バスケットボールの八村塁選手が6月20日(アメリカの現地時間)、NBAドラフト会議に臨む。
ドラフト指名からNBA選手となった日本出身選手は、過去にいない。八村選手は上位指名が有力視されており、実現すれば、日本出身選手初の快挙となる。
今から38年前の1981年。日本でプロバスケリーグもなかった時代に、NBAからドラフト指名を受けた日本人がいた。
住友金属で活躍した、元日本代表の岡山恭崇さんだ。
指名を承諾することはなかったが、実現していれば、田臥勇太選手が日本人初のNBA選手となるはるか前に、日本人初のNBA選手が生まれていた可能性があった。
その岡山さんは、八村選手がNBAで「間違いなく通用する」と期待を込め、「自分が持ってるものを全て出してほしい」とエールを送る。
当時のドラフトの経緯や、NBAに臨む八村選手への期待を語ってもらった。
病気で逃したアメリカでのチャンス
岡山さんがバスケを始めたのは大学から。もともとは有段者だった柔道から転身し、身長2メートルを超える恵まれた体格を生かして、すぐに頭角を表わした。
バスケを初めて2年足らず。2年生になったころ、「本場で学んだらどうだ」と監督に勧められ、日本の大学を休学し、アメリカのポートランド大学にバスケ留学した。
アメリカの大学の規定で、留学生は1年間公式戦に出場することができなかったが、レベルの高い環境でのプレーは大きな糧となった。
「当時もう、身長が2メートル14、5センチありましたから、やっぱり大きいというのは武器になるとふうに思いましたし、もっと筋トレして動けるようにならないといけないと思いました」
1年間の留学を終えようとしたころ、コーチから「1軍で使うから、もう1年残らないか」とオファーを受ける。ところが問題が起きる。シーズン前のドクターチェックに引っかかってしまう。
先端巨大症と診断されたのだ。
先端巨大症は、脳下垂体にできた良性の腫瘍が原因で成長ホルモンの過剰分泌される病気。成長期に発症すると、身長が急激に伸び、身体が大きくなる。
手足が肥大し、特有の顔立ちになる。関節痛がよくみられ、手足の関節が腫れたり、変形したりする変形性関節症が生じる可能性もある。
「要するに成長期ですから、あまりにもハードな練習をすると心臓に症状が出るかもしれない、危険だという判断をチームドクターがしたんですよ。治療のため結果的に残ったんですけど、1軍登録をしてもらえず、練習も参加できなくて、結局2年目を棒に振って日本に帰ってきました。だから非常にいいチャンスを逃がしちゃったんですよ」
「チャンスを与えてもらったということが僕はすごいうれしかったですが、そういういい環境でプレーできなかったのは非常に残念でした」
NBAからの突然のオファー「なぜ自分が」
帰国して大学を卒業した後、1979年に実業団バスケリーグに所属する住友金属に入社し、新人王やリバウンド王を獲得する活躍を見せた。
その年から日本代表にも選手され、バスケを始めてからわずか5年で、日の丸を背負って戦う立場となった。
そして1981年。思いもよらない突然の知らせが舞い込む。NBAからドラフト指名がかかる。
「『えっ、なんで自分が』という思いでした」
ゴールデンステート・ウォリアーズから8巡目、全体171位の指名を受け、日本人で初めてNBAドラフト指名を受けた選手となった。
ところが、岡山さんが入団することはなかった。交渉さえもしなかった。もしこのオファーを受け入れ、NBAの舞台に立つことができていれば、田臥勇太選手がNBA選手となった20年以上も前に、日本人初のNBA選手が誕生していたかもしれない。
バスケ選手なら誰もが憧れる世界最高峰のリーグからの誘いを、なぜ受けなかったのか。いくつか理由がある。一つは、当時アマチュアリーグだった日本の国内リーグや、国際大会への出場資格だった。
当時、NBAなどに所属するプロバスケ選手は、オリンピックや世界選手権(W杯)などの国際大会への出場が認められていなかった。
「当時日本国内の試合も、オリンピックや世界選手権などの国際試合も、プロの選手は出場してはいけなかったんです。『そういうところに行ったら、ひょっとしたらもう日本代表チームでプレーできないし、国内のうちの会社のチームでプレーできなくなるので、とにかく一切交渉するな』ということで終わったんですね。だから名前だけ残っちゃったんです」
加えて、当時の日本バスケ界にとって、NBAは謎に包まれた組織だった。リーグの運営体制やチーム構成、ドラフトや入団の仕組みといった具体的な情報を一切持ち合わせていなかったという。
NBAは今よりもずっと遠く、雲の上の存在で、岡山さん本人も周囲のバスケ関係者も、日本人選手がドラフト指名を受けることを想定すらしていなかった。
「日本のバスケットボール協会も、NBAがどういう組織なのか、ドラフトがどういうことなのか一切分かっていなかったんですよ。だから、日本の野球界みたいにドラフトされたら契約できるチャンスがあるとか、1軍だけじゃなくて2軍もあるとかいろんな憶測があったわけですね。だけどよくよく調べてみると、『1軍の登録メンバーは12名か、無理だったな』というので終わっちゃったんですけど」
八村選手の指名が有力視されている現行のドラフト制度は、全30チームが2巡目までの計60人を、契約を前提に指名する。岡山さんのドラフトは指名枠が10巡目まであり、計223人が指名を受け、うち58人が実際にNBAでプレーしている。
予兆や事前の接触も一切ない、突然のオファーだったと、岡山さんは振り返る。
「8巡目指名ですし、ドラフトされたからプレーできたとは思っていません」
「どういうかたちで自分は選ばれたのか分かりませんし、今思えば、ルーキーキャンプには行きたかった。結局何も経験できなくて、ただドラフト指名されたということだけで終わってしまいました」
こうして、今から38年前、ドラフト指名の日本出身NBAプレーヤー誕生は、幻に終わった。
NBAでも「自分を存分に出してほしい」
岡山さんの現役当時よりも、NBAやアメリカのバスケ界の情報が得やすくなったことで、(日本のバスケレベルが上がるにつれて)八村選手や一足先にNBA選手となった渡邊雄太選手など、NBAを見据えてアメリカに進学する選手が増えている。
「よかったのは、自分の意思でアメリカに行ったことです。アメリカのバスケを体感し、自分は何をしなきゃいけないかっていうことをしっかり身につけて、その先にNBAという自分の目標を見つけたのは素晴らしい」
八村選手に向けて、NBAの舞台でも「自分を存分に出してほしい」と激励の言葉を送る。
「自分が持ってるものを全て出すことです。どの世界も一緒で、最初から全て自分が思うようにはいきません。そこで揉まれて経験を積んで、レベルアップしてほしいです」
八村選手はアメリカの強豪ゴンザガ大学に進学した当時も、1年目は出場機会が限られていたが、2年目はシックスマンとしてチームに貢献するようになり、3年目にはエースとしてチームを引っ張る存在にまで成長した。
全米コーチ協会や、スポーツ専門誌が選ぶ全米「ベスト5」の三度選出に加えて、全米大学男子バスケのポジション別のMVPにも選出。すでにアメリカでも世代トップクラス選手に仲間入りしている。
トッププレイヤーがひしめき合う、NBAという世界最高峰の舞台で、どんなプレイを見せてくれるのか。活躍が期待されている。
「僕はもう、間違いなく通用すると思いますね。だってリーグでベスト5に選ばれてるんですよ。バスケが盛んなアメリカで評価されるというのはすごいことですよ」
八村選手の持ち味は、大型で屈強な選手にも当たり負けしない、ゴール近くでのインサイドプレイ。自身がセンターとして活躍した岡山さんは、八村選手の守りの要の役割に注目している。
「ブロックショットやリバウンド、やっぱり僕はディフェンスで頑張ってほしいです。あとは得点力をつけてくれれば面白いなと思います。インサイドで見せるドリブルからダンク、ああいったプレーももっと、幅広く増やしてほしいです」
そして、八村選手の存在や活躍をきっかけに「アメリカに行く選手が増えてくるならいいと思います」と期待を寄せた。