俗っぽくて、ゲスな番組『サンジャポ』
のっけからこう書いたのは、悪口や非難のつもりではない。むしろ逆だ。そのことは最後までお読みいただければおそらくおわかりいただけると思う。
TBSが日曜日の午前中に放送している『サンデージャポン』。
”サンジャポ”の愛称で親しまれているトークバラティー番組である。
司会は爆笑問題の二人が務め、笑いや俗っぽい好奇心で様々な話題について切り込んでいく。芸能ネタもあればニュースネタもあって、ゲストとして脚線美や巨乳の女性タレントもスタジオに集め、時折、カメラがその脚線や胸元を舐めるように撮影するなど、「ゲスい」ところ満載の番組である。
だが、この番組には古くからテレビ人が持ってきた「ゲリラ的で型破りなところ」があって侮れない。
かつて日本テレビ系列で平日深夜に放送されていた『11PM』(イレブン・ピーエム)。硬派もエロもごっちゃまぜという、1965年から1990年まで放送された往年の番組と同じような匂いがある。『11PM』が女性のヌードや性風俗などを売りにする一方で、若い頃の筑紫哲也やみのもんたらが出演して笑いの中にある「ジャーナリズム」を追求していたのと同じような「ゲリラ性」を感じるのだ。
コンプライアンス重視で何かと息苦しくなっている感じがどの局も強まっている現在のテレビ番組の中で、爆笑問題という健全なバランス感覚をもった司会者を得て毎週のびのびと放送している(少なくとも、筆者にはそのように見える)。
6月2日は、番組ホームページに以下のように書いてあったので、日頃、変革期を迎えたテレビの行方を注視しながら研究している人間として注目して視聴した。
ところが、この「今後のテレビのあり方」コーナーに行く前の「川崎・20人殺傷事件」のコーナーが充実していたので筆者の目は釘付けになってしまった。ニュースの取材VTRをまとめた映像の後で、テレビプロデューサーのデーブ・スペクターがロシアで開発された防犯監視システムを紹介。「怒り」や「恐怖」等の感情を数値化して表情の映像などで感知する仕組みだという。
メディア・アーティストの落合陽一も、このシステムそのものは今回の事件で有効だったかどうかは微妙だとしつつ、今後はこうしたシステムがいろいろな場面で使われる社会になっていくだろうという見通しを示した。
さらに背景にある「長期化する引きこもり」に伴う社会的な孤立の問題などを『サンジャポ』では、主に50代の引きこもりの人たちが80代の高齢者の家にパラサイトする「8050問題」について解説しながらきちんと伝えていた。
こうした社会的な問題は、感情論に振り回されることなく、専門的な知見に基づいて視聴者に対して問題の「背景」や「構造」をできるだけ知らせるのがテレビ番組の使命である。
この事件については現在、今回の事件が社会に絶望して自殺願望のある人間が社会を巻き添えにして死んでいった”拡大自殺”だという解説が行われ、ワイドショーのコメンテーターやキャスターらが「死ぬなら一人で死ぬべき」という主張を示したことで、テレビでのこうした発言が適切なのかどうかをめぐってネットなどで反論が展開されるなどホットな議論になっている。
通常、こうした事件についてテレビの生放送、特に民放の生番組で放送するときには、さまざまなゲストにいろいろ言わせて終わり、というケースがほとんどなのだが、この日の『サンジャポ』ではいつになく真剣なトークが展開された。議論の多彩さや情報量の多さ、テレビという報道機関が「生放送」で伝える熱量などで、筆者が見たどのテレビの報道番組や情報番組などという名前がついたもの以上に「ジャーナル」(=報道的)だった。
この問題に関してはネットなどでの議論を紹介したのに加えて、レギュラーゲストのテリー伊藤が説得力がある発言 を行なった。
テリー伊藤の言葉はいつになく真剣なものだった。
「今回の(『死ぬなら一人で・・・』という)意見って、”排除の論理”ですよ」
「自分に都合悪くなるとカットしていくという。たとえば高齢者のドライバーが事故を起こす。『だったら高齢者に免許を渡すな』というのと同じようで、何か自分の生活環境の中で、絶対これは・・・すごく・・・・」
そう続けたテリー伊藤は考えた末、以下の言葉でまとめた。
「日本人って否定から入っていく」
(テリー伊藤)
「そうじゃなくて、こういう事件のときに『どうしたら世の中、よくなるのか』という、そっち側の考え方をしていなかないと全部がマイナスマイナスというのは違うと思いますよ」
これに対して、落合陽一が以下のように応じた。
「一人で死ぬか、みんなを巻き添えか、という意見を対立させるのがおかしいんですね」
(落合陽一)
「これとこれで争っているのは本当におかしくて、まずはこういう人をどうやったら孤独から救うかを対比しなきゃいけないのに、ここで論争しているのは本当にナンセンス」
テリー伊藤や落合陽一が発言している間、司会の太田光は滅多に見せないような真剣な表情で考え込んでいるのがカメラに映し出された。
何かを思い起こそうとしているような表情である。「テレビの生放送」ならではの姿である。視聴者も出演者も同じ議論を聞きながら、脳裏で自分の考えを自問自答する時間を共有していた。
これこそ、今なお、テレビ(生放送という意味では表情も見えないがラジオでも可能なので、「放送メディア」)でこそできる芸当だし、だからこそ、生放送での思わぬ展開に太田も真剣に考えこんでいたのだろうと推察する。
この後、相方の田中裕二が「太田さんはどうですか?」と太田に意見を求めた。
そこから、およそ2分40秒の間、太田は自分が孤独に苛まれていた時期の経験を赤裸々に告白して、「犯人」あるいは「犯人になりうる人」または自殺を考えている人たちへの言葉を紡いでいく。
以下の言葉は、太田光という当代きっての芸人であり、才人がテレビ番組というメディアを通じて発したメッセージだ。2分40秒間の全文を紹介する。
「まあ、一人で死ねってい気持ちもまあ、それは要するに『甘えるな』ということだと思うんだけど、この犯人の場合は自分も死ぬわけじゃないですか。自分の命もたいして重く見てないというか、自分が思っているような自分じゃなかったんだと思うんだよ。それって『俺って生きていてもしょうがないな』と。だけど最後に一つ、そういう大きなことをする・・・。でも自分の・・・。これって誰しもが、特定の病気というわけではなくて、そういう思いにかられることは誰しもあって・・・」
このあたりから、太田はまるで犯人の男に話すように、あるいは、自殺や他の人の巻き添え殺人を考えているような人間たちすべてに向かって、というような口調で話していく。そして、自分の体験を話し出す。
「俺なんか、(犯人と)同じ50代ですけど、やっぱり高校生くらいのときに、あー、俺も何も感動できなくなったときがあったんですよ。物を食べても味もしない。そういうときにやっぱりこのまま死んでもいいんだっていうくらいまで行くんだけれども。そうなっちゃうと他人の命も・・・。自分がそうなら(死んでもいいとなるなら)他人の命も・・・。自分がそうなら、他人の命だって、そりゃあ、大切には思えないよね」
太田は自身が自殺を考えていた頃の切実な体験を語り始めたのだ。
そのときに太田が自殺を実行せずに現在にいたるきっかけがあったという。
「だけど・・・、そのときに俺のきっかけだったけど・・・」
こう言って太田はその「きっかけ」について話す。少し前に太田が考え込むような表情を浮かべていたのは、太田がこの自分のエピソードを話そうとしていたのだとわかる。
「たまたま美術館に行って、ピカソの絵を見たときになんか急に感動が戻ってきたの。何を見ても感動できなかったんだけど・・・。ピカソを理解できたってわけじゃないないんだけど、そんときの俺は『ああ、こんな自由でいいんだ』と。『表現って・・・』」
この後の太田の言葉はつかの間あっても考えた末の言葉であることがわかる。
「そこからいろいろなことに感動して、いろいろなものを好きになる。好きになるってことは結局、それに気づけた自分が好きになるってことで・・・。それっていうのは、人でも文学でも、映画でも、何でもいいんだと・・・。
そういうことに心を動かされた自分って、捨てたもんじゃないなって思うの。
生きている生物や人間たちの命もやっぱり、捨てたもんじゃないだと」
「自分は捨てたもんじゃない」「他の人たちだって捨てたもんじゃない」
太田が自殺の淵にあったときに得ることができた「気づき」。太田は今回の犯人とかつての自分が「すぐ近く」にいたと表現する。
この近さこそ、生放送のテレビだからこそ伝わる言葉なのだと思う。
テリー伊藤が太田と犯人と違いについて疑問を挟む。
(テリー伊藤)
「太田さんは自分一人で見つけることができた。彼(犯人)みたいな人はそれができなかった」
(太田)
「それが、つまり、俺は・・・そのすぐ近くにいると思うのは、ああいう彼のような人がそこを今・・・いいや、そこを今、『自分って死んでもいい』と思っている人は、もうちょっと先にそれを見つける・・・。『すぐ近くにいるよ』ってことを知ってほしい、というか、そのきっかけさえあれば・・・と思うんだよね。すごい発見ができる。すごい近くにいると」
太田は今、死を考えている人に、抜け出すきっかけも「すぐ近く」にあると伝える。それはそのまま現在、放送を見ている人へのメッセージになっていた。放送を見ていた筆者は心を打たれてしばらく動けなくなった。
こうしたことができるのも「放送」というメディアがこれまで培ってきたもので、ネットはまだまだ追いついていない。
いつもの『サンジャポ』ならば、他の出演者がまぜっ返したりするところだが、この日の太田の発言はしっかりと時間をとって言わせていた。テレビ番組はその気になれば、こうした「神回」ともいえる素晴らしい放送をすることがまだまだできることを示したといえる。残念ながら、多くの番組はめまぐるしくコーナーを変えていかないと視聴者が他のチャンネルに逃げてしまうという脅迫観念に縛られて、こうした時間的な余裕をつくることはほとんどができない。
太田の発言の全文をテキストにしてみても、太田が話しているときの「間」や口調などのすべてをネットで再現することはできない。
太田はたぶん生放送でテレビの向こう側にいる視聴者とつながっていることを意識しながら、言葉を発したに違いない。
ゲスな「ゲリラ番組」だからこそ、お行儀の良い報道番組などで伝えられないような、深い放送、心に届く放送ができる瞬間がある。
ネット時代にあって、テレビというメディアが何ができるのか。
自らの厳しい人生経験を赤裸々に語った太田の言葉の熱はテレビを通じて視聴者にも届いたはずだ。
太田の2分40秒にわたる語りは「テレビ」あるいは「放送」というメディアの可能性を改めて教えてくれるような気がする。
(2019年6月2日ヤフー個人より転載)