人々は、自らを取り戻すことを求めている
GAFAが着目し、企業研修の一環として取り入れたことから知られるようになったマインドフルネス。
身体や呼吸に注目し、「いま、ここ」にいる自らのあり様をジャッジすることなく受け入れることを目的にしているという。
IT技術の爆発的な進歩によって、ビジネスの展開はスピードアップした。世界のどこにいようとメールや電話で連絡はすぐさま取れる状態にあり、直接、顔を合わせなくてもインターネット環境が整いさえすればテレビ電話会議もできる。あらゆる言い訳の可能性をしらみつぶしにされて、すぐさま対応することを求められる日常において、感覚や感情を置き去りにすることはないだろうか。
マインドフルネスがこれだけのブームを巻き起こしたのは、立ち止まり、自らを取り戻すことを求めていることを意味しているのではないだろうか。それだけ、「自分」であるということが大切だとも言い換えられるだろう。
いかに自然体でいるかが勝負のカギを握る
私は弁護士として様々な企業の様々な案件に携わる。その度ごとに様々な人々がかかわり、繰り広げられる心理戦に身を置いている。
「駆け引き」「誘導」「挑発」「警告」と、揺さぶりをかけようと挑む相手に臨むことは日常茶飯事である。
クライアントのため、自分に有利な状況をつくることに注力する中で得た教訓がある。それは、いかに自然体でいるかが勝負のカギを握るということだ。
連日の交渉をストレスに感じるのは当然だ。その状態を認めてやることも自分らしく、自然体を保つことにつながる。私は私のスタイルで自然体であれるように努めていることがある。それは、できるだけ心と体を動かすことである。たとえ1時間に満たなくてもジムで運動し、寝る前に3、40分だけでもいいので小説を読んで心を動かす。目の前の課題にとらわれることなく、自由に心と体を動かしてやる。オフィスにこもって戦略を練るよりは30分でも自分を解放してやるほうがいい。
そして、思うような結果が得られなかったときは1、2日と「期間限定」でしっかりといまの気持ちを感じ切っている。
ところで、ビジネスに限らず、行動にはその人の本質的な性質が現れるものである。しかも、利害が絡むビジネスシーンであれば本気度に比例して、情動は行動に表れやすいだろう。
どんなに理論武装をして強がってみせたところで、あの手この手で揺さぶられば「仮面」は簡単にはずされてしまうだろうし、多少のことでは動じない「大物」を演じてみても、ひとたび琴線に触れるような出来事が起これば動揺してしまうこともあるだろう。
言動の一致しない存在は信用に値するだろうか。言わずもがなである。自分以外の誰かを装うことは武装しているとも言い換えられる。ほかの何かで自分を守らなければならないほどに弱い存在であるとアピールしているようなものだ。
そんなリスクをとるくらいなら「自然体」で交渉に臨んだほうがいい。
…それができないから苦しんでいるのだ。という声が聞こえてきそうであるが、いやできる。自分のリソース(ビジネスを行うための資産・資源)を見直してほしい。あなた自身に価値はあるし、強みはある。
ビジネスや交渉に強いのは、堂々としていて、弁舌巧みな人物というイメージがあると思うが、それはただの一つのモデルに過ぎない。気が弱くても、控えめでも、引っ込み思案でも、それが本来の自分であれば何も恥じることはない。言い換えれば、気が弱いからこそ気づけることがあり、控えめだからこそ相手が本音を話すかもしれない。そして、引っ込み思案だからこそ、相手が自ら解決策を提示してくることだってあるかもしれない。自分のリソースをどのように生かすか、方法やタイミング等を十分に考えることである。
真面目な性格の人は真面目に、社交的な性格の人は冗談を交えながら話すスタイルでよい。「自分の目的」を達成するという強い意志と戦略さえあれば、どんな性格の人でも戦える。何者かを装う必要など一切ないのだ。
実際のところ、弁舌巧みに話す人が、必ずしも交渉に強いわけではない。むしろ、控えめで口数の少ない人のほうが強いと言ってもいい。なぜなら、口数が少ないからこそ、その発言の重要性が増すからだ。それを痛感させられたことがある。アメリカの陪審裁判での経験だ。ご存知のとおり、アメリカでは、法律専門家ではない一般人が陪審員として判決をくだす。つまり、陪審員の心証が判決に大きな影響を与えるのだ。
その日は、数人の証人尋問が行われたのだが、そのなかで無類のパワーを発揮した証人がいた。きわめて「無口な証人」である。何しろ口を開く回数が少ないから、陪審員たちはみな、その証人が話す瞬間に集中する。「饒舌な証人」の話は“話半分”に聞くが、「無口な証人」の話には100%の集中力で耳を傾けるのだ。
しかも、「無口な証人」は、大事なことしか口にしない。
それこそ1時間のうち5分くらいしか話さなかったと思うが、その「5分」が裁判にきわめて大きな影響を及ぼした。
臨んだ物事すべてに成功を収めなければいけないと思いすぎてもいけない。人間万事塞翁が馬という言葉があるが、今回は痛手を負ってもその先に待ち構えるドラマによっては、痛手を逆転させることもある。物事の解釈は一つではないのである。
自分らしくあること。そして、自らを愛しみ、自分というリソースをフル活用し、「いま、ここ」で発揮する。答えは簡単である。自分という人間を知ろうとすることこそが勝利への近道である。