビューに、彼は作品への思いを次のように述べた。そこには、半世紀前の制作メモに通底するような言葉が並んだ。
僕のアイディアというのは、罪を犯してこれから地上に下ろされようとしているかぐや姫が、 期待感で喜々としていることなんです。それはなぜなのか。地球が魅力的であるらしいことを 密かに知ったからなんですよ、きっと。
晩年は透明なシートの上にキャラクターを描き、背景にのせて映像化する「セルアニメ」の手法からの脱却を考えた高畑監督。
最後の章では、その集大成といえる「かぐや姫の物語」の制作プロセスの一端が垣間見られる。
デジタル技術を生かし、線が生まれる瞬間の素描の躍動感、残像を含めた線の力を魅せる。そして淡い水彩の背景。
人物と背景が一体化したかのような世界観には、アニメーション表現を最後まで探求し続けた高畑監督の「いのちの記憶」を辿る最後のページを彩っている。
「高畑勲展――日本のアニメーションに遺したもの」
期間:7月2日~10月6日
会場:東京国立近代美術館 1階 企画展ギャラリー
〒102-8322 東京都千代田区北の丸公園3−1
入場料:当日券は一般1500円、大学生1100円、高校生600円
(中学生以下無料、障害者手帳を提示の方と付添者1人は無料)